ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第二十六話「真夏の『修学旅行生』たち」




 アーシャよりはゆっくりでも馬車よりは早いかなと言う時間で、『ドラゴン・デュ・テーレ』はトリステイン魔法学院を視界におさめ、裏帆を打ってゆるゆると速度を落とした。
 例によってリシャールは先行し、学院の入り口にアーシャを降ろして正門脇の詰め所へと向かう。
 流石に夏休みだから人がいないというわけでもないようで、やはり本開いてなにやら書き付けている老いた教師が目に入った。
 声を掛けるより先に顔を上げられ、眼鏡越しに見つめられる。……老いているというのは間違いだった。頭は少し禿げ上がっているが、顔つきを見ればリシャールの父と同い年ぐらいの中年男だとわかる。
 リシャールも軽く会釈して、詰め所へと近づいた。
「はて、来客の予定はなかったような……失礼だが、どなたですかな?」
「はい、私はリシャール・ド・セルフィーユと申します。
 こちらで学ぶ友人を迎えに来たのですが、フネを降ろしてもご迷惑にならない場所があればと、先行してお伺いに来ました」
「フネ……?」
 あまりフネで迎えに来る者もいないのだろう、教師は首を傾げていた。
「全長五十メイルほどですし、もしもご迷惑でなければそのあたりの草原に降ろしてもよろしいでしょうか?」
 リシャールは背後のアーシャ越しに、魔法学院を取り囲むだだっ広い草原を指差した。

 コルベールと名乗った中年教師は先日の老教師のように魔法の鈴を振ってメイドを呼び、クロードに来客を告げるよう取り計らってくれた。
 着陸の許可も出たのでアーシャに『ドラゴン・デュ・テーレ』の案内を頼み、リシャールはその場でクロードを待つことにする。
 ジュリアンが少年水兵になっていれば連れてくるところだが、彼はいまだ学舎を卒業していなかった。放り込んで半年と少し、入学の前から読み書き出来た者ならそろそろ卒業かと言うところだが、彼はもう少し掛かるだろう。それに先ほど現れたメイドに聞いたところ、マルトーもシエスタも休暇に入ってるとのことだった。
「夏休みでも、教師の皆さんは交代で学院を守っておられるのですか?」
「いや、私はここに住み込みでね、専用の研究室を与えられている代わりに、人手が足りぬ休暇の間は、こうして学院の仕事を余計に引き受けておるのです」
 手持ちぶさただなとコルベールに話しかければ、彼も暇をしていたのか、リシャールにつき合ってくれた。
 彼は火のメイジで、掘っ建て小屋ながら宿舎兼用の研究施設を与えられており、授業や当番の合間に魔法装置の研究などをしているのだと言う。
 しばらく雑談に興じていると、『ドラゴン・デュ・テーレ』が近くに見えてくる。
「やや、フリゲート艦ではないですか」
「はい、あれがうちのフネです」
 アーシャの先導で草原に降りた『ドラゴン・デュ・テーレ』からは数人のメイジ士官が杖を振って飛び降り、縄ばしごも降ろされて水兵も降りてきた。ゆっくりと錨も降ろされている。
「閣下、停泊位置はあれでよろしいですか?」
「はい、ご苦労様。
 いま呼びに行って貰ってるので、しばらくは待機で頼みます」
「はっ、了解であります!」
 荷物持ちにとやってきた水兵らが整列し始めると、マリーを抱いたカトレアもジネットを従えてやってきた。出迎えと言うよりも、近くで学院を見てみたいというところだろうか。
「まあ! 思っていたよりも大きいわ!
 ルイズはここでお勉強しているのね……」
「今クロードを呼びに行って貰ってるから、みんなもうすぐ来ると思うよ」
「とうさま、おしろ?」
「大きい建物だけど、ここはお城じゃないよ、マリー」
 カトレアたちをコルベールに紹介し、どうも、彼女たちが私の家族です、いやあ、独身の自分には実に羨ましいですなどと話していると、大きめの旅行鞄を手に提げたクロードが手を振っているのが見えてきた。
「おーい、リシャール!」
「ほら、出てきた」
 普通なら荷物は従者やメイドの持たせるものだが、コルベールによれば洗濯や掃除、食事の用意などはともかく、学院では皆自らのことは自らで行うのだそうだ。学生一人にメイド一人を宛うだけでも三百人の増員となるし、家からそれぞれが連れて来るにしても巨大な宿舎が必要になるから、とても受け入れは出来ないとのことだった。
「おまたせリシャール、カトレアさまもお久しぶりです。
 マリー、こんにちは……っと、ミスタ・コルベール!?」
「やあ、ミスタ・アルトワ。
 帰省の届けは出してきたかね? 行方不明は困りますぞ?」
「はい、大丈夫です。いま出してきました」
「よろしい、良い夏期休暇を楽しんできたまえ」
 クロードの荷物は水兵が引き取り、『ドラゴン・デュ・テーレ』へと運んでいった。真下まで運ばれた荷物は、水兵が合図して手を離すせばするすると浮き上がって行く。甲板で待ちかまえていたメイジ士官が、杖を振るっているのだ。
「僕は連絡を貰って自分の用意してから声を掛けて回ったからね、他のみんなはもう少し時間が掛かるかも」
「うん」
 電話で何時に迎えに行くからと伝えることもできないし、リシャールの方も今日必ず迎えに行けるかどうかは不確定であったから仕方がない。
 しばらく待つと男子生徒が二人、やはり大きな荷物をぶら下げながらやってきた。
 一人は眼鏡の真面目そうな生徒、もう一人は少し太り気味の丸い顔をした生徒だった。リシャールとカトレア、そしてマリー、更には後ろに控えたアーシャと『ドラゴン・デュ・テーレ』にも、ちらちらと視線を走らせている。
「リシャール、紹介するよ。
 こちらの彼がレイナール、あちらがマリコルヌ。
 もう一人はたぶん遅れてくるけど、あわせて仲のいい四人組なんだ」
 クロードが彼らの家名を伏せて紹介したので、リシャールは少し困った。手紙の返事には、クロードやルイズも含めて七、八人としか書かれていなかったのである。意図して伏せたと言うよりも、仲が良すぎてそのあたりまで考えつかなかったのだろうが、迎える側としては少し気に掛けておきたい。
 だが、少なくとも彼らの実家は男爵以上で上級貴族の子弟、最初だけは真面目にやるかと、リシャールは若干緊張の見える二人に対し、姿勢を正して一礼した。
「はじめまして、お噂はかねがねお伺いしています。
 私はノアイユ家長子、レイナール・アロワ・ド・ノアイユです」
「閣下! 自分はマリコルヌ・ド・グランドプレであります!」
「初めまして、お二方。
 クロードの幼なじみで今はセルフィーユ『侯爵』家当主、リシャール・ド・セルフィーユです」
 リシャールは、レイナールは文官の家、マリコルヌは軍人の家かなとあたりをつける。家名は聞いたような覚えもあるが、爵位や領地、家系の特色までは思い出せなかった。
 握手を交わして彼らに家族を紹介すると、クロードが不思議そうな顔をしている。
「ねえリシャール、僕は聞いていないんだけど、いつ侯爵になったの?」
「昨日、かな」
「……また何かやったね?」
「さあねえ……」
 流石に話せることではないので、とぼけて空を見上げる。従者時代から、リシャールが簡単に秘密を漏らしたりしない性格であることはクロードも良く知っていたので、それ以上の追求はなかった。それに外界と隔絶された学院には、政治の話題はそれほど入っていないだろう。リシャールは、彼らの耳に独立の話が届くまではとぼけておくことにしていた。
 後続を待っていると、次に現れたのはルイズにキュルケ、そしてもう一人、青髪の小柄な少女だった。こちらに近づく間も口げんからしい様子が見え隠れし、未だ両家の蜜月は遠いようだと苦笑する。
「カトレア、会いたかったわ!」
「ちょっとツェルプストー! ちいねえさまへのご挨拶はわたしが先でしょ!
 ちいねえさま、お久しぶりです!」
「キュルケ、やっとリシャールが重い腰を上げてくれたわよ!
 まあ! 小さなルイズ! 学院生活はどう? 楽しいかしら?」
 カトレアを間に挟んで、喧嘩と挨拶が同時に始まる。リシャールは巻き込まれてはいけないと、マリーを素早く引き取った。
「あなたは二人のお友達かしら?
 わたしはキュルケのお友達でルイズの姉、カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・セルフィーユよ」
「……タバサ」
「じゃあタバサ、わたしも今日からあなたとお友達ね。
 それから、ルイズにキュルケ、二人とも喧嘩しちゃだめよ。お友達でしょ?
 セルフィーユでは仲良く、ね?」
 喧嘩する二人に対し、マリーにするようにタバサを背後から抱きかかえたカトレアが宣言すると、ルイズは渋々と云った具合で、キュルケは彼女たちの母親を思いだしたのか、二人して素直に頷いた。
「もう宰相になった?」
「……なってないよ」
「ねえ、ほんとに宰相なんかになっちゃうの?
 ちいねえさまとマリーも王都で暮らすの?」
「どうだろうなあ……」
 のらりくらりと鋭い質問をかわし、カトレアから解放されたタバサと短い挨拶を交わせば、マリーも興味を惹かれたのか、彼女に手を伸ばそうとしている。
「たばさ?」
「……そう、タバサ」
 マリーにも律儀に答えるタバサに、リシャールは目尻を下げた。
「やあ、おまたせだ!」
「ちょっとギーシュ、先にご挨拶でしょうが!」
 遅れてやってきたこちらの二人には、リシャールも見覚えがある。グラモン家の末息子ギーシュと、モンモランシ家の一人娘モンモランシー嬢だ。
「お久しぶりであります、伯爵閣下!」
「うん、久しぶりだね、ギーシュ殿」
「ギーシュ、おいギーシュ」
「なんだい、マリコルヌ?」
「こちらのリシャール殿は伯爵閣下ではなく、侯爵閣下だぞ」
「へ?」
「頭が高いぞ、控えよギーシュ・ド・グラモン!」
「まあまあ、ギーシュ殿と知り合ったときはまだ子爵だったはずだし……」
 何故かふんぞり返って指摘するマリコルヌのつっこみを流しつつ、流石は若くともグラモン家のご子息、クロード達と違って女連れだなあと妙な感心をしてからモンモランシーにも一礼する。
 名と家名が同語というのは珍しいが、先祖の功労を称えるか何かで、長子に引き継がれているのだろう。残念ながらトリステインにリシャール家はないが、ガリアにはリシャール家があるのだぞと、家族にからかわれた覚えがあった。
「ご無沙汰しています、リシャール様。
 頂戴した『あれ』、大事にしていますのよ」
「それは光栄です、モンモランシー嬢。
 お父上はご壮健ですか?」
「ええ、とても元気です。
 今は領地で忙しくしていると思いますわ」
 ようやく普通のやり取りが戻ってきたなと、リシャールも力を抜く。男共は元気が良すぎたが、タバサは静かすぎた。マリーに髪の毛を引っ張られているリシャールがおかしかったのか、モンモランシーがくすりと笑う。
「こちらがマリーお嬢様ですか?」
「ええ、そうです。
 マリー、モンモランシーさまだよ」
「もんも……?」
「まだ難しいかしら。
 モンモランシーよ、気長に覚えてね」
 小さく握手されて、マリーも握り返している。
「でも本当に、噂通りですわね」
「噂とは……?」
「キュルケから、マリーお嬢様はルイズにそっくりだから驚くと聞いていたもので。
 ……ルイズは姉上にそっくりだと反論してましたけど」
「あー、三人揃って同じ顔してるから……」
「あい?」
 両親や長姉でさえ笑いを堪えていたのだ。仕方ないを通り越すほど彼女たちは似ていると、リシャールも思っている。
「リシャール、これで全員揃ったよ」
「クロード入れて、全部で八人だっけ?」
「うん。
 男が僕、レイナ−ル、ギーシュ、マリコルヌ。
 女性がルイズ、ミス・モンモランシ、ミス・ツェルプストー、ミス・タバサ」
「よし、じゃあ出発だ。
 今からだと、日付が変わる直前になるかなあ」
 のんびりしすぎたわけでもないが、皆でコルベールに挨拶して『ドラゴン・デュ・テーレ』に乗り込む頃には、もう昼に近い時間となっていた。

「ちょっとキュルケ、竜は恐いのよ」
「アーシャ、久しぶりね」
「きゅいー」
「……顔なじみ?」
「おお、見ろよギーシュ、大砲だ!」
「軍艦だからな、大砲ぐらいあるだろう?」
「撃ってみたいなあ、撃ってもいいかなあ」
「勝手に撃ったら怒られるよ、マリコルヌ……」
「あんたたち、あっちこっち動き回らないの!」
 こりゃあ修学旅行の班行動に近いなと、リシャールは軽い頭痛を覚えながらも彼らを一旦貴賓室へと案内した。出航時の忙しいときに邪魔をされては堪らない。
 フネを見学してもいいが士官の言葉には絶対に従うこと、安全に関わるので水兵の邪魔はしないこと、後甲板のアーシャは使い魔で性格も大人しいが間違っても挑発しないこと、お茶や軽食が欲しいときはメイドか水兵に声を掛けること、女性陣は昼寝や着替えをする場合奥の間を使うこと、男性陣は僕の部屋で雑魚寝かハンモックを使うことなどなど……たっぷりと時間を掛けて注意事項を並べ立てる。
「一応このフネは軍艦だからね、そこは気をつけて欲しい。……注意事項はそれぐらいかな。
 あとはセルフィーユに着くまで昼寝するもよし、景色を楽しむもよし、のんびり過ごして下さい」
 フネの向きが変わって安定したことを身体で感じると、リシャールは注意を締めくくった。もう彼らが船内をうろついても、問題は少なく済むだろう。
 自分も少しクロードたちと話をしようかと、リシャールもマントをジネットに預けて気楽な雰囲気を演出した。

 戦闘中でもなく、それに準ずる訓練でもないのに、移動中の騒がしいことと言ったら、このフネが『ドラゴン・デュ・テーレ』と名を変えて以来、初めてのことだっただろう。
 女性陣はカトレアが掌握して、貴賓室で優雅なお茶会が開かれていた。ルイズとキュルケは燻っている様子だが、完全に押さえ込まれている。
 だが男共は艦内のありとあらゆる場所に出向き、砲甲板であの十八リーブル砲はアルビオン製だから命中率がよいだのと知ったかぶりの講釈を垂れ、見張りの真似事をしてメイン・マストの上で望遠鏡を構え、司令室で塩入の香茶に閉口し、竜なら乗ったことがあると一声掛けてアーシャに乗ろうとしたが威嚇されて逃げ出し……コルベールかオスマンに頼んで、引率の教師として誰か学院の大人を連れてくればよかったかなと思わせるほどのやんちゃ振りを発揮した。これでリシャールの言った注意事項は全て守られているのだから、なおのこと始末が悪い。
「クロード、みんないつもこんな感じなのかい?」
「うん、いつも賑やかだよ。
 ここにエイドリアン、オスカル、ギムリ、ヴィクトルあたりが加わると……」
「……加わると?」
「大抵は罰当番の清掃をすることになるんだ」
 クロードは大げさにため息をついて、肩をすくめた。彼なりに学院生活を楽しんでいるらしいと、肩を叩いてやる。
「僕はもう、誰かに罰当番で掃除をするように言われることもなくなっちゃったからなあ。
 少し、羨ましいね」
「侯爵様が箒片手に廊下の掃除なんて、見てる方の心臓に悪いよ。
 中庭のゴミ拾いでも同じだけど……」
「制服を着れば、絶対にばれないと思うんだけどなあ」
 甲板の縁に身体を預け、二人でくだらない話をしながら風に吹かれていると、ようやく見学に飽きてきたのかレイナールがやってきた。
「ギーシュとマリコルヌは?」
「あいつらは艦長に怒られてるよ。
 司令室で騒いだらしい。
 椅子に座ってお茶を勧められてたし、丁寧に扱われていたけど、あれはどう見ても説教だった」
 やれやれと肩をすくめたレイナールは、リシャールにも頭を下げて謝った。
「申し訳ありませんでした、侯爵閣下」
「ここは軍艦だって、リシャールがわざわざ口にしてたのに……。
 二人にはいい薬だよ」
「フネの中では指揮系統の問題もあって、時には領主よりも艦長の方が偉いぐらいだからね。
 ……ああ、それとレイナール君」
「はい、侯爵閣下?」
「僕のことはクロードと同じく、リシャールでいいよ。
 改めてよろしく」
「え、あ、しかし……」
「リシャールがいいって言ってるんだから、いいんじゃないのかな?」
 後からやってきた、こってりと絞られてへろへろになっていた二人も含め、『ドラゴン・デュ・テーレ』を下りる頃には気楽な関係が出来上がっていた。キュルケからは、リシャールが初めて年下に見えたと微妙な表情で告げられたが、そういうことなのだろう。

 セルフィーユに到着したその日は夜半になっていたので早々に部屋を割り当てて休ませ、翌日から本格的な休暇を楽しんで貰うことになっていた。各部屋に寝酒を放り込んでそれでしまいというのは楽だったが、明日からは大変そうだと、自分もカトレアとマリーにお休みのキスをして早々に寝る。
 翌朝、大食堂がこれだけの人数で埋まるのは義父や祖父らが揃いでもしないとないことで、リシャールも少し早起きして厨房に入り込んであれこれと注文を出したり、前日出来なかった準備の不足分を確認して方々に指示を出したりと、少し忙しい朝となった。裏方の従者やメイド達も総動員で、全員集めて訓辞をする暇もない。
「ルイズとキュルケを筆頭に皆名家のご子息ご息女で、その上魔法学院の食卓で美味いものに慣らされているでしょうから……こちらは少し奇を衒う方向で行きましょうか」
「しかし旦那様、奇を衒うと申されましても、どうしましょうか?」
「今日の晩餐は立食会形式にして、好みを把握しましょう。
 その上で方向性を決めたいと思います。
 レジナルド殿は申し訳ないですが、菓子の方に専念して貰わないといけないかも知れません。
 カトレア入れて女性五人だと、必要な茶菓子の数が数倍に増えるというのをすっかり失念していました……」
「腕の振るいどころです、閣下。
 そちらはお任せ下さい」
「では私はもちろん、正餐の方に力を入れさせていただきましょう」
 一人二人だと朝に好みを聞いて用意をしておくようなことも多いが、人数が多いなら見栄えも兼ねて、数段重ねの菓子置きに各種茶菓子を並べる。そして菓子を作るのは、見た目以上に手間暇が掛かった。
 領内各所から食材を取り寄せる手間はともかく、王都では陞爵式の合間に家臣達が香辛料や酒類、そちらでしか手に入らぬ食材などを買い集めている。留守中もコルネーユ料理長やレジナルドは、時間のかかりそうな仕込みに手を着けていた。

 朝食も賑やかならその後のお茶も騒がしく、リシャールは大丈夫かなあと後ろ髪を引かれる思いで城を後にした。今日彼らには、領内を観光に回って貰う予定だ。
「侯爵になったからと言って、ほんとに何も変わらないなあ」
「リシャール?」
「……ごめん、なんでもないよ、アーシャ」
 今日は登庁してすぐに陞爵を知らしめる触書を出し、王都訪問の間に溜まった書類を片付けなくてはならない。
 だが城から庁舎まではほんの一飛び、あれもこれもと考えるほど通勤時間は長くなかった。
「おっと……」
 マルグリットの指示か、庁舎に入れば官吏が並んで待ち受けていた。
 一斉に礼をされて戸惑うが、こちらは客人の逗留で受ける影響と言えばリシャールの不在が多くなるぐらいで大きな変化はなかったから、この場で陞爵の挨拶ぐらいはしておくかと頷く。
 いや、一つだけ重大なことがあった。いい機会だ。
「あー、皆さん、顔を上げて下さい。まずは報告します。
 一昨日のユルの曜日、私は王城にてアンリエッタ王太女殿下より正式に陞爵を受け、当家は侯爵家となりました。
 関連してここも騒動に巻き込まれるかも知れませんが、『なるべく』最小限に留めたいと思っています。
 もちろん、私は皆さんの示してくれたものを知っていますし信頼もしていますから、侯爵になったからと言って、実は全く心配も憂慮もしていません」
 くすりと笑って雰囲気を和らげる。実際、庁舎の皆はよくやってくれているとリシャールは思っていたから、褒め言葉に躊躇いはない。
「ついでにもう一つ、こちらは公表があるまで内密にするよう頼みます。
 ……陞爵のその日、私は殿下に爵位と領地を返上し、トリステインより出奔したいと願い出ました」
 居並ぶ官吏達には僅かに動揺が走ったが、リシャールは一つ頷いてそれを鎮め、話を続けた。
「皆さんも、私が宰相になるかも知れないと聞いたことがあるでしょうが、その延長で政争に巻き込まれたようなものだと思って下さい。
 そして大事なことですが、この出奔についてはアンリエッタ殿下と現宰相であるマザリーニ猊下より、その場で内諾を頂戴しました。
 私は領地と爵位は安堵されたまま出奔し、この地には、数ヶ月の内にセルフィーユ侯国が誕生する予定となっています」
 今度は別の緊張がその場を支配する。
「名前だけは侯国と立派ですが、その実態は諸侯領とほぼ変わらないもので、クルデンホルフのような衛星国ですらない小さな国だと思って下さい。
 街道工事も継続しますし、トリステインとの間には関所すら作られぬでしょう。
 ……とまあ、このようなわけで、表看板はかわりますが、皆さんの仕事はこれまで通りで変わらないし、領民の皆も生活はそのままです。
 世間では色々と噂が流れていますが、流言飛語に惑わされず、各人が行うべき仕事をしっかりと完遂するよう努力して下さい。
 以上です」
 リシャールは内心を表に出さず、もう一度、官吏達に笑顔を向けて見せた。




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