ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
挿話その六「復讐者の独白」




 アニエスは主人である伯爵一家に見送られてセルフィーユを後にすると、定期便の『カドー・ジェネルー』号にて王都へと向かった。
 彼女にとって王宮での勤務は、千載一遇の機会でもあった。
 娘の安全を任せるほど信頼を寄せてくれたセルフィーユの領主夫妻や、以前から何かと世話になりセルフィーユに居着いてからも見守ってくれていたクレメンテ司教には申し訳ないが、これも一つの運命なのかもしれないとさえアニエスは思っている。危ない橋を渡る覚悟は、とうに出来ていた。王宮のどこかには、アニエスの故郷を焼いた者がいるはずなのだ。
「しかし、この餞別はやりすぎです、領主様……」
 引っ越しの荷物は大柄な行李が三つになってしまったが、これには彼女も苦笑している。当初は幾枚かの手紙に着替えなどの生活用品だけであった筈が、衛兵隊の装備として貸与されていたサーベルや短銃はそのままアニエス個人に与えられ、更には新たに下賜された従軍用の軽鎧一式に試作品と思しき刀剣や短銃がそれぞれ複数、使い心地を試して欲しいと伯爵に手渡された、心許ないほどに薄くて軽いが服の下にも付けられるという触れ込みの胸当てや手甲など、行李の中はどこの武器庫だと言わんばかりであった。
 剣や鎧には間違いなく魔法がかけられており、買えば一体幾らになるのかと考えることさえ野暮だろう。平民であるアニエスが生涯で稼ぐだろう金貨を全部積んでも、これだけの装備は揃うまい。ましてやその作者は『鉄剣』の二つ名で世に知られる錬金魔術師、セルフィーユ伯爵自身である。
 王宮にはそれだけの仕事が待っているのだろうと気を引き締め、行李を伯爵家別邸から馬車を回して貰って預けると、アニエスは挨拶もそこそこに王城へと足を向けた。
 王太女殿下直筆の紹介状の威力は大したもので、王城の城門ではすぐに小者を付けられて奥深くへと案内されると、出迎えた侍従長より先日紹介されたルーセ夫人とド・ゼッサール卿の元を順に訪れるように指示をされ、幾らかの打ち合わせと必要な前準備についての講義を受けることになった。

 基本的にはセルフィーユにいた頃と変わらず警護の対象を守るということに終始するが、その規模も来客の数も段違いのようで、流石王宮と頷くしかなかったアニエスである。
 特に王宮が広いことは、彼女に嘆息させていた。広いだろう事は幾度かの登城で知っていたのだが、守るべき人は一人でも出入りする場所が多すぎて、予め言い渡された人数では些か不都合を感じている。
 そもそもアニエスが任される予定となっているアンリエッタの私的な空間は、寝室や私室、勉強室、私的な応接室、衣装部屋に風呂に化粧室など数が多い上にそれぞれが複数存在し、その面積だけでもセルフィーユの城の本館全部に比べれば若干狭い『かも知れない』という程の広さを誇る。一番最初考えていたようにアンリエッタへと四六時中張り付いて、本人のみを警護するしか選択肢はなかった。
 無論、王宮には魔法衛士隊が元より存在する。三つある魔法衛士隊には国中から選りすぐられた騎士達が数多く集められているが、その守備範囲は王城の全てであった。王族の住まう狭い意味での王宮の奥向き部分から公務に使われる宮廷、政務の中枢である王政府、貴族院や王軍の司令部、城門、厩舎、庭園と言った付属施設までを考慮すれば、彼らの任務を補う衛兵隊があってもなお足りないと言うのが本音であろう。
 それでもどうにか体面を保てていたのは、王城に攻め入られるような事態が発生しなかったことが主要因であるかも知れない。

 夕刻遅くになってアンリエッタ王太女に召し出されたアニエスは、人払いがされた彼女の私室の一室で席を勧められ客人となっていた。多少緊張しているが、それが多少で済んでいるのは、過去に護衛をしていた相手であることが大きく影響しているだろう。
「アニエス、あなたとは少しお話をしたいと思っていたのよ」
「……ありがとうございます、殿下」
「あら、『アン』でもいいのよ?」
 王太女の手づから注がれたワインに、手を着けていいものか迷いつつも乾杯を彼女の健康に捧げる。カトレア夫人より詰め込みで貴族子女の作法の真似事を仕込まれていたのが早速役に立つとはと、アニエスは少しだけ笑顔を作った。
「まずは……無理を言ってごめんなさいね。
 わたくしが居なくなると、トリステインが消えてしまうかも知れないの。
 国を立て直すより先に、身を守ることを考えなくてはいけないのが少し情けないかしら」
 ぐーっと伸びをしてくつろいだ様子のアンリエッタに、引きずられてはいけないなとアニエスはワインに手を伸ばした。これまで飲んだこともないほどの逸品だとわかったが、ここはそういう場所なのだと気を引き締める。
「それはともかく、わたくしはアルビオン行きの二週間余りであなたが示してくれたものに、頼らざるを得ないの。
 今はまだ大丈夫よ。でも、これからはそうも言っていられなくなります。
 ……またリシャールに借りが出来てしまったけれど、もう気にしていられる余裕もないし、後でまとめて返すことにしたわ。
 ああ、アニエス、あなたにも借りを作ってしまったかしら?」
 王族の前では借りも何もあったものではないとアニエスは知っているが、働きぶりを評価されていることは間違いないらしい。
「いえ、わたしは平民です。伯爵家衛兵隊への勤務でさえ、大変名誉なことでした。
 ましてや、望まれて王宮の衛兵に取りたてられるなど……」
「そうかしら?
 空賊との戦いでは、カトレア殿とともにガーゴイルを撃破する功があったでしょ?」
「カトレア様のご命令に従い、咄嗟に短銃を撃っただけであります」
「ガーゴイルを前にそれが出来る侍女など、この王宮にはおりませんわ」
 確かにそうかもしれないと、アニエスは頷いた。それ故に彼女は王宮へと呼ばれたのだ。

 アンリエッタは少しだけ減ったアニエスのグラスにワインを注ぎ足すと、悪戯っぽく微笑んだ。
「話は変わるけれど、アニエスには、リシャールと言う領主はどう見えるのかしら?」
「領主様、ですか?」
「ええ、リシャールの噂話は時々聞くわ。でも、実際にセルフィーユで暮らしていたあなたから直接聞いてみたかったのよ。
 伯爵家の税収は確実に上を向いているし、彼が主導する街道工事も順調のよう。
 でもね、それだけの負担の元、そこに暮らす領民の生活は本当に向上しているのか、リシャールの領内での評判はどうなのか……。
 あなたも知っていると思うけれど、リシャールは将来、この国の舵取りの一端を担う存在になるかもしれないの。
 その時に、国庫は富んだけれど民に負担を強いたせいで国力が落ちた、叛乱が起きたでは、わたくしや宰相の目が曇っていたというだけでは済まされないわ。
 アニエスには答えにくいかもしれないけれど、これは王太女としての命令よ、正直に答えて」
 一瞬返答に窮したアニエスだったが、姿勢を正して口を開いた。以前にも領主リシャールの困窮振りについて、アンリエッタから聞かれた時のことを思い出す。
「では畏れながら……。
 わたしは、セルフィーユに流れ着くまでは傭兵として身を立てながら各地を転々としておりましたので、以前のセルフィーユは存じません。
 それに主な勤務先が城でありましたので、あまり街に降りる機会がありませんでした。
 ですが領軍の兵士として雇われ、その後衛兵隊に取り立てられ任務をこなす間に気付いたことがあります」
「何かしら?」
「セルフィーユに来てからの事ですが……驚くべき事に、一度たりとも給金の遅配や減額、踏み倒しが無かったのです」
「……えーっと、そこは驚くところなの?」
「はい。
 戦果だけでなくこちらの態度や状況の変化を理由に、約束の金さえ出し渋るのが雇い主というものだと思っておりましたので……。
 もちろん、兵士以外のメイドや家臣からも、そのような話を聞いたことはありません」
 アンリエッタは不思議そうにして考え込んでいたが、アニエスら平民にとっては非常に重大なことである。ただ働きでは生活が成り立たないのだ。
「……アニエス、セルフィーユ家にメイドや従者は何人ぐらいいたかしら?」
「城勤めと王都の別邸、合わせて五十人は下らないかと……」
「庁舎の方は?」
「各支所や王都の商館を含めて、やはり五十名ほどであったかと思います」
「常備軍の他にも空海軍と、あなたがいた衛兵隊もあったわね……」
「ほぼ領主様の私兵と見なされている聖堂騎士隊まで含めれば、軍関係者は全部で二百五十と少しであります。
 ……殿下!?」
 アニエスの答えに、アンリエッタは何故か頭を抱えて突っ伏した。そのままの姿勢で質問が続けられる。
「……セルフィーユの聖堂は、教会領がない代わりに運営費も彼が殆ど出していたのだったわね。
 そういえば、街道工事の方も、きちんと給金は支払われているのかしら……?」
「彼らは日雇いです。前日の給金が出ていないのに翌日も働こうとする者など、居はしないと思います」
「もちろん、苦役ではないのよね?」
「はい、工事も含めて苦役が行われたなど、犯罪の懲罰以外では聞いたこともありません」
「……宰相の台詞じゃないけれど、リシャールの異常さがようやくわたくしにも理解できそうだわ」
 大きなため息が、突っ伏したままのアンリエッタから漏れ聞こえた。
「評判の方は、聞くまでもなさそうね?」
「変わったお方だと耳にすることは多いです。……概ね好意的ではありますが」
「そうなの?」
「先日など、城内の何処にもおられないと騒ぎになりかけたのですが、厨房の一角にある食料庫内にて、料理長達とカブの葉を片手に論議を交わされていたそうです」
「……カブの葉っぱ!?
 あまり食べないわよね? それをリシャールが?」
 勢いよく起きあがったアンリエッタに、話題の選択を間違えたかと後悔したがもう遅い。誤魔化すことも出来ず、アニエスは恩義ある領主に内心で詫びながら話を続けた。
「……はい、飢饉の時は別として、平民にも普段は家畜の餌ですが、美味しい食べ方が出来るのではないかと真剣な目でカブの葉を見つめていらっしゃったとか。
 しばらくは酢漬け、塩漬け、煮物、炒め物、蒸し物と色々なものを自ら試されていました。
 料理長らは随分と頭を痛めていたようですが、今では時折、カブの葉料理が領主様の酒肴として出されるようになりました」
「何故そうまでして、リシャールはわざわざカブの葉を食べようとするの?
 わけがわからないわ……」
「いえそれが……私も一度ご相伴に預かりましたが、完成品は青臭さも抜けていて見かけの割に美味だったのです。
 浅く塩漬けしてから塩を抜き、軽く湯がいて特製のソースをかけた料理と教えられましたが、その後しばらくして街の酒場でも一品として出されるようになり、今では適度な塩味とすっきりとした後味が辛口の蒸留酒に合うとして領内では認められております。
 カブの葉じゃ貴族のお客様には出せないねと、領主様は笑っておられましたが……」
「前置きがあっても、人によっては侮辱に受け取るでしょうね。
 ……でも、その様な噂が領民の口に上るということは、リシャールは領主として受け入れられているのかしら?」
 意外と真剣な目でこちらを見るアンリエッタに、アニエスは小さく頷いた。
「もちろんです。
 ……わたしも受け入れざるを得ませんでした」
「アニエス?」
「わたしは……セルフィーユへと来る以前、全てのメイジを憎んでいました」
 アニエスはきつく目を閉じると、アンリエッタへと懺悔するように両の手を堅く組んで俯いた。

 失礼いたしました、酔いが回っていたのかもしれませんと詫びたアニエスに、アンリエッタは立ち上がって椅子を寄せ、手が触れるほどの位置に座り直した。あるいは、アンリエッタにこそ酔いが回っていたのかも知れない。
 後にこの一夜のことを思い出して、あの時は二人してその場には居ないリシャールに酔わされたのだと笑うことになるが、身分の差を超えた信頼と、友情とは似て異なる不思議なつながりが、彼女たちの間に出来上がった瞬間でもあった。
「……今はどうなのかしら?」
「……今はわからなくなりました」
 心のもやを払うように、アニエスは大きくグラスをあおった。
「……わたしはダングルテールの生まれです。
 殿下はご存じですか、その名を?」
「聞き覚えがあるような気はします」
 その村で起きた『ダングルテールの悲劇』について、アニエスは極簡単にまとめてみせた。
「いまはもう、その村はありません。
 二十年ほど前になりますか……わたし以外、全員が焼き殺されました」
「な……!!」
「疫病が流行ったためなどと表向きの理由がついていますが、その村は新教徒の村でした。
 ありもしない叛乱をでっち上げられ、全てが燃やされたのです。
 当時三歳のわたしには、何が起きているのかさえよくわかりませんでした。
 後になって、ロマリアからの依頼でトリステインの重臣の誰かが実行したという話は聞きましたが……」
「待って! それは聞き捨てならないわよ!?
 ロマリアからの依頼で重臣が動くなんて、聞いたこともないわ!」
 ぎゅっとアニエスの手を握り、アンリエッタは目をつり上げた。反対に、アニエスは目元をほんの少しだけ緩めた。
「……実は、ロマリアから指示を出した者の名はわかっております」
「誰?」
「先々代のロマリア教皇聖エイジス三十世と、当時は枢機卿であったペトローニオ・フィアンディーノこと、先代教皇聖エイジス三十一世であります」
「そんな……それは、間違いないのね?」
「当時ロマリアにいた、新教徒の司祭の言葉です」
 今度はアンリエッタが打ちひしがれる番だった。如何に全ブリミル教徒を統べる教皇とは言え、普通に考えればトリステインの王を飛び越してその家臣に指示を出せるはずもない。
 それに二十年ほど前と言えば祖父である『英雄王』フィリップ三世が亡くなった前後で、彼女の父アンリ王に代替わりしていたとしても、いまのトリステインよりは強固な体制下にあったはずだ。
「……新教徒に過去、各地で教会に反旗を翻そうと企てていた者たちがいたことは事実です。その為に、各国で弾圧が苛烈化したこともありました。
 ですが、全ての新教徒が叛乱を起こそうとしていたわけでもありませぬ。
 信仰に縋るところを見出し、ただただ始祖に感謝と祈りを捧げている者が大多数です。
 世間では一括りにされていますが、それすらもロマリア宗教庁の策略でありましょう」
 はあっと大きくため息を吐いたアニエスは、失礼と断ってワインの瓶をたぐり寄せた。それが一体どれほどの不敬か……などということは、既に霞んでいた。
「ここ数年はロマリアも他のことで忙しいのか、新教徒への弾圧は一時ほどではなくなりました。
 新たな教皇も今は地歩固めの時期らしく、その目はロマリア国内に向けられているそうです」
「……あまりの清貧さと信仰心に、今の教皇聖下は『新教徒教皇』などと影で呼ばれているそうね」
「……らしいですね」
 アンリエッタは清貧と信仰心だけが売りの教皇などありえないと。
 アニエスは自らの心と人生の足跡に照らして。
 とんだ皮肉だと、彼女たちは笑った。

「でも、今はメイジのことがわからなくなったのよね?」
「……はい」
 アンリエッタは魔法技を見せつけるように杖を振るって、自分のグラスを引き寄せた。
「わたくしのことも、憎い?」
「……いいえ」
 アニエスは再び面を伏せた。小刻みに震える手に、アンリエッタがそっと手を重ねる。
「わからなくなった時点で既に答えは出ているも同然ですが……昔はメイジを見れば、誰も彼もが敵に見えたのです!
 特に火のメイジは、目の前にいるだけで視界から消し去りたくなって!」
 アニエスは赤くなった目を矢にして、アンリエッタを射抜こうとした。
「今もダングルテールのことは、決して許せることではありませぬ!
 出来るなら復讐し! 断罪し! 全ての関係者を地獄へ葬り去りたいとも思っております!
 そのことだけは今も変わりませんが……『ある人』に問われたのです。
 新教徒の全てが叛乱者ではないように、メイジの全てが村を焼き尽くすような悪魔か、と」
「アニエス……」
「……その言葉で、思い出したこともありました。
 わたしの命が助かったのは、その村を焼いたメイジが……わたしを助けたからなのです」
「そんな、どうして……」
「何故そのメイジが自分を助けたのかは、わかりません。
 杖を手にした男に背負われていたことや、その背中から焼け焦げた臭いがしたこと、気が付けば毛布にくるまれて海岸で眠っていたこと……。
 もう朧気にしか憶えていませんが、恐らくは事実です。わたしはその記憶を消すことも、否定することもできませんでした。
 ……同時にその『ある人』からは、貴族を、メイジを、そして人というものを己の目でしかと見極め、自身の答えを出すようにとも言われました。
 そして、セルフィーユ家への紹介状を認めて下さったのです」
 アニエスは知らぬうちに涙を流していたことを、アンリエッタに拭われて初めて気付いた。
「……そこで初めて、リシャールやカトレア殿に出会ったのね。
 あなたはどう思ったのかしら、リシャールのことを」
「……もう今更なので殿下には飾りませぬ。
 領主様を初めてお見かけしたときは、メイジへの憎しみがどうと言うことも忘れ、子供が領主でこの領は大丈夫なのかとの疑問を態度に出さぬよう、表情に苦労した憶えがあります」
「あら酷い」
 ぷっと吹き出したアンリエッタに、アニエスは泣き顔の戻らぬまま、ええ、酷いと思いますと首肯してまた一筋涙を流した。
「ですがセルフィーユでは、一筋縄で行きそうもない村長やギルドの長や、わたしから見ても歴戦の手練れに思える軍人たち、それに紹介状を与えて下さった方までが、その子供には本気で敬意を払っていたのです。
 ……その理由は、やがてわたしにも見えてきました」
「知りたいわ、その理由」
「領主様は、もしかするとご本人さえお気づきになられていないかも知れませんが、約束を守ることに一生懸命なお方なのです」
「約束……?」
「本当に、ただそれだけのことなのです。
 ……約束事の全てが守られることなど、人が生きていく上でありえないことかもしれませんが、領主様は可能な限り守ろうと努力されています。
 それがその土地で暮らす者にとってどれほど安心できることか、言葉には出来ますまい。
 影では領主様の年の頃や……奇行と言っては言い過ぎかも知れませんが、先にお話ししたカブの葉の件のように一風変わった目の付け所をお持ちで、それらをからかうような発言は今もよく耳にします。いえ、むしろ以前より多くなったほどです。
 しかしながら本気の恨み言や、領主様やそのご家族を故なく貶めるような言葉は、誰も口にしません。
 ……もちろん、わたしもです」
 そう、少しだけわかった気がするわと、アンリエッタは微笑んだ。

 残り少なかったワインを二人で分けると、瓶は空になった。
「ねえ、アニエス」
「はい、殿下?」
「セルフィーユに新教徒は多いの?」
「幾人かは見知っております。正確な人数はわかりません」
 間違いなく同じ新教徒だとアニエスが知っているのは、クレメンテ司教とその周辺の数人だけだ。他にもいるのかも知れないが、聞いてまわるようなことではなかった。
「少し考えていたのだけれど、リシャールはアニエスや他の新教徒が、新教徒だと知っているのかしら?」
「知っておられるのではないかとは思いますが、本当のところはわかりません。
 ただ、そのことを知っておられてもおられなくても、領主様のご様子や態度はあまり変わらないような気がします」
「そうね、わたくしもそんな気がします。
 領民が新教徒かどうかは、リシャールが守ろうとする約束には関係ないのかも知れないわね。
 ……ふふ、わたくしも少し見習ってみようかしら」
 アンリエッタはくすくすとひとしきり笑ってから、真面目な様子に戻った。
「明日の朝、いつものように宰相とお話をするわ。
 普段は人払いをするけれど、あなたは護衛の形式を模索中として同行なさい」
「はい、畏まりました」
「議題は……二十年前、ロマリアからの命令で動いたというトリステインの重臣について」
「殿下!?」
「アニエス、宰相は確かにロマリアの出身だけれど、心配はしなくていいわ。
 わたくしの亡きお父様との約束を守るために、確実視されていた至尊の聖座を蹴ってまで、この貧乏国で四苦八苦することを選んだ人なの。
 ……それが一体どれほどのことか、わたくし、今になって少しづつわかりはじめたわ」
 一気に酔いが冷めたアニエスに、アンリエッタは小さく頷いた。
「いいこと、アニエス。
 あなたが復讐を望む相手は、同時にわたくしには獅子身中の虫かもしれない相手なの。
 教皇聖下は……いえ、教皇は新しくなったけれど、もしかするとその虫は未だにロマリアと繋がっているのかもしれないと思い至って、氷の剣を背中に当てられている気分になったわ。
 ……次は一体、どんな命令がロマリアから届くのかしらね?
 わたくしや宰相の暗殺依頼かしら?
 それとも……ありもしないセルフィーユの『叛乱』とやらを鎮めに、王軍の連隊や魔法衛士隊が勝手に出撃するのかしら?」
「……」
「出来れば即位前に解決しておきたいけれど……少なくともその相手が誰かと言うところまでは、わたくし、どれだけ時間がかかっても必ず突き止めます。
 アニエス、あなたはわたくしの側でそれを見届けなさい!」
「……御意!」
 アニエスは、迷うことなく跪いて首を垂れた。

 その日はアニエスを帰した後で、ワインをもう一本運ばせたアンリエッタである。話が重すぎて感情が高ぶり、寝付けなかったのだ。
 そして翌朝。
 宰相の執務室にて、アンリエッタはマザリーニの知る別角度からの情報によってアニエスの言葉が真実であることを知り、アニエスはアンリエッタの身に本当の危険が迫りつつあることを知った。
 もう、戻れなかった。




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