ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
挿話その五「ジネットの一日(午後編)」




「みんなで食べればいいかしら……」
 しばらく迷ってから旦那様より堅焼きパンの包みを頂戴し、持ち帰ったジネットであった。そのままでは食べにくくとも、蜂蜜でも添えれば宿舎内で時々開かれる小さなお茶会には上等だ。
 だが今は庁舎の昼休みの真っ最中。官吏には休憩でも、彼女たちには仕事の時間であった。悠長なことはしていられないと、小走りに支度部屋へと戻る。
 ジネットは、今度は予定通りに留守だったマルグリット女史の執務室の掃除を終えると、食後の茶の準備をしているナタリーに先行し、深めの寸胴鍋を下の段に備えたワゴンを押して廊下に出た。茶杯を回収して回るのだ。

 この庁舎には普段から三十人近い官吏が詰めているのだが、彼らに供される茶杯の数はその十倍程度用意されていた。平素から全てを使うことはないが、洗い物を後回しに出来ることと、危急の際には炊き出しの食器としても使われることからこの数が維持されている。ジネットの一家が引っ越して来る前のこと、セルフィーユの港で商船が座礁して船員が助け出された時、庁舎の前にある『海鳴りの響き』亭の食器が足りなくなったことがきっかけであったと聞いている。
 この茶杯は今年から領内となった山向こうの村にある焼き物工房で併合前より作られていて、旦那様が自ら原型を作られたそうだ。
 姿形は兵士が野営の時に使う金属食器と似ているだろうか。冷めにくいようにと厚みをつけてあるので安定もよく、炊き出しの汁物がたっぷり入るほど茶杯にしては大柄で底が深かった。受け皿も茶器にしては深底で、やはり食器として使えるように作られている。
 以前は旦那様も同じ物を使われていたらしいが、庁舎派遣のメイドからそのことを聞きつけた筆頭侍女より上申という名のお小言があって以後、旦那様とマルグリット女史にだけは王都で買い入れた高級な薄手の茶器が用意されている。

 受付、官吏の詰める大部屋、父ら法務官のいる法務室、そしてもちろん旦那様やマルグリット女史の執務室を順に巡って茶杯を回収していく。寒いこの時期は、殆どが空になるので多少は楽だった。
 支度部屋に戻れば、既に昼の御茶を配りに出ているのかナタリーは留守で、午後の鐘当番はまだ廊下に出ていなかったが感覚としてはもうぎりぎりの時間である。これも官吏たちが食事から戻り、昼の休憩が終わる前の時間を見計らって配りに出るのが理想とされていた。
 とりあえず先にお客様を迎える準備を整えておこうと、ジネットは客用の茶杯などを空きワゴンに用意し始めた。食事はいつも後回しだが、今日のこの状況でも、運が良ければ自分かナタリーのどちらかが向かいの『海鳴りの響き』亭に駆け込めるはずだ。今日に限れば旦那様より頂戴した堅焼きパンもあるから、少なくともお昼抜きにはならないだろう。
「お待たせー」
「おかえりー」
 戻ってきたナタリーに洗い物を任せ、ジネットは客を迎える準備の完成を急いだ。
 ワゴンは頑丈かつ音の静かなゲルマニア製で、用意された茶器とティーポットはアルビオンのロンディニウムで旦那様が自ら買い求めた逸品、蜂蜜の壷はトリスタニアの貴族御用達の名店からの取り寄せだし、香茶の葉はガリア南部産の高級品だ。
 取り扱いにはいつも気を使うが、幸いにしてそれぞれの単価は一生かかっても弁償しきれないほど高くない。基本的に庁舎は官吏の仕事場であり、極端に身分の高い客を迎えないからだ。一定層以上の賓客は、お城の領分なのである。
 ……とは言いつつも、油断が出来ない庁舎であった。メイドになってほんのひと月、お城の仕事にようやく慣れた頃のように思う。確か奥方様のおめでたがわかって城の方に旦那様のご親族である公爵夫妻と伯爵夫妻がお泊まりになると言うので、そちらは慣れたメイド衆で城を固めることになり、ジネットは右も左もわからないままにあなたはこちらと庁舎に回されたことがあったのだ。昼の内は覚えることが多くて単に忙しいだけで済んでいたが、視察を終えた公爵様と伯爵様は旦那様とともに執務室へと詰めてしまい、緊張しながら何度も何度も茶杯を取り替えに行った憶えがある。

 数年前は庁舎も人が少なくメイドもおらず、本当かどうか、来客の際にはマルグリット女史が自ら茶道具の用意をしていたらしい。いまではこちらに出される新人が必ず最初に読まされる庁舎用の注意書きが記された冊子にその名残があるぐらいで、城から通うメイド達がその全てを引き継いで任されている。
 ちなみにその冊子のところどころには、不思議なことに旦那様の文字で注釈や追記が入っていた。
 いくら旦那様が料理名人で身支度や部屋の掃除に手の掛からない人だとは言っても、ご自分で庁舎の御茶当番なんてことはないだろう。
 メイド仲間達がそう言って笑っているのを、ジネットは何とも言えない複雑な気持ちで見なかったことにした。……恐い想像になりそうで皆には告げられなかったが、あの注意書きはたぶん、実際に御茶当番をして気付いたことをお書きになられたのだと確信していた。ジネットは旦那様が昔、伯爵公子付きの従者をしていたと本人の口から聞いて知っているのだ。

「これはレジナルドさんかな?」
「そうね……おいしそう」
 菓子箱に入っていたのは、硬めの生地の間に香味酒で漬けられた果物とクリームを挟んだ焼き菓子であった。名前は知らないが、いいにおいが室内いっぱいに漂う。馬車での移動を挟むので、庁舎に届くのは焼き菓子と決まっていた。
ちなみにお菓子の腕は全般的にレジナルド氏の方が上で、コルネーユ料理長が手ほどきを受けているという話である。
 リュティスのようにお菓子屋さんがラマディエにもあればいいのにと思うが、この小さな街では、買う人も少ないだろう。砂糖をたっぷり使った高級菓子を売るようなお店は、残念ながら相当大きな街でないと見あたらない。……休みの日に街を散策しても、雑貨屋と屋台と露天市場ぐらいしか巡るところがなかった。
 用意が調うと、ワゴンに乗せた菓子箱に向かってお祈りする。
「お客様の人数が少なくありますように」
「手つかずで残っていますように」
 余った菓子は、当然ながらお城の厨房には戻されない。
 夕方まで待ってマルグリット女史の許可があれば、彼女たちが持ち帰っても良いことになっていた。
 
 来客待ちで大きく動くことも出来ず、支度部屋で出来る全ての洗い物や片付け物を終えてしまい、さて午後のお茶の準備に取りかかろうか、それともどちらか一人が待機から外れて残りの掃除を済ませてしまおうかと言う中途半端な時間になって、客人の到着が告げられた。
「ああもう、空気読まないったら……」
「ぼやかないぼやかない。
 お一人様でよかったわ」
「はあ、今日のお昼は堅焼きパンかあ」
「おかずは骨の揚げ物で決まりね」
 カップとポットにお湯を通して温め、菓子の盛りつけを確認し、全ての準備が整っていることを確認してからワゴンを押して廊下に出る。お付きの御者や従者は昼食を摂りに『海鳴りの響き』亭へと向かったので、控え室にと宛った小会議にも使われる小部屋に茶を運ぶのは後回しでよくなっていた。
「忙しいところすまない、少しいいか?」
「フレンツヒェンさま?」
 廊下の向こうから、年輩の男性がジネットたちの方へと小走りでやってくる。フレンツヒェンはゲルマニアからの移民で、行政職にある官吏たちのまとめ役だった。彼も腰には杖を差している。
 背の高いフレンツヒェンはジネットらの背丈にあわせて少し屈むと、小声で用向きを告げた。元城館であるこの庁舎は廊下も天井が高く、音が反響しやすい造りになっているのだ。
「そちらが終わってから大部屋の方に来客用の茶を頼む。
 サン・ロワレ村長のエミール氏が来られているんだ」
「はい、畏まりました」
 同じお客様でも、村長ならそれほど気を使うことはなかった。少なくとも、お茶受けを城の厨房に頼むような事態にはしなくていい。
 ジネットは簡潔かつ過不足無く客の情報をくれたフレンツヒェンに一礼すると、ナタリーと頷きあって目の前の仕事を先に片付けることにした。

 作法通りに四度のノックの後、ナタリーが応接室の扉を大きく開き、ジネットはそれにあわせるようにワゴンを押した。
「失礼いたします、お茶をお持ちしました」
 メイドである自分たちは気にも留められていないのだろうが、粗相だけは禁物と気を引き締める。
 応接室内には、旦那様と客人である中年貴族の二人きり。会話は止まっていた。
 茶杯を置くのに合わせてちらりと観察すれば、身に着けているものはまあまあで悪くはないが、男爵の表情には余裕がなさそうに見える。自分にも一目でわかるぐらいなのだから、相当切羽詰まっているに違いない。
 それに対して旦那様は、流石にいつもののんびりとした雰囲気はなかったものの、普段とあまり変わらない様子である。下手をすると、ジネットの父オリヴィエや先ほど仕事を頼まれたフレンツヒェンに対しているときの方が緊張しているような気がした。
 このあたりが凄いのか凄くないのか、旦那様のよくわからないところである。……もちろん、メイドのお仕事には一切関係はなかったが。
 ナタリーが菓子皿を置いたのを見計らい、ポットを戻してワゴンを挟んだ定位置に移動する。
「失礼いたしました」
 旦那様が軽く頷いたのを確認してから二人でぴたりと合わせた礼を行い、応接室を退出する。
「……ふう」
「次、急ぎましょう」
 そのままほっと息をつく間もなく急ぎ足で支度部屋へと戻り、次のお茶の用意に取りかかる。
「ジネットはお客様の方をお願いね」
「もちろん」
 給仕の作法などは流石に元貴族であり、また現在では旦那様付きであるジネットの方が場慣れしていた。対してナタリーは作業量の多い仕事を必要十分かつ短時間にこなす方で、二人で一人前とは筆頭侍女ヴァレリーの言である。
「村長さんも大変よね。
 サン・ロワレからだと、馬車を乗り継いでも一日仕事になるんじゃないかなあ?」
「ほら、年末が近いから……。
 今年のうちに済ませておかないといけないお仕事は、どこにでもあるものよ?」
「あー、大部屋の人たちもぴりぴりしてたわね」
 ナタリーが官吏へと配る午後のお茶の用意をする間に、先ほど使ったポットを立ち机に避けて新しい物を戸棚から取り出し、新たに客向けの香茶を用意する。上客向けのガリア産ローゼルには及ばないが、普段使いには少々値が張るゲルマニア産のカミツレは苦みも控えめで、ジネットの好みに近い。
 それに対してナタリーが用意しているのは、厚剥きにしたリンゴの皮を乾かした香茶である。甘味は添えないが少しは甘い香りもするし、何よりも値段が安い。ちなみに夏場は、レモンの絞り汁を薄めた冷水やミントの香茶を冷ましたものが用意される。
「いってらしゃい」
「いってきまーす」
 砂時計をひっくり返すナタリーに手を振ると、ジネットはワゴンを押して仕事部屋を出た。

 旦那様の執務室やジネットらの支度部屋、会議室に資料庫、法廷のある庁舎右翼に対して、官吏達が仕事を行う部屋は、庁舎一階の左翼に集中している。
 その中でも大部屋と称されるその一室は、元は三つだった部屋を一つにまとめて領政の中枢として機能していた。
 全ての席が埋まっているわけではないが事務机の数は三十近くあり、財務、商工、農林水産、建設などの担当ごとに小島を作っている。ジネットの父は同じ官吏でも法務を担っていたので、法廷の隣にある法務室が主な仕事場でここには時折顔を出す程度だ。
 マルグリット女史が専用の執務室へと引っ越すまで使っていた内奥の一際大きな執務机は、行政部門をまとめるフレンツヒェンへと権限ごと与えられた。
 そのフレンツヒェンは執務机の脇にある応接机で、サン・ロワレ村長のエミールと向かい合っている。
「村長、集合住宅の件は了解した。
 年明けしばらく、徴税の方が落ち着いたあたりには手を着けられるだろうが……立地の方は、候補が幾つかあるのでしたな?」
「ええ。
 廃屋を潰すか、領道沿いの空き地を使うか……どちらにしても話を通しておく方がよいと、昨日の集まりで話し合いましたわい」
「では、そちらも決めて……ああ、ジネット、こちらだ」
 ワゴンを押して近づくとフレンツヒェンが気付いてくれたので、そのまま村長にも挨拶をする。
「お話中失礼いたします。そして、大変お待たせいたしました」
「いやいや、すまんのう」
 作法通りとするにはやや小さな応接机に、カミツレの香茶とイワシの骨の揚げ物を配する。
「そうだ、ジネット」
「はい?」
「領主様の方は、お話が長引きそうだったか?」
 あれはどう見たものだろうと、ジネットは小首を傾げて考えた。
 上客の来訪はジネットらメイドにとっても菓子の手配から配膳まで忙しくなる要因でもあるが、官吏達にも他人事ではない。何らかの方針転換や新しい仕事が発生する可能性が高く、ただでさえ忙しいこの時期には迷惑千万なのだ。
「よくわかりませんでしたが……」
「ふむ?」
「旦那様はいつも通りのご様子でしたけれど、お客様はお急ぎの用件かなと思いました。
 ですので、極端に長いお話ではないような気がします」
「そうか、ありがとう」
「いいえ」
「……村長、今日中に領主様へと話を持っていけるよう今のうちに幾らか話を詰めておこう」
「そうですな」
 入り口を見れば、ナタリーが午後のお茶を配りはじめている。
 もう帰っても大丈夫かなと、ジネットは一礼して応接机を後にした。

「うへえ……」
「つかれたあ……」
 茶杯の回収にはまだ時間もあるしお客のリール代官はすぐに帰ったしで、ジネットとナタリーはようやく昼食にありつくことが出来ていた。
 結局は買い出しに出るのを諦め、堅焼きパンに旦那様が手を着けなかった蜂蜜、午後のお茶請けとなったイワシの揚げ物の残り、そして、先ほど客人に出したローゼルの残りに再び湯を注いだ二番茶が片付けられたワゴンの上に並んでいる。この支度部屋にあるまともな机は全て立ち机で、座って使うには都合が悪いのだ。
 ちなみに客人用の菓子の残りは手つかずで残されたものも含めて三つ、一つをジネットが自宅に持ち帰り、二つは城に戻るナタリーが皆と食べることになった。
「割と食べやすいわね、これ」
「うん。味はないけど、色んなものに合いそう」
 この新作の堅焼きパンは当たりだった。味はほぼないし堅いには堅いが、、確かに食感は悪くない。生憎とその場で試せたのは僅かな蜂蜜だけだったが、旦那様が自慢気だったのも頷ける。
 売りに出されたら自室に取り置いておくのもいいかもしれない。堅焼きパンは日持ちするから、夜のお茶会には丁度いいだろう。
「さ、残りのお仕事もさっさと片付けよ?」
「もう、調子のいいこと」
 今日はもう、大きな仕事はない予定だった。
 応接室の後始末と午後の茶杯の回収、後は支度部屋の片付けが残っているぐらいだ。
 今日は気疲れの方が多かったかしらと、ジネットは掃除用具を手にした。

 太陽が傾き賭けた頃にようやく仕事を終え、火の始末と支度部屋の掃除を済ませた二人は、部屋を閉じて庁舎を辞し、シュレベール行きの馬車に乗っていた。
 庁舎のある旧市街とジネットの実家がある新市街は隣接しているし、ジネットの家も一等地ではないものの街道から遠く外れた場所にあるわけではなかった。徒歩で帰宅してもいいのだが少しの待ち時間で楽が出来るし、仕事を終えた軽い高揚感の中、二人でお喋りをするのも楽しい。
「じゃあ、お疲れさま。引継よろしくね?
 シルヴァン、ありがとう」
「ええ、お休み楽しんできて」
「気いつけてな!」
 さっと降りて、車上のナタリーと、同じく顔見知りの若い御者に手を振る。最近は同じお城務めでも、時間や配置が合わなくて『この人は誰だろう?』と首を傾げることも多いのだ。
「さて、と……」
 新市街の停留所付近はこの時間でも割と混んでいるし、隣接する露天市場も仕事帰りの人々を見込んでまだまだ商人達が頑張っている。
 荷馬車を見送ったジネットは、いつものように店先を軽く冷やかして行くことにした。
 昨日は定期船がセルフィーユに戻る曜日だったし、旅商人は数日で入れ代わるから、生活必需品を買いに行くのでなければ同じ店先を覗いて歩くにしても、まばらに店が並ぶ商店街より露天市場の方が断然楽しいのである。

 結局、ジネットは日が暮れかける頃までたっぷりと市場を冷やかしてから、焼き栗の入った小袋を手に新市街の南の街区にある自宅へと戻った。
 このあたりはお屋敷街と言われてこそいないが、庁舎のフレンツヒェン氏やラ・クラルテ商会のフロラン氏と言った領内で要職に着く人の家々や、アルビオンから来たメイトランド卿の公邸などが集まっている。
 実は家屋敷も伯爵家にて用意されたもので、ジネットの父は最初拝領を辞退していたのだが、何かあったときに重臣扱いの数人にはまとまって住んで貰っている方が便利だし、それなりの見栄えのある暮らし振りでないと私が困るからと言う旦那様の一言で、それまで住んでいた家族四人で二間の集合住宅から引っ越したのだ。
 庭まで含めればリュティスに居た頃住んでいた屋敷より広いかも知れないわねと、ジネットは少々呆れ気味でもあった。田舎だから土地が安いと言っても限度はあるし、庭の手入れも大変なのだ。
 もっとも、庭の広い屋敷をわざわざ街道と交差する領道沿いに並べてある理由には、屋敷の見栄えだけでなく大火事への防火対策も兼ねているのだと、後になって父からは聞かされた。それが為に並んでいる屋敷の西側にはすべて、ライカ欅とまではいかずとも、すべからくオークやチークと言った大樹の苗木が植えられている。
「お帰りなさいませ、ジネットお嬢様」
「ただいま、ミリアム」
 妹より一つ下の彼女は、ジネットの家で雇われたメイドである。詳しい経緯は引き取ってきた父もミリアムも口を閉ざしているのでわからないが、半年ほど前に我が家へとやってきたのだ。
 挨拶する方もされる方もメイドのお仕着せで、少し滑稽だがこれは仕方ない。仕事を終えたからと私服に着替えて庁舎を出るのは、何となく憚りがあった。
「はい、お土産。
 後で食べましょう」
「お預かりします」
「あ、姉さま、おかえり!」
 こちらは妹のアレット。いつも通りに元気だ。
「お父様もつい先ほどお戻りになられたところよ」
「出たのはわたしの方が早かったんだけど、市場に寄ってたの。
 ね?」
 ミリアムの手にある焼き栗の袋を示すと、アレットは目を輝かせた。

 夕食は、豚のもも肉のソテーにセルフィーユとチーズと温野菜のサラダ、最近は少し値段が上がってきた白パンと、少し奮発気味の豪華なものだった。ジネットの帰宅を知った父が、家に知らせてくれていた様子である。
「美味しかった、ジネット?」
「ええ、母さま。とっても柔らかかったわ。
 それにソースもいい香りだったし……」
「でしょう。
 あのソースはね、ガブリエーレ夫人に教えていただいたのよ」
「フレンツヒェンさまの奥様?」
 今でこそ料理も難なくこなすジネットの母マリー・クリスティーヌだが、当初は大変な苦労があったしジネットもそれを直接目にしている。リュティスを出る前は、料理の代わりに刺繍を、買い物の代わりに礼拝を、掃除の代わりに魔法薬の研究をしていた母なのだ。
 ちなみにガブリエーレ夫人はゲルマニア生まれであるフレンツヒェン氏とは違い、さらにその北方にあるアウグステンブルク王国の出身である。
「それにね、姉様。先週旧市街にお肉屋さんが開店したのよ。
 お昼にミリアムと一緒に買いに行ったの」
「そうなんだ」
「村で解体された豚の精肉や猟師の獲物が時々露店市場で売られていたことはあったが、毎日じゃなかったからなあ。
 魚料理が嫌いというわけじゃないが、リュティス育ちの私としては、やはり肉料理の方が好みだから嬉しい限りだよ」
 父は相槌を打つと、魚料理が主体のこのセルフィーユでも、肉屋が毎日豚や羊を絞めても損をしないほど人口が増えているのだと、ワインを片手に講釈を垂れた。
 成豚一頭の体重はジネット二人分と少し、約二百リーブルほどだが、その全てが可食部ではないにしてもとても一家族で食べきれる量ではない。当たり前だが生肉は腐るのだ。農家などでは年の暮れに絞めて幾らかはそのまま食べてしまうにしても、大半は腸詰めや塩漬け、乾燥肉などに加工して保存食とするのが普通だった。
「ああ、ミリアム。
 そちらの片付けは後でいいから、お茶の時間にしよう。
 君もエプロンを外しなさい」
「はい、ありがとうございます、旦那様」
「手伝うわ、ミリアム」
「あたしも!」
 法律家としては今も厳格な父オリヴィエだったが、家名を捨てて転々とするうちに身分差は気にしなくなったのか、または身よりのないミリアムに気を使っているのか、仕事が終われば彼女も家族同然の扱いである。ジネットももう一人妹が出来たような気がしていて、アレットと一緒に彼女を猫かわいがりしていた。

 城での暮らしぶりを聞かれ、逆に家の様子を聞き入りと、楽しい時間が過ぎていく。
「あたしもお城のメイドになろうかなあ。
 楽しそうだし、姉さまもミリアムも二人してメイドでちょっと羨ましい」
「あら、アレットまでお城のメイドになってしまうと、私が困るわ。
 今でも助手がもう一人欲しいのに……」
 甘いものには余り興味がない父以外の四人で、レジナルド氏の焼き菓子を味わう。父は蒸留酒を前に焼き栗を剥いていた。
「お城のメイドも忙しいのよ、アレット。
 今日も突然のお客様があったし、ナタリーじゃないけど使い魔でもいいからお手伝いが欲しかったわ……」
「ふむ、ジネットは使い魔を喚びたいのかい?」
 父は栗を剥く手を止めて、面白そうにこちらを見ている。
 ちなみに父の使い魔は戦死してしまっているそうで、とても哀しそうな様子で話す父に、それ以上尋ねることは出来なかった。
 母の使い魔は小さなミドリカワセミだが、放し飼いにされている。昼間は川縁で小魚を狙い夜になると家に戻ってくるおかげで、食餌の心配はなかった。時々ジネット達の指にも止まってくれるが、可愛いけれど少し爪が食い込んで痛い。
「喚べたらいいなあぐらいで、あまり真剣に考えてはいませんわ、お父様。
 万が一にもアーシャさまみたいな大きな使い魔だとすれば、大変なことになりますもの。
 ……餌代が」
 ジネットは、はあっと大きなため息をついた。
「アーシャさま、すっごい大きいものね……」
「わたし、港まで魚を買いに行ったとき、近くに寄ってみたことがありますよ!」
「そうそう、大きいお魚も一口でぱくっ! ごくんって!」
 魚どころか、豚や子供を丸飲み出来るほど大きな大きな竜なのだ。空を飛ぶのは楽しそうだが……。
「まあ、わたしだと竜が出てくるはずはない……とは思うの。
 でもね、大きな使い魔だと餌代が……」
 毎日豚一頭で月に百エキューなんてとても無理よと、妹たちに肩をすくめる。
「ジネット」
「はい、お父様?」
「もしかして、使い魔の餌代が心配で喚びたくないのか……?」
「はい」
 呆れた顔の父に、しっかりと頷く。
 だがジネットは小さな頃から各地を転々とする中で、お金の苦労をする両親を見てきているのだ。セルフィーユに移り住んでからは生活も安定しているが、それまでのことを考えれば、とても真面目な心配事になるのである。
「じゃあ、ジネット。
 餌代の心配は横に置くとして、ジネット自身は使い魔を喚びたいかい?」
「ええっと……はい、喚びたいです」
 使い魔と一緒にいる旦那様は、とても楽しそうだった。それだけでも価値はあると思う。たぶん、自分も使い魔を喚んだら、四六時中可愛がるのだろうなという予感はあった。
「そうか、そうか」
「……お父様?」
 一転して楽しげな様子の父に、ジネットばかりでなく家族も訝しげな表情を向けた。
「ジネット、あまり知られていないがセルフィーユ家に仕えている家臣、軍人、侍女従者には、使い魔を召喚している場合、餌代が援助されるんだよ」
「ええっ!?」
 もちろん初耳だ。お城には数名のメイジがいるが、使い魔は旦那様の竜のみであり、話題になったことさえなかった。
「もちろん、お前達の母さんの使い魔のように、自活してる使い魔も多くいるけれど……例えばフレンツヒェン殿の使い魔、馬の『コメート』号の飼い葉は伯爵家から届くし、御料牧場への放牧も許可されている。
 他にも、領軍のテレンツィオ砲兵隊長の使い魔は犬だから、彼には骨付きの豚肉が支給されているよ」
「……知らなかったです」
「ああ、普通、使い魔の世話は自分でするものだからね。餌代も自弁だ。
 詳しい話までは知らないが、領主様は昔、使い魔の餌代には随分苦労なさったらしくてね、そのおかげで……」
 父の話を聞きながら、明日いきなり召喚するのは無理でも次のお休みには儀式をしてみようかしらと、ジネットは小さく笑みを浮かべた。





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