ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
挿話その四「ジネットの一日(午前編)」




「んんー」
 朝日は出てすぐだろうか、窓から差し込む太陽の光は低い。
 ジネットの朝は、早い日もあれば遅い日もあった。
 早い日は旦那様に付き従って外に出ることが多く、遅い日は同じ水メイジのメイドで先輩格に当たるジェルメーヌの補佐や代理をするか、手の足りない部署へと派遣される。
 深夜や早朝の当番からは外されているが、それはジネットが当主付きの杖持ちメイドとして扱われているからだった。城内での序列は上から数えた方が早い彼女だが、筆頭侍女のヴァレリー夫人と次席のフェリシテ、城内女性メイジのまとめ役『睡蓮』のジェルメーヌ、ヴァレリーの義母で相談役のリュシル夫人、そしてこちらにはいない王都別邸の侍女頭を除けば他の全員がほぼ横並びの扱いで、その後ろに新人が来る程度のものである。第一ジネットは旦那様……領主であるセルフィーユ伯爵リシャール様よりは年上であっても、まだ十六歳なのだ。
 彼女の今日の予定は、ラマディエの庁舎で接待当番と掃除をして一日を終える予定となっていた。
 忙しいと言えば忙しい仕事だが、アルビオンへと渡った時のように空賊が襲ってくることもないだろうし、慣れた仕事でそれほど難しいことを考える必要はないからある意味気楽でもある。
 勢いをつけてベッドから身を起こしたジネットは、朝の感謝の祈りを始祖に捧げると、同室の少女達が既に仕事に出ていることを確かめてからいつものお仕着せに着替えていった。
 去年生まれたお姫様がまだ小さいこともあって、昼夜関係なく常にメイド数名が城内で仕事をしているのだ。おかげで平素の早番、遅番に加えて勤務態勢には早朝番と深夜番も加わったが、人数も増やされたので仕事そのものは楽になった。
「よいしょっ……」
 洗濯番のメイドによってきちんと畳まれた自分のお仕着せを広げ、袖を通す。
 働き手の人数が多いこの城では、殆どの仕事が分業で成り立っていた。但し、専任にしてしまうと特定の仕事に手が足りない時に融通が利かなくなる上、別邸派遣や旦那様が外遊する時の随行その他の理由で誰が欠けてもこなせない仕事がないようにと、先週は洗濯番、今週は掃除番、来週は配膳係と言った具合で仕事を交代する。
 このお城に来る前は他家に勤めていたという先輩メイドの話では、勤め人が多い城や屋敷だと専任にして仕事に慣れさせそれぞれ効率を上げることが普通らしい。だがこの城は、旦那様の義父で国内でも五指に入る大身の公爵様や遠国の伯爵様、隣国の辺境伯息女様を突然の来客に迎えることが日常で、その上旦那様の外遊も多いから、大一番にお城の裏方が回らなくなるのを避ける為に普段から当番を回すように組まれているのよ、とも聞かされている。
 ボタンを止め終え革ひもを結び、最後に白いエプロンを身にまとわせて腰に細い杖を差したジネットは、部屋に備え付けの姿見の前でくるりと回った。
 セルフィーユ領内の幼い少女達の間では、都会風に洗練された、ちょっとお洒落で男の子達にも眩しく見える憧れのお仕着せ……などと言われているそうだが、元は隣国ガリアの出身で王都でもある大都会リュティスで暮らしていたこともあるジネットには、トリステイン風で全体の作りが柔らかく見えることと動きやすいが少しだけ胸の線腰の線が強調されること、そして袖やスカートを捲る時につかう少し特別な工夫がある以外は、ただのメイド服にしか思えない。
 ……もう記憶も薄れ始めているが、幼い頃、彼女の暮らしていた家にいたメイド達はもう少し地味な服装だっただろうか。
「……よし!」
 同室のメイド仲間たちは早朝番だったかしらと今日の予定を思い出しながら、彼女は姿見に顔を近付けた。身綺麗にしておくことはメイドのたしなみでもある。
 今日一日頑張れば、明日はお休みだった。先週の虚無の曜日は仕事だったので、代わりの休日が与えられたのである。ラマディエの新市街の外れにある真新しい実家に戻って、家族と過ごす予定にしていた。
 普段のジネットは、ここシュレベールにある城の宿舎で暮らしている。二十数名もの同世代……からは少し外れている先輩方もいるが、ここでの暮らしは噂でしか聞いたことのない魔法学院の寮生活のようでもあり、なかなかに楽しい。
「さあ、今日もがんばりましょう、ジネット」
 自らにはっぱをかけたジネットは、朝食を摂るべく階下へと降りて宿舎を出ると、食堂のある『仕事場』へと向かった。

「あ、起きてきた」
「おはよう、ジネット」
「はい、おはようございます……って、うわっ、すっごい豪勢!」
 本館のすぐ裏手にあり、裁縫場や洗濯場、内井戸、道具部屋などと一つの建物になっている通称『仕事場』にある働き手専用の食堂では、普段に比べて随分と品数の多い朝食が彼女を待ちかまえていた。早朝番である同室の仲間達は仕事中でここにはいないが、それでも早番のメイド達や従者達がめいめいに食事を摂っているのはいつも通りだ。
「今朝はレジナルドさんが本気出したみたい」
「これなんてすごいわよ。
 パイ生地の重なり具合が目で見えないほど細かいんだから」
「こっちのニンジンの飾り切り、コルネーユさんでも難しいんじゃないかしら?」
 遙か遠いアルビオンから皇太子殿下の勅命で料理の修行にやってきたレジナルド氏はお城のコルネーユ料理長に師事しながらトリステインの料理を学んでいるのだが、時折城に勤める侍女従者にも豪華料理を振る舞ってくれる。彼はあくまでも『トリステインの料理』を学びに来ているのであって、元より腕のある料理人なのだ。逆に料理長が学ぶことも多いという。
 ……厨房で交わされる料理談義や試作品の競作には時折旦那様さえ混じっているが、そちらは皆で見て見ぬ振りをしていた。先日は高価で知られる魔法の冷蔵保存庫について、城の厨房にも導入するかどうかで揉めていたと聞いている。
 それはともかく、ここセルフィーユの領主様ご一家はそろそろ乳離れのお姫様を除けば旦那様と奥方様の二人きりで、これではレジナルド氏が料理の数をこなそうにも作ったものが無駄になってしまうからと、自分たちにお鉢が回ってきているのだ。
 有り体に言えば練習台なのだが、本当に未来の王様が食べるものと同じ料理を味わえるとあって、皆喜んで練習台になっている。他家に遣わされたときに恥をかかぬよう食事作法の練習を兼ねているのだ……というもっともらしい理由もついていたが、食べる方の彼女たちはそれさえもどこかのお嬢様にでもなった気分でこなしていた。

 朝食の後はいつものように申し送りと予定の確認を済ませ、仕事鞄を持って本館東棟の横手にある車庫が並んだ車止めに向かう。
 本館の外を大回りするのだが、冬場とあって庭園の緑は綺麗でも花がないのは残念だ。
 奥方様の飼い猫が散歩しているのを横目に車止めへと到着すれば、黒塗りのつやも美しい馬車は丁度引き出されたばかりのようで、ジネットは小さいハンマーで車輪の具合を確かめていた年輩の御者に声を掛けた。
「おはようございます、マチュさん」
「ああ、おはようジネット。
 ……おや、一人かい?」
「はい、もう一人はナタリーなんですが、今日は家から直接仕事に出るそうです」
 ナタリーの家はシュレベールにあるから、城からの道中で拾っていくことになる。実家が城館に近いからこその離れ業だが、豪華な朝食を食べ損ねた彼女は残念がるだろう。
「おはようございます、マルグリット様」
「はい、おはようございます、マチュさん、ジネットさん」
 しばらくして、筆頭家臣のマルグリット女史が現れた。
 常に丁寧な物腰を崩さない彼女は家臣団の総まとめ役だが、それ以上に、セルフィーユのことを何でも知り尽くした女性として皆から頼りにされていた。
 昼間は空の木箱を椅子代わりにした荷馬車が往復する城館と庁舎だが、朝一番と最終便だけは乗用馬車で、御者も手練れのマチュが担当する。マルグリット女史の送迎と各車に不具合がないかを確かめるという理由で、車庫に幾つも並んでいるバネの効いた黒塗りの乗用馬車が順に使われるのだ。
 全てに家紋が着いているのではないが、このセルフィーユで黒塗りの馬車を使っているのは城だけなので、紋無し馬車を使ってもお忍びにならないのではないかしらと、ジネットは疑問に思っている。
 ほぼ定刻に出発した馬車は、予定通りシュレベールの村外れでナタリーを拾い上げてラマディエへと向かった。
「ねえナタリー、あれ……」
「……旦那様だわね」
 橋を渡ってしばらく、濃緑の大きな竜が馬車を追い越して行くのが窓の外に見えた。間違いなく、旦那様とその使い魔である。
 ジネットとナタリーはあららーとそれを見送った。予定通りで怒られることはないにしても、旦那様よりも仕事場に到着するのが遅くなっては、やはり体裁が悪い。
 残念ながら竜と馬車では速度が違いすぎて走っても追いつけはしないのだが、もちろんのこと、馬車を操るマチュは少々慌てていた。前の小窓が開いて、彼が顔を覗かせる。
「マルグリット様、旦那様は先に行かれましたが、こっちは急がなくてもよろしいんで?」
「ええ、今朝リシャール様は先に製鉄所へと向かわれて、フロラン殿とお話をされてから庁舎に入られる予定なの。
 昼まではかからないと仰られていたかしら?
 こちらはいつも通りで大丈夫よ」
「ありがとうございやす。
 ……ふう」
 旦那様もどうやら予定通りらしい。
 ラマディエの街から出発した同僚が操る荷馬車へとすれ違いざまに手を振りかえしたマチュのついた大きなため息に、ジネットとナタリーのそれが重なった。

 ジネットは庁舎に到着してすぐに元厨房で今は待機室を兼ねている支度部屋に仕事鞄を置き、玄関口まわりの掃除をナタリーに任せると、自分は廊下の掃除を始めた。手早く済ませないと人が増えて面倒になるので、外も内も忙しい。書類のいっぱい置かれた官吏の仕事部屋や地下の資料庫、法廷、半分は砦に移っても庁舎や街の警備に忙しい領軍の詰め所部分は担当外だが、玄関や廊下、階段、二つある応接室と旦那様やマルグリット女史の執務室は彼女たちの領分である。
「おはようございます、お父様」
 出勤する官吏に混じって、父オリヴィエの姿が見えた。ジネットの父は司法官として庁舎に勤め、母は家を守る傍ら妹を助手に魔法薬作りに精を出している。それらは領軍や城に納めるか、あるいはギルドを通して王都の市場へと売りに出された。彼女の家は元を正せば由緒も歴史もあるガリアの貴族で、家名を失ってからは両親と共にあちこちを転々として苦労もあったが、セルフィーユに落ち着いてからは比較的気楽な生活に戻っている。
「おはよう。
 今日はこちらなのかい?」
「はい。
 あ、今夜はおうちに戻りますわ」
「うん、そうか。
 楽しみにしている」
 登庁の定刻にはまだ余裕がある父はともかく、自分は仕事中なので挨拶は短い。
 廊下の掃除を済ませれば今度は階段回りを攻めて、玄関の方を終えたナタリーにそちらを引き継いで貰う。二階は兵士の宿舎や仮眠室があって夜番の誰かが必ず寝ているから、そちらは人通りこそ少ないが静かに済ませなくてはならない。
 ジネットは支度部屋にとって返し、裏にある竜舎脇の井戸で手桶に新しい水を汲んで戻った。今度は茶道具の準備である。メイジ故の特典で、彼女の場合は種火を貰いに行かずとも、あるいは扱いにくい火打ち石を使わずとも呪文一つで炭を熾すことが出来るので、メイド仲間には重宝されていた。レビテーションの呪文で力持ちにもなれるから、男性従者を呼ぶまでもないちょっとした『お仕事』を任されることも多い。
 焜炉にくべられたコークス炭が赤く燃えているのを確かめて、たっぷりの水を入れた大薬缶を三つもかける。人数が多いので、湯を沸かすのも一苦労だ。

「大変よジネット!」
 湯が沸く間に支度部屋の掃除をしていると、モップ片手にナタリーがばたばたと駆け込んできた。いつも以上に慌てている。
「お昼過ぎてからお客様!
 お忍びのお代官様のお男爵様のリールですって!」
「……」
 彼女の言葉を整理すれば、昼過ぎにリール代官の男爵がお忍びでやってくる……らしい。
「どどどどうしよう!?」
「……ナタリー、落ち着いて。
 今日はお客様の予定、なかったわよね?」
 朝の申し送りでもそのような話題は出ていなかったし、マルグリット女史も車中では何も言っていなかった。
 リールは乗り合い馬車で一日ほどの距離にある大きな港街だから、貴族なら竜篭を手配することもあるだろうし、夜に出た船も翌日には到着する。急ぎの場合でも、知らせだけは早馬で先に送り出すこともできた。日々そのような突発事態に振り回されているので、仕事に慣れたメイドは貴族のつかう移動手段とその時間の見積もりにも詳しくなってしまうのだ。
「ええ、さっき知らせが届いたらしいの。
 そうだわ、お菓子をお城に頼んでおかないと……。
 ジネットは申請書お願い!
 あたし、マルグリット様に鍵借りて応接室のお掃除を先にしてくる!」
「……用紙は二番目の引き出しだった?」
「三番目!」
 ナタリーは大聖堂の学舎に出されて読み書きを習っていたはずなのに、苦手意識までは拭えていないのねと、ジネットはため息をついた。
 手桶と雑巾をひっつかんですっ飛んでいくナタリーを横目で見送って、茶棚の在庫を確認する。上客用のローゼルはまだたっぷりと残っているし、添える蜂蜜の壷も中身はたっぷりだ。
「えーっと、三番目……よし」
 大きく息を吸い込んで気合いを入れたジネットは、書類棚から必要事項だけが抜かしてある作り置きの申請用紙を取り出し、立ち机に向かってそれを埋めていった。この申請書はマルグリット女史に願い出てサインを貰い、次の馬車便で城に運ばれて厨房に送られる。今の時間なら、昼前にはこちらへと菓子が届くだろう。
 香りが抜けるまで数日ということもない香茶の葉は茶器とともに普段用、客用、上客用と各種取り揃えてあるのでともかく、いくら旦那様の好物で庁舎内での人気も高いお茶請けとは言っても、例えば商会に頼めばすぐに届けられるイワシの骨の揚げ物や新市街の驢馬引き屋台で売られている一つ一ドニエの焼き菓子などを、身分の高い客へと出すわけにはいかない。
 日付は今日、時間は午後早め、目的は訪問客である男爵様への接待、品目は茶菓子で個数は二としてから、括弧を付けて人数不明と付け足す。……深刻な仕事話か単なる挨拶かはわからないが、奥方様やお子様が一緒にやって来ないとは限らないのだ。冊子にももちろん、その注意は記されている。
「出来た、っと!」
 ついでにと、内輪向けのお茶請け用にイワシの骨の揚げ物の取り寄せるようにしてマルグリットの部屋まで走り申請の手続きを素早く終えたジネットは、戸棚から茶杯をとりだしてワゴンに並べ始めた。いつもなら午前の御茶の準備にはまだ早い時間だったが、ナタリーが応接室の掃除に取られてしまったのでのんびりしていられないのである。

 午前の御茶を時間ぎりぎりで配り終えて大薬缶に水を足し入れると、息をつく間もなくナタリーに合流する。彼女は応接室の掃除を終え、既に窓拭きに入っていた。普段ならば午後に行う作業だが、来客とあっては前倒しも仕方がない。
「はあああ、ようやく半分……。
 今日は三人組にしてほしいところだったわね」
「仕事が増えているものね。
 ずっと三人組でもいいくらい……」
 来客が多いとわかっている日などは最初から人数を増やして対応するし、どうしても手が足りない時は城に応援を呼ぶが、向こうは向こうで忙しいから気楽には悲鳴を上げられない。
「あーらよっと」
「ふざけてると落ちるわよ?」
 上段のはめ込み窓は作業梯子に登ったナタリーにまかせ、ジネットは両開きになっている下段を担当していく。杖を振るって飛びながらの窓拭きも出来なくはないが、最初の一度で懲りていた。
 その窓の向こう、庁舎の裏庭に大きな影が落ちてくる。
「あ、旦那様だわ」
 ばさりと羽を広げた竜が舞い降り、旦那様を降ろすとそのままどこかへ飛んでいった。
 もちろん、旦那様の外遊や特別なお客様をお迎えする時には、ジネットらだけでなく官吏達も玄関口に並んでお出迎えやお見送りをする。だが、日常の出入りにまでそんな悠長なことをやっていては業務が滞って仕方ないと当の旦那様から一声があり、先触れがない限りは仕事の手を止めなくてもいいことになっていた。
「『水鏡』殿も使い魔喚べば?
 お城との往復も楽になるし……」
 窓を拭く手は止めずに、ナタリーがにっこりと笑う。『水鏡』は自分で付けた二つ名だが、家族と城内のメイド仲間ぐらいにしか知られていない。
「それでね、あたしも乗せて貰うの」
「ナタリー、簡単に言わないで……」
 飛んでいく竜を見送りながら、ジネットは大げさにため息をついて見せた。

 アーシャという名の旦那様の使い魔は巨大な地竜で、大きくて恐い顔をしているし豚も鹿も丸飲みだ。旦那様に甘えていたり、港で大きな翼を広げて魚をねだっていたり、きゅーと鳴いて乳母車で庭を散歩中のマリーお嬢様に顔を寄せる様子は……可愛いと言えなくもないが、間近で見るとやっぱり恐い。
 一度など、城の車止めでのんびりと馬車の出発を待っていたところ、いきなり旦那様の使い魔がどすんと降りてきたかと思うと大きく口を開けて子供を吐き出し、普段聞いたこともないほど大きな咆吼を轟かせたことがあったのだ。あんなに恐ろしい光景を見たのは後にも先にも初めてで、もちろんジネットも大きな悲鳴を上げたし、城内はすわ敵襲かと一瞬大騒ぎになった。
 ……結果から言えば子供は無事で、ジネットら水メイジの治癒に加えて熱い風呂と熱いスープで体温と体力を取り戻した後、得意げにきゅいきゅいと鳴く竜に見送られて衛兵の操る馬車で両親の元に帰された。旦那様の竜は川に流されていた村の子供を拾い上げただけで、おやつに人間を食べようとしたわけではなかったのである。大きな吼え声も子供の命の危機を城中に知らせるためだったのだろう、アーシャさまはやはり領地と領民の守り手だったと、皆で胸をなで下ろして始祖に感謝したものだ。こんなにすごい使い魔を喚んでしまう旦那様も、やっぱりすごいのだろう。
 ジネットもごくたまにだが、自分も使い魔を喚んでみようかしらと思うことはある。使い魔と一緒にいる旦那様は、いつだって、とても楽しそうだった。
 だがもしも、旦那様の竜のように大きな使い魔が召喚されたならと、後込みしてしまうのだ。……ジネットの給金では、どう逆立ちしても餌代を出せっこない。
 彼女は基本となる食事宿舎の天引きなし毎月八エキューの正規侍女職のお給金に、ドットメイジとしての手当二十エキュー、おまけに旦那様付きの役職支給が二エキューついて月額合計三十エキューという、同年代の少女どころか一端の職人でもそうそうは得られない収入を得ている。
 だがしかし、豚は一頭三、四エキュー、それが毎日となると……。月に百エキューもの餌代など、家族全員がメイジでセルフィーユではかなり裕福なはずのジネットの一家でも、収入が全て吹き飛んでしまうだろう。
 ……もちろん、竜を喚べるようなメイジなどほんの一握りしかいない事は知っているが、竜でなくとも、大食らいの使い魔は幾らでもいるのである。

 手鐘を持った下働きの少年が廊下を走って昼を告げる頃、窓掃除もようやく一段落が着いていた。昼前の馬車便で客用の菓子も届いたから、こちらも一安心である。
「いってきまーす」
「はい、いってらっしゃい」
 昼の御茶を配る準備はナタリーに任せ、ジネットは掃除用具を手にした。この後、部屋の主が昼食で留守をしているうちに執務室の掃除を行うのである。
 これは当主付きのメイドとして当然のこと、城で仕事をするときも、あちらにもう一つある執務室や私室の担当をすることが多い。旦那様も奥様もあまり部屋を散らかさないお方なので、自分たちの暮らす宿舎の方が掃除は大変かもしれないとジネットは思っている。……それはもう、たくさんの散らかし魔が住んでいるのだ。
 手桶と雑巾と部屋箒で両手が塞がっていたジネットは、誰も廊下にいないことを確認してから行儀悪く取っ手を手の甲で押し下げると、お尻で扉を押した。
「失礼しまーす……」
「うん?」
「ひあっ!?」
 何の気無しに入った無人の筈の執務室には、まだ旦那様がいた。今日に限って何故と思うがもう遅い。お尻で扉を押し開けた姿は、しっかりと見られていた。
「……ご苦労様」
 旦那様は食事中だったのか、堅焼きのパンを手に笑いを堪えている。
「僕のことは気にしなくていいよ。
 午後はトゥルヌミール男爵の訪問があるから、時間も押してるだろうし……」
「あ、ありがとうございまひゅ!」
 言葉を噛んでしまい、二重の恥ずかしさで真っ赤になったジネットは、背を向けて部屋の隅から掃き掃除を始めた。見なかった振りを押し通してくれた旦那様に、内心で感謝する。
 旦那様の執務室は、そう広くもないし豪華でもない。壁に飾られているのは地図で、絵画や置物は見あたらなかった。
 執務机は広いがよく言って並品だったし、来客用の小テーブルも上に掛かったレースのクロスこそ王都の職人が作ったそこそこ上等の物だが、拭き掃除を何度も行ったジネットは知っている。見えない位置には鉄材で少々不格好な補強がしてあるのだ。

 手を動かしているうちに落ち着いてきたので、ちらりと旦那様の方を盗み見する。呆れたことに、彼のお方は書類をぱらぱらとめくりながら、二時間も前にジネットが煎れたはずのおそらくは冷えているであろう香茶で、腹持ちは抜群でも食べにくいはずの堅焼きパンを……言葉は悪いが流し込んでいた。
 茶杯の入れ替えぐらいはそう手間の掛かるものではないし、官吏達だって時間に関係なくお代わりの要求ぐらいはするというのに、この旦那様は……。
 第一旅回りの最中でもないのに、日持ちと腹持ちしか取り柄が無くてがちがちになるまで焼き締められている上に、噛み砕くと今度はもそもそして食べにくい堅焼きパンで昼食を済ませる伯爵様など、子供でもおかしいことに気付くだろう。官吏達だって、もう少しは昼食らしく見える物を食べているはずだ。ジネットも街に降りた時には、庁舎前の『海鳴りの響き』亭自慢の白身魚のシチューや新市街に新しくできた『林の小道』亭の煮戻し肉のパイ包みは楽しみにしていた。
 奥方様やマリーお嬢様のことならばいくらでも事細かな指示をメイド全員に行き渡らせるほどなのに、自身の事にはあまりこだわりがないのか、どうにも身軽過ぎる旦那様なのである。衣装係も兼ねるフェリシテは正装でも装身具を殆どお付けにならないので盛り立てようがないと嘆いていたし、王都などで公務の空き時間に市中へと出れば、平民に混じって自ら屋台に並ぶとその場にいない随員の分まで焼き菓子を買ってくるような人だった。

「ああ、ジネットも食べてみるかい?
 この間料理長やレジナルド殿と相談して、少しだけ食べやすい堅焼きのパンを試作して貰ったんだよ。
 膨らみがいい分、ちょっと嵩張ってしまうのが欠点かなあ」

 違います。
 そうではないのです、旦那様……。

 こちらの視線に気付いたのか、堅焼きのパンが入っているらしい封緘された新しい包みを引き出しから取り出して、さもお勧めですとパン屋の手代のような笑顔を向けてくる旦那様に、どう返事をしたものかとジネットは困り顔を向けた。




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