ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
挿話その一「夜会それぞれ」




「エレオノールお嬢様、そろそろお時間でございます」
「わかったわ」
 エレオノールはソファから立ち上がると、侍女達に寄って集って調えられた髪を崩さない絶妙な歩調で玄関へと向かった。
 無論、約束の時間に慌てるような彼女ではない。全ての準備をとうに終え、心を落ち着かせる為に氷を浮かべた香茶を申しつけて本をぱらぱらとめくっていたのだ。
 ラ・ヴァリエール家の王都別邸は、領地の本邸に比べればずっと小さいが、それでも王都のお屋敷街に並ぶ家々の中では有数の大きさを誇っている。
 エレオノールは自室として使っている別棟二階の部屋からまずは廊下を抜けて本棟に入り、半螺旋になっている階段を駆け下りて、そのまま玄関……には向かわず、一度ぐるりと奥手に回って正面からそちらを目指した。本日王城にて行われるのは、立太子祝賀の夜会である。正式な出立にはそれなりの約束事もあるのだ。
 一度立ち止まってお付きのメイドに目配せをする。彼女が頷き、家族も含めて全員の準備が整っていることを確認してから、エレオノールは玄関へと歩みを進めた。
 今日の主役は無論アンリエッタ王太女でその為の夜会だったが、エレオノールは婚約者フィリップに会える日として記憶していた。

 少し早いが車止めは混んでいようからとの父の言葉に、ラ・ヴァリエール家の人々は車列を連ねて別邸を後に王城へと向かっていた。限られた人数ながら従者や侍女、護衛の乗る馬車や馬も加わるので、ラ・ヴァリエール家、それに妹夫婦のセルフィーユ家を合わせればそれなりの大所帯となる。
 正面に座る両親から視線を外し、エレオノールは隣りに座る妹夫婦にちらりと目を向けてみた。
 常に仲の睦まじい二人、いや、去年可愛い姪が産まれて三人になったが、彼女たち一家の様子は正直言って羨ましいものだった。
 わたくしはいつ頃嫁げるかしら。
 エレオノールは自分と婚約者フィリップを妹夫婦の姿に重ね合わせつつ、声出すことなく呟いてみた。

 彼女の婚約者、フィリップ・ド・バーガンディは伸ばしている髭が唯一特徴的な、どちらかと言えば地味な人物である。実直な人柄で親族や家臣らからの評判は悪くないが、魔法学院の同級生からは、武門の出らしく義理堅いが今ひとつ覇気に欠けるだの、女の趣味は悪くないが告白に至った試しがないだの、真面目だが興味のあることにしか本気を出さないだの、友情たっぷりに酷評されていた……とは、後になってエレオノールの元に届いた調査結果の中に含まれていたものであった。
 確かに人柄は悪くない。
 エレオノールに向ける態度も紳士的であるし、好色かつ色惚けた様子など終ぞ見せたことがなかった。物足りない……とまでは言わないが、幾度目かの逢瀬の時、もう少し積極的でもいいのにと本人に言ったこともあるが、フィリップの態度は改まらなかった。
 いつだったか、嫁いでいった妹に思い切って相談したこともある。カトレアに相談事を持ちかけたのは初めてだったが、その時はその事実に気付く余裕もなく、妹の方も余計なことを言わずに彼女なりの答えを返してくれた。
『エレオノール姉さま、バーガンディ伯爵様は姉さまのことをとても大切になさっていると、わたしも思います。
 ただ……姉さまとの距離をつかみかねていらっしゃるのではないかしら。
 リシャールも婚約者だった頃はそうでしたもの。
 ですから普段通り、気負わずに振る舞われては?』
 年回りは違うものの、義弟もあまり押しの強い性格ではなかったかと思い出す。今ひとつ頼りない外見は初めて我が家に来た頃とそう変わらないが、義弟は知恵者で行動力のあるところを皆に示していた。カトレアとの仲も良好なようで、二人してマリーを甘やかしている。
 では自分の婚約者フィリップはどうだろうか?
 貴族としては数百年続く伯爵家の当主として、公爵家の娘が嫁いでもそう見劣りのしない家柄であった。領主としても最近彼の治める領地を悩ませている亜人に対し自ら出戦することも厭わないあたりは、父公爵にも評価されている。
 善良で実直な人柄は、エレオノールにも好ましく思えた。欲目も自覚しているが、それまでのラ・ヴァリエール家ありきの婚約者たちとは違ってエレオノールの事をよく見ている気もする。
 あまりトリステインでは受けのしない性格だが、それは彼の家系に由来するものだと、エレオノールは知っていた。

 バーガンディ家はその祖をアルビオンに持つ。初代当主がトリステインへと渡ってきたのは数百年も前だが、当時国境線を巡って争っていたトリステインとガリアの戦乱に義勇兵を率いて参加、戦場を駆けて大きな戦果を挙げたという。その結果、恩賞として当時のトリステイン王より爵位と領地を賜ったが、家名をトリステイン風にブルゴーニュ家と改めることもなく、戦後ガリアより割譲された現在の領地に封じられたと伝わっている。
 当然ながらそのような初代当主から続く家系では気風までトリステインに染まりきらず、トリステイン・アルビオン両国の気質が入り交じった、淡泊かと思えば時に熱しやすく、それでいて真面目で義理堅いという現在のバーガンディ家の家風が出来上がったようである。

 翻ってわたくしはどうだろうかと、妹に抱かれている姪の顔を眺めながら自問してみる。
 公爵家の長女で、王立アカデミーに勤める才媛……と言えば聞こえはいいが、格式張った家のお堅い女とも取れてしまう。妹たちのように可愛気のある性格でないことも自覚していた。
 伯爵家に嫁ぐことに関しては、むしろ婚約破棄が続いたことで我が家の方が遠慮がちに成らざるを得なかった。カトレアは当時男爵家の当主だった義弟の元に嫁いだが、あちらはまた事情が異なる。
 その上、今年で二十四歳。母からは、『後がないと思いなさい』とのありがたい言葉も頂戴している。……こちらの方が問題かも知れないと、エレオノールはため息をついた。不思議そうな姪の視線に、なんでもないのよと笑顔を作る。
 でも……と、エレオノールは再び車窓の外に目を向けた。
『普段通り、気負わずに振る舞われては?』
 妹の言葉には一理ある。
 しかし。
 フィリップに会える日というだけで気持ちの舞い上がっているエレオノールにはその言葉を実行できる自信がなかったし、それこそが彼女の出した本当の『答え』であることに、彼女は気付いていなかった。
 


「ラ・ヴァリエール公爵家ピエール様、カリーヌ様御入来!
 バーガンディ伯爵家フィリップ様、ラ・ヴァリエール公爵家エレオノール様御入来!
 セルフィーユ伯爵家リシャール様、カトレア様御入来!」
 ルイズ・フランソワーズは、祝辞を受けるアンリエッタの傍らで家族らの来場を告げる呼び出しを聞きながら、少々退屈していた。
 本来は招待客とその同伴者のみが入場を許され、ルイズは形式上この場に居てはいけない立場である。しかしアンリエッタの誘いもあり、別邸に残るよりはと臨時の王太女付き女官として王城に詰めていたのであるが……楽しみなはずのお披露目の夜会こそが退屈の元凶になってしまうとは、幾度か王女のお側付きとして夜会に出席している彼女にも想像はつかなかったのである。
 午前中はまだよかった。立太子の儀式に於ける介添えとしてアンリエッタに従って方々を連れ回され、人目に触れることすら珍しい王家の御物をおっかなびっくり捧げ持ったり、多くの女官や侍女らとともに儀式の済んだアンリエッタを着飾らせたりと、多少の興奮と立太子式への興味もあって精神的には楽しく過ごせていたのだ。
 しかし、アンリエッタは本日の主役であった。
 いつものように主賓格ではあれども主役でなければ、家の格や王族個人との関係によっては御意を得ることの方が分不相応の身の程知らずとなってしまうこともあるが、今日の場合は彼女こそが主役であり、会場に入る全ての招待客が祝辞を献ずる為に彼女の元を訪れる。おかげで小さく言葉を交わす暇もない。
 さすがは姫様、今日のために用意された真新しい宝冠も、レースのたくさんついたドレスも、胸元を飾るきらびやかな首飾りも素敵だ。でも、ちょっとご無理をされているかしらと、ルイズはアンリエッタに同情していた。
「これはこれはアンリエッタ新王太女殿下、この度の立太子、まことにおめでとうございます。
 いやはや、それにしてもお美しい!
 今日ばかりは双月も霞みましょうぞ!」
「ありがとう、侯爵」
 多少アンリエッタの感情が、ルイズの方に漏れてしまうこともあった。子供の頃よりの長いつきあいだったせいもあり、少し後ろに控えている自分には微妙な雰囲気の違いでそれがわかるのだ。ちなみにアンリエッタは自分と同じく、どちらかといえば気の長い方ではなかった。つい先ほど、アルビオンのウェールズ殿下やジェームズ陛下と談笑していた時のように、常に和気藹々というわけでもないのねと、こっそりと呆れてもいる。
 次々と入れ代わる客人より祝辞を受けるアンリエッタとその母マリアンヌはルイズを振り返る余裕もなく、ルイズの方も時折ハンカチを差し出しては二人の額の汗を拭うぐらいしか仕事がない。王家の二人を差し置いて疲れました飽きましたとその場を去るわけにもいかず、彼女はほとほと困っていた。
 それに……脂ぎった目で品定めするような視線を送ってくる人物は、ついでのように自分にも目を向けてくる。退屈ついでに、あの老侯爵はにこやかな表情に好感が持てたので八十点、こちらの伯爵は見た目はいいけど自分にもいやらしい視線を向けてきたから十五点と、ルイズは僅かに微笑んだよそ行きの表情のままで、祝辞を述べる貴族たちに点数を付けて遊んでいた。
 多少退屈が紛れるのは父と旧知で自分も見知っている客人たち、例えばグラモン元帥やモンモランシ伯爵などが自分を見つけて声を掛けてくれた時ぐらいだろうか。見知らぬ相手では挨拶を妨げるわけにもいかず、何かのきっかけがなければ声も出せないのである。
 姫様とマリアンヌ様には申し訳ないけれど、これならジェロームに黒馬車を用意させて王都で食べ歩きでもしていた方がよかったかしらと、ルイズは小さなため息をついてあくびを隠した。

「王太女殿下、此度の立太子まことにおめでとうございます」
「ありがとう、公爵。それに皆さんも」
 聞こえてきた呼び出しから程なく、家族が揃って王女への祝辞に現れるとルイズの退屈も一瞬で吹き飛んだ。
 母カリーヌの鋭い目が、自分を見据えていたからである。
 何か拙いことでもあっただろうか?
 いや、ドレスの着こなしも完璧、作法も心得ているし、この場での粗相はなかったはず。客に点数を付けて遊んでいたのが見抜かれたのだろうか? いや、そんなはずないわ、大丈夫、大丈夫よと、ルイズは自分に言い聞かせ、心を落ち着かせようとした。
 次姉カトレアとその夫リシャールがにこやかに挨拶しているが、言葉は耳に入ってこない。
 会場に入る前、義兄になるかもしれないバーガンディ伯爵はよく観察しておこうと思っていたが、そんな余裕はすっかり消え去っていた。
 なにより、その視線を向けられているのはルイズだけなのである。
 コレは何か怒られる前兆だわと、唾を飲み込む。
 次々と過去の惨状が頭の中をを横切っていくが、止められない。

 夕餐でニンジンが嫌だと口にした時は、細くて綺麗な母の手にゴーレムもかくやという力でこめかみをつかまれ、そのまま首なしルイズ・フランソワーズになってしまうのかと思った。……あれから好き嫌いは言わなくなった。

 あまりに結果の伴わない努力に身も心も疲れ果てて魔法の授業をさぼった時は、屋敷が小さく見えるほどの宙に吹き飛ばされ、そのままお星様になってしまうのかと思った。……あの時以来、どんなに苦痛で退屈でつまらない授業もさぼったことはない。

 それからあれもこわかったわ、ああ、あのときはどうだったかしらと、ルイズはぐるぐる巡る恐い思い出の引き出しを探っていたが、やがて祝辞を献じた母らの顔がこちらを向いた。
「ひあっ!?」
 ルイズは緊張でがちがちに固まってしまった。動こうとしても動けないのである。理屈ではない。
「ルイズ」
「は、ははっは、はいっ母様!」
「……」
「……」
 上から下まで、カリーヌの視線が順に降りていく。生きた心地もしない。
「お役目、しっかりと果たしなさい」
「は、はいっ!」
「さ、あなた」
「お、おいカリーヌ……」
 母は何か言いたげな父公爵の腕を取って、そのまま会場の人いきれの中に消えていった。
「ルイズ、お役目ごくろうさま」
「ちいねえさま!」
 腰が抜けかけていたルイズは、そのままカトレアへと倒れ込むようにして抱きついた。
「ルイズ、怒られると思っていたのね?」
「うん……」
 それはもう、どうしようかと。
 あれだけで済んだのは不幸中の幸い、それにちいねえさまも心配して下さっていたのだと、ルイズは嬉しくなった。
「母様はね、ルイズ。
 あなたのことを褒めてくださったのよ」
「ちいねえさま?」
 先ほどはじっくりと視線で射抜かれた後で、『お役目、しっかりと果たしなさい』とだけ言われた。
 ……それがどうして、褒められたことになるのだろう?
「よかったわね、おちび」
 常になく機嫌の良いエレオノールからも同じ意味の言葉を掛けられたルイズは、きょとんとして姉二人を見比べた。



「カリーヌ、随分とルイズに発破を掛けていたようだが急にどうしたのだ?」
「急、ではありませんわ」
 王太女アンリエッタへの挨拶と祝辞を済ませたカリーヌは、夫の腕に軽くもたれたまま会場を歩いていた。
 政治軍事や領地の経営などには目端が利いても、子供のこととなると急に周囲が見えなくなる上、ひたすら甘くなってしまう夫である。自分ががしっかりしていなくては娘たちが甘やかされたまま育ってしまうと、カリーヌは厳しくせざるを得ない。……その気持ちのままに二十数年が過ぎ去ったが、果たしてこれで正しかったのか、未だに答えは出ていなかった。
「お役目そのものは上手くこなせていたようですし、周囲に迷惑をかけているような節もありませんでした。
 ……しかし、仲の良いアンリエッタ様と一緒にいられるからと、まだまだお役目を賜る意味なども考えていない様子。
 あの子ももう十四、少しは物事の表裏を考えるきっかけになればよいのですが……」
「ふむ、十四か。
 早いものだな」
 十四歳。
 カリーヌにとっては、杖剣と勇気だけを携えて実家を出る直前だっただろうか。野山を駆けて魔法の練習に明け暮れていたような、後先を考えずに前を向いて進むことだけを考えていたような、そして……。
「……出会った頃の君が、丁度それぐらいの歳だったか」
 夫も同じ事を考えていたらしい。カリーヌ自身もそうだが、ルイズの容姿がそのことを思い出させるのである。
 容姿も含め、娘たちは母のふわふわとした髪質や意外と頑固なところを三人三様に引き継いでいるが、彼女はもっともカリーヌに似ていた。伝えたはずのない仕草や癖まで似ていては、時を遡る魔法の鏡を見ているようだと評した夫に、照れ隠しにしては少々大きなエア・ハンマーを見舞ってしまったのも仕方のないことだろう。
「来年には魔法学院の入学もあるが……」
「そちらも問題でしたわね」
 そのルイズは、十四にして魔法がまともに扱えない状態だった。彼女の姉たちは杖を握らせてしばらく、五、六歳の段階で少なくとも何某かの簡単な魔法ぐらいはつかえたが、彼女だけは一向に魔法が上達……いや、成功する気配さえなかった。
 魔法が絶対に使えないと決めるには早計だったが、元魔法衛士隊長たる自分の目をもってしても、詠唱や魔力の流れを見てその誤りを見つけるには至っていなかった。
 不甲斐ないことこの上ない。
 カリーヌは娘にではなく、自身に対して幾分憤っていた。結果の伴わぬまま、それでも歯を食いしばって努力を重ねる末娘の姿を知るだけに、心の内にはもやもやとした気持ちが渦巻いてしまうのだ。
「ルイズの魔法の失敗は教師や教え方の問題ではない……と私も思っているが、多少の期待は抱かざるを得ないな」
「はい」
 カリーヌは魔法学院へと通ったことはなかったが、長女の学生生活を通してその中身を少しは知っている。
 夫が口にしたように、少しは期待してもいいだろう。
 魔法学院ではその立地上、寮生活を余儀なくされる。これはどれほどの大貴族であろうと、ラ・ヴァリエール家であろうと例外はない。
 だがそれこそが重要とカリーヌは見ていた。家を出ることで自立心が刺激された子供たちは、身も心も成長を促されるはずだ。
 いつかの自分がやはり身一つで家を出て成長したように、学院での生活が彼女にも良い経験となればこの上ない。
「良き出会いもあればよいのですが……」
「そうだな。
 ……む?」
 視界の隅に少々不快な顔を見つけて途端に機嫌が悪くなった夫を宥めるように、カリーヌは絡めた腕に少々力を込めた。



「うん、こっちも大丈夫そうだ」
「綺麗な装飾ね、リシャール」
 アンリエッタ王太女への祝辞をラ・ヴァリエール公爵家の面々と共に済ませたフィリップ・ド・バーガンディは、感嘆と共に大きな水槽を見上げていた。
 婚約者であるエレオノール公爵令嬢が、妹夫婦がこの夜会のために献じた魚料理を味見しに行くというので、彼女に腕を取られたまま夜会場の隅、酒肴が揃えられた一角へと足を運んだのだ。
 魚料理の眼前に生きた魚とは奇を衒った趣向だが、品良くまとめられている。水槽そのものは封じられているようで潮の香りこそないが、彼には海辺にある某家の別邸に招待されたときのことを懐かしく思い出させていた。
「ほう、見事なものだ。
 これもリシャール殿の采配かな?」
「はい、いくらか提案させていただきました。
 せっかくのお祝いですので、綺麗な方がいいかなあと……」
 義理の弟になる予定のセルフィーユ伯爵が、隣で頭を掻いている。
 自分よりも一回り年下の彼だが、いい意味で子供らしくないところは静謐を好むフィリップにとっても好ましい。
 本人の耳には入っているのかどうか、社交界に疎い自分でさえ彼が次代のラ・ヴァリエール公、未来の宰相と影ながら囁かれていることを知っていた。
 それとは結びつかないのんびりとした様子で皿を指差しては妻になにやら囁いている彼は、失礼ながら、子供子爵とも揶揄されていた彼本来の姿ではないかとも思える。
「少し喉を潤そうか?」
「はい、フィリップ様」
 気持ちを傍らの婚約者に戻したフィリップは、エレオノールの手をとって空いている席を一つ確保した。後ろ手で、彼女には見えない位置から給仕を呼び寄せることも忘れない。ほどなくセルフィーユ伯夫妻もこちらにやってきた。
 水槽は高い位置に置かれて淡い青で照らされており、中にはセルフィーユ伯爵によって持ち込まれた活魚の一部が泳いでいた。大きさが幅二メイルと大きな物で迫力も十分あり、透明な分厚いガラスで三方を囲んで奥手には色ガラスの向こうに魔法の飾光を置き、内側には白砂と形良い色石を配置して幾種類かの魚を泳がせている。
 それを眺めつつ魚介類を中心に申しつけると、待つほどもなく料理と酒杯がテーブルに揃えられた。
 先ずは始祖への感謝と、王太女殿下の御健康並びに王国の隆盛を祈念して乾杯する。
「日程が押していたにも関わらず、王城に勤める土メイジが数人こちらに掛かりきりになってしまったとか。
 ……少し申し訳なかったです」
 水槽の中の水は、水のメイジである自分の目から見ても程良い温度と清潔さを保っている様子で、セルフィーユ伯爵らの苦労が伺える。海水だと気付いたフィリップは、今一度感心してみせた。
「あらリシャール、これは王城勤めの彼らにとり腕の見せ所でもあるのよ。
 少しの無理と苦労は彼らの腕を磨くわ」
 何処も無理と苦労は変わらないかと、フィリップは内心で頷くに留めた。
 しかしと、隣に座るエレオノールに視線を送る。
 領地では旧来の家臣たちが、いや自分も含めていつも無理と苦労をしているが、別の観点からは腕を磨くという見方も出来るらしい。

 フィリップの領地バーガンディ伯爵領はラグドリアン湖の東端に位置し、南の領境をガリア王国に接していた。このことからバーガンディ伯爵家は代々国境警備の軍役を担っていたのだが、ここ数年で意味合いが大きく変わってしまったのだ。
 彼が亡き父より領地を受け継いだ頃、隣国の領地はまだガリア王の直轄領で、その当時は国境警備とは言っても形ばかりのものだった。亜人や野盗が国境を越えてくる事も少なく、比較的負担も軽かったように思う。後にガリアで国王の代替わりにあわせて第二王子から王弟となったシャルルに下賜されその地はオルレアン大公領となったが、幼少より優秀で人当たりの良い人物と名高かった彼のこと、当家にもよい結果に結びつくのではないかと期待していた家臣達の言葉も懐かしく思い出される。
 しかし王領が大公領と名を変えて幾らもしないうちにオルレアン大公シャルルは暗殺、領地は止め場として王領に戻されることなくオルレアン大公家預かりのまま半ば放置されてしまった。残された大公夫人は病を得て半ば幽閉され、娘も未だ幼く、統治者も管理者も不在の領地は僅かな期間に荒れていく。
 特にバーガンディ伯爵領への影響として大きかったのは、国境を越えて襲来する亜人たちである。奴らに国境の概念はなく、大公領内の村や町は自衛が精一杯の抵抗だった。後から知ったが、不名誉印を押された家の領地と、ガリアの王政府も無視を決め込んでいたようである。
 交渉相手の居ない隣国の領地では手の差し延べようもなく、さりとて内政への干渉とも取られかねない故にガリアの中央へと直訴するわけにもいかない。
 ともかく、引きずられてこちらの領内まで荒れてはたまったものではないし越境してくる亜人は迎え撃つだけと、領内に触れを出して一層警戒を強めると同時に、兵士も増やして巡回させた。おかげで領内の社会基盤や領民への被害は少ないもので済んだが、代わりに軍費は大きく上昇して伯爵家の財産を圧迫していた。領内への出兵とは言えど、それが続けば馬鹿に出来ないほど負担は膨れ上がる。
 杖を持つ家臣は普段机に向かっている者も交代で後方支援にあたり、時にはフィリップ自らが兵士たちの先頭に立った。
 今年に入り、最早面子に拘泥している場合ではないと王政府へ訴え出て軍を借り受けたが、一時的な安定は作り出せても根本的な解決には至らず、フィリップはこの問題に頭を悩ませていた。

 無理と苦悩も、自らを磨く糧とする。
 流石はラ・ヴァリエール家のお嬢様だなと、フィリップは酒杯を傾けて微かに微笑んだ。
 自分も家臣も、付け加えるなら領民も、ここ暫くで随分と戦慣れしてしまっているのは間違いない。皆が周囲のことに気を配り、目端を利かせ、以前よりも統率が取れている。父の代から仕えていた家臣達とも、遠慮がなくなった分距離が近くなった。……なるほど、前向きに考えれば良いことも多い。
 しかし、そんな前向きで真っ直ぐで気高い彼女に、果たして自分は釣り合うのかと悩んだこともある。
 一目惚れしたことそのものは、間違っていなかったと思う。
 だが、興奮冷めやらぬまま園遊会を終えて領地に帰り着いたところで我に返り、家格はもちろんのこと、目立つ容姿に優秀な頭脳、自信に満ちた気高さや洗練された物腰まで含め、何から何まで差がありすぎて冷や水を浴びせかけられた気分になったことを幾分引きずっているフィリップであった。
 王立アカデミーの研究員である彼女は当然王都住まいで、フィリップもトリスタニアに用事を作っては彼女の元を訪問していたが、これは早まったかと思うことも一再ではなかった。逢瀬の度にきつい調子で小言を貰っているし、自分と彼女との間に差を見つけ、引け目に感じてしまうのである。嫌われているのかとも思ったがそれならば断ればよいだけの話で、どうにも解せない。
 たまたま登城がかち合ったセルフィーユ伯爵をつかまえ、こっそりと相談したほどだ。
『義姉は勝ち気で融通のきかないところもありますが、ご両親に似て情に厚い人です。
 それに気を許した相手には遠慮のない方ですから、もしも直截な物言いで伯爵様に何か仰るようになったのでしたら、それは、あー……そういうことだと思います』
 彼の目から見ると、自分は彼女に好かれているらしい。
 セルフィーユ伯爵の意見に少し気分が晴れたフィリップには、その後は彼女の小言も自分への励ましに聞こえてきたから不思議なものだ。
 領地の方が落ち着いてからになるが、本格的に結婚の話を進めたいと彼女と彼女のの両親に告げてみようかと、フィリップは決意していた。

 しかし実際には、家格差も何もかも、既に問題ではなくなっていた。
 エレオノール本人はもちろん、公爵夫妻にルイズ、ついでに嫁いでいったカトレアとその夫、その誰もが二人の結婚を望んでいたのである。



 半ば子分のような関係のとある貴族との密談を終え、高等法院長リッシュモンは賑わう夜会の隅で一人酒杯を傾けていた。
 彼によればアルビオンの方で何やら動きがあったらしく、あちらは大騒ぎになっているという。口には出せない夜の顔の方でそちらにも一枚噛んでいるリッシュモンは、懐が潤うのは良いが面倒事にならぬよう少し気を引き締めねばと、頭を巡らせていた。
「お久しぶりですな、リッシュモン『高等法院長』殿」
「おお、ゴンドラン『アカデミー評議会議長』殿、ご無沙汰です」
 リッシュモンが夜会へと顔を出すことは、極めて珍しい。
 昼の顔には高等法院長という重職を持つ彼は、多忙を理由に夜会への招待の大半を断っていた。だが相手によっては、今日のように会って話し込む場面を周囲に見せて、旗印の向きを明確にした方が良い場合も希にある。
 時間には少し早いが丁度良いかとゴンドランに席を勧めたリッシュモンは、仲の良い様子を印象づけるべく、給仕を制して手づから彼の酒杯へと酒を注いだ。
 今日の良き日にと、いえいえ良き偶然にと、それぞれ口にして軽い乾杯を交わす。
「アカデミーは相変わらずのお忙しさだとお聞きしておりますぞ」
「高等法院に比ぶれば、何ほどのこともありませんでしょう。
 こちらは研究よりも予算に頭を悩ませているのが実状ですからなあ」
「法院も同じこと、王政府の締め付けが年々厳しくなっております」
 目だけが笑っていない笑顔で、二人は酒杯を呷った。
「『鶏の骨』めにはお互い苦労しますなあ」
「まったくです」
 この二人は互いが尊重すべき顧客であり、同時に頼りになる依頼先でもある。ゴンドランはトリステイン社交界に影響力が強く、対してリッシュモンは国外との太い繋がりを持っていた。
「最近その『鶏の骨』は、余所から借りてきたヒヨコの親鳥を気取っておると聞きましたぞ」
「そのようですな。
 まだ尻に卵の殻をつけている年回りながら、伯爵位を得たとか?
 大方、王太女殿下を誑かしたか何か……爵位は子供の玩具ではありませんでしょうに、実に嘆かわしいことです」
「……貴族院議長も憤慨して居られましたな」
「あれは……あー、おほん、そうでしたか、憤慨して居られましたか」
 リッシュモンは噴き出しそうになるのを堪え、明後日の方向を向いてとぼけて見せた。
 貴族院議長のリュゼ公爵は、一晩かけて方々へとばらまいた賄賂を次の日には全て無駄にするという、リッシュモンにはとても真似の出来ない離れ業をやってのけた尊敬すべき人物だ。あのような早手回しは既に芸事の域、単なる失笑で済ませるには惜しい。
 ゴンドランの口元も僅かにひくついていることから、彼もリュゼ公爵の偉業を評価していることが読みとれた。
 但し公爵は二人にとって重要な得意先でもあり、そのまま失策を重ねて表舞台より退場されても困るのだ。適度にこちらを潤してくれる程度には、権勢を維持して貰わねばならなかった。その過程で自分たちは利益を得るのだから、この加減は重要である。
「そのリュゼ公爵、今はラ・ヴァリエール公爵との睨み合いで身動きがとれぬそうで。
 ヒヨコの方は王政府から排して城の奥に押し込めたものの、ラ・ヴァリエール家の徹底した庇護下にあってもう一手を出しあぐねており、私やあなたの力添えが得られれば、重畳この上ないそうですぞ」
「ほほう……」
 ヒヨコことセルフィーユ伯爵の名だけは、リッシュモンも覚えていた。
 国内での評判などはまたの機会にゴンドランより詳しく聞けばいいだろう。アカデミー評議会議長の情報通振りには一目置いている。
 一方リッシュモンが調べるまでもなく耳にしているのは、彼がラ・ヴァリエール公爵の義息で、宰相マザリーニだけでなく王家とも懇意であり、領内に在外公館を置かれるほどアルビオンのウェールズ王太子と頻繁なやり取りを交わしていることぐらいであった。
 そこまでを並べて、これは意外と手が回しやすいかも知れぬと、リッシュモンはほくそ笑んだ。おあつらえ向きなことに、アルビオンには最近特に懇意にしている『仲のいいお友達』が多いのだ。
 さて、アルビオンの件と上手く結んで両方から利益を得る方法を考えねばなと、ゴンドランには近日中に再度連絡を取り合うことを約束して、彼は話を切り上げることにした。
 他にも約束が幾つかある彼のこと、夜会に出れば出たでそれなりに忙しいのである。




←PREV INDEX NEXT→