ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第十八話「抜擢」




 幾分の情報交換をして現状の把握を済ませると、後ほど宰相にも諮ってみますからとアンリエッタが締めくくり、その場はお開きとなった。
「マリー、あなたのお父様はすごいのよ。
 未来の宰相様ですって」
「とーさま? すごおい?」
「どうかなあ……」
 別邸へと帰る馬車の中、自分に手を伸ばしてくるマリーの手を取りながら少し固い笑顔を作る。
 リシャールは先ほどの会合、その最後のやりとりを思い返していた。

『それで、リシャールは宰相になってくれるのかしら?
 わたくしは……そうね、将来はそうあって欲しいと思っているけれど、正直なところを聞いてみたいわ』
『ありがたいお言葉です。
 ご尽力いただいている皆様方の手前、口にするのは憚るのですが、出来得れば遠慮したいと思っております。
 領地の経営に影響が出過ぎますし、宰相職に最低限必要な幾つかの能力のうち、外交面が非常に弱いことを自覚しております。
 今日の話の最中も……特にここしばらくの自分を振り返りますと、領地の維持にさえ差し障りがありそうだと、気を引き締めておりました』
『では宰相就任は別として、あなたが主導してトリステインの財政を上向きにすることは出来る?』
『……劇的な効果はまず望めません。ですが、不可能ではないとも考えています』
『頼りにしているわよ?
 どちらにしても、頑張って貰いますからね』

 話し合いの最後の最後、アンリエッタから幾つかの質問と確認があったことで、リシャールの中央入りはほぼ明確なものとなった。
 但し、こちら側の準備が整わぬままに貴族院側の主導でお膳立てをされて首だけを差し出すのは明らかに悪手であり、今しばらくはただの王室見聞役として現在の状況を維持することがリシャールには求められた。
 そしてもう一つ。
 期限付きとは言え、衛兵隊副隊長アニエスが『近衛職』の侍女として王宮に召喚されることになり、王都暮らしがほぼ確定したのである。
「アニエス副隊長、なんというか……、その……」
「……いえ、領主様。
 これも一つの任務と心得ております」
 静かな様子で、リシャールを安心させるように微笑む彼女であった。

「ごめんなさいね、二人とも」
 リシャールは翌日早朝、アニエスを連れて再び登城していた。今日は奥向きのなかでもこぢんまりとした応接室に通されている。カトレアとマリーはラ・ヴァリエール家の別邸へと遊びに行ったので、こちらには同行していない。
 室内には、アンリエッタを挟んでマンティコア隊のド・ゼッサール隊長ともう一人、リシャールとは初顔合わせになる女官、四十代の頃合いに見えるオディール・ド・ルーセ夫人が座っていた。
「ルーセ夫人はお母様の女官で、王宮の奥向きのことにも詳しいの。
 ああ、アニエス、あなたも席について。
 今日の主賓はあなただわ」
「は! 失礼いたします!」
 アンリエッタの一声でアニエスにも席が用意されたが、彼女は少し居心地が悪そうにしていた。王太女殿下を筆頭に、同席するのが王宮の中枢で重責を担う人々と主君では、平民の彼女には少しばかり辛い状況だろう。

 だが、断る断らないの段階は既に通り越していたし、リシャールとしてもアンリエッタの安全に気を使わなくてはならないことは、昨日の話し合いを思い返すまでもなく理解していた。もしもアンリエッタが志半ばで倒れたなどとなれば、トリステインの未来は暗闇に閉ざされて、セルフィーユ家もそれに引きずられてしまいかねない。空賊の襲撃を思い出すまでもなく、先の先まで見据える必要は確かにあった。
 また期限は女性による近衛隊が名実共に組織化されるまでの一、二年と聞いているが、状況によってはアンリエッタの即位後数年という可能性まで考えられた。ことによると、正式にセルフィーユ家から王家に彼女の籍を移さねば成らない。最短は形振りを構っていられない予定外の変事とその対処、リシャールの宰相就任やアンリエッタの強引な即位など即時の対応が求められる場合である。
 その場にいた当主衆らは、アンリエッタの安全に気を使うことは絶対としても、個人的に信頼できる縁者や伝が王宮奥深くに常駐することの意味を考えればこれは破格の抜擢でありまた名誉であると口を揃えていた。王宮に家臣が召し出されるとなれば、貴族家同士の家臣の融通やヘッドハントとは、まったく意味が異なってくる。国の中枢に一本、自分専用の裏道が開けているのと同じなのだ。
 カトレアは王宮に遊びに行かないと会えないわねと少し寂しげであったが、アニエス本人はご命令とあらばそれに従うと普段通りの様子であった。カリーヌ夫人は何か言いかけていたが、マリアンヌ王后に素早く口を押さえられたのでその言葉は誰にも聞こえていない。
 ではリシャールはと言えば、名誉なことではあっても身の守りを一枚剥がれた気分である。彼女自身への信頼も大きいので、手元から去られるのは惜しい。だがアンリエッタとマリアンヌはリシャールにとり社交界と王政府に於ける最大の擁護者で、今後アニエスは王太女の安全を守ることで別の角度からセルフィーユを守ってくれるのだと、自分を納得させざるを得なかった。

 人払いがなされた応接室で、アンリエッタが口火を切った。
「昨日触りだけお話をしたけれど、改めて、最初からお話しするわね。
 これは以前から宰相や近衛の隊長たちに懸念されていたのだけれど……わたくし、女ですわよね?」
「はい、もちろんです」
 もしも今になってアンリエッタが実は男性だったという事になれば、アルビオンのウェールズ皇太子は間違いなく卒倒するだろうなと、リシャールはくだらないことを考えながら首肯した。
「ですが、正にその点が問題なのです、伯爵。
 マリアンヌ様は立太子されず、婿としてトリステインに入られたテューダー王家のヘンリー殿下がアンリ陛下として即位なさいましたので、王家の子女としての警備体制を越えて御身をお守りすることはなかったのですが、アンリエッタ様は既に王太女であられます」
 ド・ルーセ夫人は丁寧な仕草で聖印を切ると、小さくため息をもらした。
「内幕を少し申し上げておきますと……。
 ご夫君が共にいらっしゃるならば、控えの間に騎士が待機しておりましても問題とはなりません。
 しかし殿下は未婚の身でいらっしゃいますし、殿方をお側に控えさせることはご成婚まで不可能でございます」
「そこでね、リシャール。
 女性のみの近衛隊を一つを組織しようという話までは進んだのだけれど……新たに近衛部隊を創設するとなれば、一時的なものであれ相当大きな騒ぎとなってしまうわ。
 わたくし、今はまだ王位を継いでいませんから横槍も多いでしょうし、実際に危険があったわけではないことになっていますから、強く出るのもよくないの。……昨年春の一件は表に出せませんから、そのつもりでね?」
「はい、無論です」
 空賊の襲撃事件を蒸し返すことが諸刃の剣であることは、説明されるまでもなく理解できた。下手を打てば今でも静かに燻っている対立が燃え上がり、内戦のきっかけとさえなり得る。あの事件を奇貨として近衛隊を組織することはリシャールも悪手だとすぐに気付いたし、王宮もそれは理解しているらしい。
「でも、事が起きてから護衛を作ったのでは遅すぎるわ。
 そこで思い至ったのが、姿は侍女ながら仕事は護衛というアニエス、あなただったのよ」
 リシャールはその表に出せない一件で、アニエスを『アン・ド・カペー』嬢と名を偽ったアンリエッタ専属の護衛としていた。もちろん、旅程の最中で彼女の働きぶりを一番間近で見ていたのは、護衛の対象であるアンリエッタである。
「先王陛下の時代には、もちろん出入り口の警護だけでなく陛下のお側には我ら衛士隊より選抜した不寝番を置いておりました」
「もちろん、今も侍女を控えの間に待機させております。
 ですが、信用ある女官や侍女はともかく、戦の心得のある者となるとそうそうに見つかるものではなく……」
 何卒、しばらくの間アニエスをお貸し戴きたい。
 脇の二人は揃ってリシャールに頭を下げ、続いてアニエスに視線を向けた。
「アニエス、貴女はセルフィーユ家に於いては奥向きの警備を任されているそうですね?
 それも、主に奥方様、一の姫様の警護をする機会が多いとか?」
「はい、その通りであります」
 ルーセ夫人は義母カリーヌや義姉エレオノールにも似て規則や礼法に一言ありそうな雰囲気であったし、もとから厳ついド・ゼッサール隊長もいつになく真面目な表情を作っているのでリシャールは少しだけ小さくなっていたが、アニエスは気圧されもせずに姿勢を保っている。
「王家の信任厚い『鉄剣』殿がご家族の安全を任せていることに加え、殿下直々のご指名……あー、おほん、いつ殿下がアニエスの名をお知りになられたのかまでは口にせぬが、殿下のご期待には是非とも応えて貰いたい」
「覚悟は決めて参りました」
「……うむ。
 あってはならない変事に最初の盾となり、魔法衛士隊の騎士が駆けつけるまでの一瞬、ただの女官や侍女では不可能なその一瞬の時間を稼ぐことの出来る者を育ててもらいたいのだ、アニエス」
「未熟者ではありますが、王太女殿下のご期待と伯爵閣下のご信頼に恥じぬよう、尽力いたします」
 アンリエッタはその様子を見て、頷いてからアニエスへと目を向けた。
「もちろん、わたくしは王宮魔法衛士隊に絶対の信頼を置いていますし、皆の忠誠に疑いを抱いてはおりません。アニエス、あなたもよ?
 でも……いくら信頼ある護衛でも、男性ではお風呂場や衣装部屋に入って貰うわけに行かないし、寝室にまで控えられて殿方に寝顔を見られるのは少々困るのです」
 年頃の娘には余り嬉しいものではないだろうし、王太女の生活空間に男の影が見え隠れするような事態は十分に醜聞となり得た。公的にも私的にも、その様な話題の温床とならないよう男性は身辺から遠ざけておきたいのである。
「わたくしには兄弟姉妹はおりませんし、近しい従兄弟もアルビオンのウェールズ殿下ただ一人。
 もちろん、もしも今わたくしが死んでも、トリステインを継いで貰うわけにはいかないお方です。
 ……わかっていただけて?」
 リシャールは少しばかり複雑な表情で、アニエスとアンリエッタのやり取りを見守っていた。
 アンリエッタとウェールズは、秘められた恋を温めている。だが結ばれるには互いの持つ背景が強大すぎて、二人が結ばれる可能性はとても低い。
 これで両王家のどちらかに庶子や王甥姪であれ血筋の濃い公子公女が現存するならば、国を二分する危険を孕みながらも二人が結ばれる可能性はまだあったのだが、今となっては望み薄であった。

 大抵の場合、未婚の姫君や令嬢には、慎ましやかであることが期待されていた。事実無根の噂話でも嫁ぎ先の家格が変わるほどの影響も無くはないし、醜聞は自らの首を絞める革ひもと変わりない。恋人と共に夜会や劇場に通う程度は許されているし、既婚者や未亡人の場合は『随分と』話が異なってくるが、それでも不義密通は眉をひそめられる。
 逆に王や王子、あるいは貴族家の当主や公子であれば、正妻を恋愛によって選べないことが多い貴族家の裏事情にも関わるが、多少はお目こぼしが許されていた。
 多情は男の甲斐性とまでは行かずとも、正妃を迎える以前も以後も、寵姫や愛妾といった女性達が社交場を彩り、あるいは寝室で花咲かせることは少なくない。姫君では箝口令が敷かれて全てが封殺されてしまうところを、男性上位の社会構造がそれを許していた。本人の性格や容姿、思想は元より、両親の地位や血統、政治的背景さえ厳選された女性達を用立てる、女衒まがいの役職が置かれることさえあった。
 寵姫の方でも寵愛を受けることで地位や役得が舞い込むから、競争は激しかった。その最たるものは産んだ子が国王として即位し、国母として専横を振るうことだが、そこまでは行かずともドレスや宝飾品は当たり前のように与えられ、領地や爵位、荘園付きの妾宅を下賜されたり、珍しいところではガリア国王ジョゼフの愛妾モリエール夫人のように騎士団を与えられたりすることもあった。
 だが、高貴な男性の浮気が全て許され認められるのかと言えば、決してそうではない。隣の花園に目を向けながらも正妻を気遣って、遠慮して、または悋気を恐れて浮気を取りやめるというのなら、まだまだ状況は良い方だ。外国の王室から迎え入れた王妃など、浮気が開戦の理由になることさえ考慮しなくてはならない。一夜良い夢を見ただけで国同士が戦争状態に突入するなど馬鹿馬鹿しいを通り越しているが、周囲も笑って済ませられるものではなかった。また、正妃対寵姫、寵姫同士、そこから発展してその後ろ盾に立つ貴族間での表だった対立など、頭を痛める事態になることも枚挙に暇がないのである。
 対して国王と正妃が仲睦まじい上に子沢山で寵姫の必要が一切ないこともあれば、健康上の理由や政治的安定の為、浮気される正妻本人を含めた周囲が一丸となり、諸手を挙げて寵姫の誕生を歓迎することも皆無ではなかった。国王や当主の最も重要な仕事は統治能力や軍才を発揮することなどではなく、その血統を次代に伝えることなのだという一面が伺える。
 またそれらによって生まれた庶子の扱いも、時と場合により千差万別であった。
 正妻の子がなければ、庶子を正式な子と認め王位や爵位を継がせることも選択肢足り得た。貴族家ならば跡継ぎの用意で揉めたなどと広まれば時と状況によってはいい機会だから潰してしまえともなるが、国の根幹ともなればそうもいかないらしい。王位継承順位については王家の意向の元で貴族院の担当部署が管理しているが、その順位が数百位まで用意されていることからも伺い知れた。貴族達の拠りどころとなる大樹を潰すわけにはいかなかったし、妾腹の王でも寵姫の出自や国が置かれた状況によっては周囲が目を瞑る。ちなみにリシャールは王家に連なる血か政治力が薄すぎたようだが、カトレアはもちろん、マリーにも末尾に近いながらトリステイン王位の継承権が与えられていた。
 正妻の産んだ子女がいれば、一時的に王家預かりの家名を分け与えて一家を立てさせた上で、入り婿や降嫁、養子として他家に入れてしまうことが多かった。王家の影響力を貴族社会に行き渡らせる手法としては、良い手でもある。更には継いだ家名が王家に差し戻されるわけで、つまりは『居なかった』ことになるので都合も良かった。時には生母ともどもの病死や毒殺、大捕物の末の敗死獄死も含め、本当に『居なかった』ことになるが、こちらは数が少ない。
 だが、ラ・ヴァリエール家などは開祖を王の庶子としながらも、有力貴族の娘であった開祖の生母が若くして亡くなった正妃に対して寵姫ながら実質的には後妻として正妃に準ずる扱いをされていたこと、当の開祖が軍事的な才能を発揮して王を救い国に多大な貢献したこと、その後も傑出した才を放つ子孫に恵まれて家名を挙げたことなど、数々の要因が影響し、国内最大の公爵家として現在まで家が存続していた。正腹の王子でさえ王位が得られなければ一代貴族として爵位と家名と領地を与えられ、生涯の終焉と共にそれらは王家に戻されるのが常であったから、これは希有な例である。

「自分などより『鉄剣』殿の方がよくご存じでありましょうが、昨今、世情が不安定ですからな。
 いつ我が国に飛び火するとも限りませぬし、少しでも憂いが減るならば、我らは努力せねばなりません」
「ええ、その通りです」
 ド・ゼッサールの言に、ワルドも似たようなことを口にしていたなとリシャールは頷いた。
 おおよその話は片付いたと見たのか、アンリエッタが手を叩いて立ち上がった。
「それでアニエス、詳しい中身は改めてお二人と話し合って貰うとして……。
 このお仕事、引き受けて戴けるかしら?」
「はい殿下、非才の身ながら全力を尽くすことを誓います」
「よろしい。わたくしの背中をあなたに預けます。
 ……リシャール」
「はい」
「あなたはアニエスの支度が調い次第、王都に送り出して頂戴。
 アニエスはもちろん、心残りのないように準備を。セルフィーユへと戻るまで、少なくとも一、二年は見ておくようにね。
 ド・ゼッサール隊長はいま警備の穴となっているわたくしの寝室や私室について、他の隊長とも相談してから問題点を報告書にまとめるように。
 ルーセ夫人にはアニエス受け入れの準備と、あらためて彼女の指導を受ける女官や侍女の選別をお願いするわ。アニエスはセルフィーユ伯爵の信任も厚く、平民でありながらわたくしが自ら請うて王宮に呼び寄せたということを十分に言い含めておいて」
 同席の四人は臣下の礼をとるべく、揃って膝をついた。

 ド・ゼッサール隊長とルーセ夫人が先に返され、リシャールは少し話があるからと残されていた。アニエスも護衛任務を試みるとして、許可を得た上で同席を許されている。
「リシャール、これは数年先を見た話になるのだけれど……」
「はい?」
「派閥の違いや家柄の為にセルフィーユ家の家臣には出来なくても、王政府になら推薦出来る人材を、それとなく調べて心の隅に留めておいて欲しいの」
 親政への布石なのだろう。リシャールも領地と家を支えてくれる家臣領民の配置や待遇には気を使っていたし、彼らがいなければここまでの足跡はありえなかった。
 優秀な人材を見つけるのは、実は割と簡単だ。大抵は目立っている。しかし彼らを手元に招くには骨が折れたし、本人が望まなければそれまでだ。相応に地位も与えられていて元より不可能な場合の方が多い。当たり前だが、いくら優秀で頼りになっても、リシャールが義父ラ・ヴァリエール公爵や宰相マザリーニ枢機卿を家臣に持つことは出来なかった。
 また、依頼の内容も気負うほどではないが、トリステインの将来を左右しかねない。口で言うほど簡単な案件でもないかと、気を引き締める。
「もちろん、あなた以外にも頼んであるわ。
 複数人が同じ名を口にするなら当たり、という程度のものよ。……って、これは宰相の入れ知恵だけれど。
 そうそう、国の内外は問わないわ」
「……よろしいのですか?」
「あら、現在我が国を支えている宰相は、確かロマリアの出身だと思ったのだけれど?」
 虚を突かれたリシャールの表情に、アンリエッタがくすくすと笑う。
 だがトリステインの女王ならば、極端な話アルビオン王、ガリア王、ロマリア教皇、少し下がってゲルマニア皇帝の地位にある者以外、全ての人々を家臣と出来る可能性があった。始祖の血を継ぐ王家とは、それほどの家なのだ。一時的なものにせよ、十分な名目が立つならば状況によっては小国の王や大国の王族でさえ例外ではなくなる。
「リシャールの方からは、何かあるかしら?」
「いえ、特に大きなものはありません。
 明日の夕刻には王都を出立いたしますし、今日はこの後、マザリーニ猊下とお話をするぐらいです」
「そう。
 わたくしもリシャールとお話ししていたいのだけれど、この休暇中に済ませておきたいことも多いから、また次回の奏上を楽しみにしていますわ。
 それから、明日までアニエスを借りていてもいいかしら?」
 アニエスが頷いたのを確かめて、リシャールも了承の旨をアンリエッタに伝えた。

 内奥を辞したリシャールはマザリーニの元に向かい、昨日の会合の様子やセルフィーユの状況を報告し、今後の動きなどについて確認を取り、しばらくは今まで通りに見聞役と領政に専念することを伝えた。
 マザリーニは年始の祝賀会には姿を見せないし、その日は王城にも出仕しない。トリステイン宰相にして、ブリミル教団の司教枢機卿という上にはほぼ教皇しかないほどの高位聖職者である彼には十分出席の資格もあるが、祝賀会が基本的に国内貴族の集まりで、自分がその場に居ることと居ないことを天秤に載せた時、どちらがより有為で意味のある選択か知っているのだろう。
「姫殿下の足元を固める為にも、国そのものが盤石であらねばなりませぬ。
 伯爵もいよいよ難しいお立場かと存じますが、ここが正念場と心得ていただきたい」
 報告の中でも、街道工事のうちで予定される工事区間の全てが領内となったハーフェン向けの街道が、今年の年末を待たずに完成することはマザリーニに一息をつかせたようである。新領への救済策の一つとして工事を推進したことと、区間が他の方面よりも短いことが幸いしていた。リシャールも小耳に挟んでいたが、新たな商機を掴みたい中小の商人、彼らの落とすであろう税収を期待している領主、それらの状況を眺め半ば面白がって煽っている辺境伯など、ゲルマニアの方でも街道に期待をする勢力が後を押し、協約締結より一年半が経過した現在、ゲルマニア側の進捗状況はこちら以上なのである。
「十年の計画より俯瞰すれば、伯爵のご尽力もあって予定通りか少し早いぐらいですが、ゲルマニア側は工事の早期完了を望んでいましょうな」
 これは、総延長ならばリシャールが計画している三区間よりずっと長いが、トリステイン側が一伯爵の懐一つで予算を賄っているのに対し、ゲルマニアはツェルプストー辺境伯領内の区間こそ辺境伯が自前で工事を仕切っていたが、セルフィーユ・ハーフェン間の工事には皇帝の承認の元、国の予算が使用されていたからある意味仕方がない。借財さえ有するセルフィーユ伯爵家と、金持ちで知られるツェルプストー辺境伯家や、トリステイン王政府に比べて規模も大きく予算も潤沢なゲルマニア政府では、並べるのもどうかという気分になる。
「王政府にもですな……資金だけは先にこちらで用立てて伯爵に貸し付け、工事を加速してはどうかという者もおります。
 その金があるならこの逆風下、他に回すべしと煙に巻いておりますが、伯爵が主導でなければ、私でもその方がよいと思えるので始末に負えませぬ」
「……街道工事完遂の功を以て宰相にごり押しする、というあたりでしょうか?
 後から首まで締まりそうですね」
「でしょうな」
 マザリーニは、自分の耳にもリシャールを後押しする勢力の噂は聞こえており、今度は自分の方が身辺に気を使わなくてはならなくなったと苦笑した。暗殺はともかく、病で倒れるわけにもいかないのだろう。
 予定の工期は残り六年に予備二年、早期の完成はセルフィーユ周辺の市場と税収を充実させるが、同時にいらぬ口実を与えてしまう。順調かつ目立たぬように諸事をこなすことが、今の自分には求められているのである。

 翌日、アニエスが別邸に返されるのを待って、リシャールらを乗せた『ドラゴン・デュ・テーレ』は帰路についた。
「アニエス、リシャールと相談したのだけれど、別邸の一室を使えるようにしておいたから、あなたのお部屋にしてね。
 ……忙しくて王宮を出る暇もないかもしれないけど、帰る場所くらいは必要よ」
「それから、新たに必要な装備や消耗品があれば、セルフィーユに知らせて下さい。
 王宮でも用意されるでしょうが……アニエス殿の仕事は、間接的に僕たち家族を守っていることに他なりません」
「ありがとうございます、領主様、カトレア様」
「あにえす?」
「はい、マリー様もありがとうございます」
「あい!」
 王城より戻ってきたアニエスからは、近衛隊は当初数名でその存在も大きく喧伝せず万が一には備えるが訓練が主体となること、即位後には小規模の近衛隊として組織され女王の私生活を守ること、その立ち上げまでの面倒を見るのが仕事だと聞かされている。
 彼女の任務に多少なりとも援助をすることは、話を聞いた時点で決めていた。セルフィーユ家としてもリシャールとしても、彼女の王宮勤務は疎かに出来ない重要な案件なのである。




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