ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第十五話「東の果て」




「死者を……蘇らせる!?」
「ああ、どんなに優れた水魔法の使い手でも決して不可能な筈の、死者の蘇生だ」
 ワルドの一言は、リシャールに大きな衝撃を与えた。
 春先の襲撃事件の最中、死体が歩くのをリシャールは見ていたのだ。今でもその時の驚きは、よく憶えている。
「驚くのも無理はないと思うが、使い手が居なくて失われた伝説の系統だ。
 誰も知らない、存在すら疑われていたものだからね」
「……」
 では、あれが、虚無だというのだろうか?
 ワルドの言葉通りならば、そしてリシャールの推察が間違っていなければ、貴族連合レコン・キスタの活動開始は少なくとも今年の春にまで遡ることになる。
 その意味するところは、間違いないだろう。ワルドの言葉を半ば聞き流してしまいそうになるほど、リシャールは考え込んだ。
「つまりだ、今のところクロムウェル議長は『議長』を名乗っているが、レコン・キスタは正統な王家の血筋をその頂点に戴いていることになる。
 それにレコン・キスタは……どうしたんだね!?」
 リシャールの様子がおかしいことに気付いたワルドは、訝しげに顔をのぞき込んだ。
「ああ、いや、確かに驚くべきことではあるが、そこまで気にせずともよいだろう。
 今はまだ、隣国の内乱に毛の生えたようなものであるし……」
「いえ、そうではなく……。
 ……子爵殿」
「なんだい?」
「その……虚無の魔法を、僕は見知っているかもしれません……」
「なんだって!?」
 意図したわけはないが、今度は驚かされる番がワルドの方に回ったようであった。

 リシャールは少し気を落ち着かせるために、ワインを口元に運んでのどを潤した。
「子爵殿もご存じかもしれませんが、今年の春先、アルビオンへと向かった帰りに空賊が襲ってきたんです」
「……君のことが貴族院の議場で取りざたされた時、王后陛下の護衛としてお側に控えていたからね、その件は知っているよ。
 後から聞いたが大活躍だったそうじゃないか」
 流石は魔法衛士隊の隊長である。何でもお見通しらしいとリシャールは頷いて見せた。
「これからお話しする内容は軍と王政府への報告書にももちろん記しましたが、事件そのものが無かったことになっているのかもしれませんので、報告書が封印されている可能性もあります。
 捕らえて軍に引き渡した空賊の調書どころか、その後さえこちらには情報が降りてきませんので……。
 ともかく、一からお話をさせて貰ってもよろしいですか?」
「ああ、お願いする」
 ワルドはワイン瓶をたぐり寄せようとしたが、空になっているそれを見て顔を顰め、中座を断ると女将から蒸留酒の瓶と新しいグラスを手に入れて席へと戻ってきた。リシャールも飲み干したワインのグラスを奥にやり、角底のグラスを受け取る。
 行儀悪く口で封を切ったワルドは、新しい酒杯を満たすと一息であおった。
「話に合わせた酒……というわけではないが、君にはまだ早かったか?」
「いえ……」
 リシャールも口をつけたが、まろやかな中にもきつい飲み口にむせそうになった。こちらは安酒ではないなと、頭を振って酔いを追い出す。
 目で続きを促され、リシャールも話を再開した。
 アルビオンに足を運んだ経緯や空戦の大部分、アンリエッタの略取が目的であったと判断した根拠などは手短に伝え、本題に入る。
「その時に……色々あって白兵戦になったのですが、僕はその戦闘の一番最後に、胸に大穴の空いた死体が歩くのをこの目で見ました。
 これは僕だけでなくうちのフネの艦長とその部下も確認していますから、戦場での迷いや幻ということはないと思います。
 それに……ブレイドで切り飛ばされた腕や足が、切り飛ばされてからもまだ部分ごとに動こうとしていました」
「……」
「その時は吸血鬼の仕業ではないかと疑っていましたし、お預かりしていたやんごとなきお方の安全が第一でしたから燃やしてしまいましたが……。
 しかしその後、どうもおかしいという話になりました」
「……ほう?」
「吸血鬼の操る屍人鬼にしては肉片に水分が含まれすぎていると、死体のなれの果てを焼いた火メイジは口にしていました。
 それに敵中にはメイジこそ居り、水晶球や壊れた魔法人形といった空賊に似つかわしくないものは幾らか見つかりましたが、吸血鬼が居たという確たる証拠はどこにもなかったのです。
 もちろんこれが虚無の魔法だと断定するには、少し要素が足りないかもしれません。
 ……ですが、子爵殿のお話を聞いて最初に思い浮かんだのは、この一件でした」
「ふむ……」
 言いたいことを話し終えて大きく息を吐いたリシャールに対し、ワルドはグラスを両の手で抱え込んで黙り込んでしまった。
 互いに開いた手札が大物過ぎて、言葉を継ぐことが出来なくなってしまったのかもしれない。

 重い沈黙がしばし続く。
 黙ったままでいるのも何だかなあと、リシャールは話題を探すことにした。緊張に耐えられなくなってきたのである。
「それにしても、ますますわけがわからなくなりました。
 レコン・キスタが旗揚げ前に、虚無を使ってまでアンリエッタ姫を襲撃しても意味がないような……」
「……アルビオンの王党派が困ったときに、援助を躊躇わせようとするためではないのかな?
 隣国かつ近い縁戚関係にある両王家に亀裂が入るのは、レコン・キスタにとって歓迎すべき事柄だと思えるよ」
 口こそ閉じていたが頭はずっと働かせていた様子のワルドは、リシャールの求める答えをすぐに導き出した。
 貴族の集まりである叛乱勢力レコン・キスタが貴族派を自称するのに対し、現王家を奉じる保守派閥は王党派とも呼ばれはじめている。リシャールも『新聞』で読んだので、そのことを知っていた。艦隊や陸軍の動きこそ目立たないが、レコン・キスタの活動までが下火ということではないらしい。
「無論、それがレコン・キスタの仕業とあれば、話はまた別の問題になるが……」
「根が深いですね……」
「せめて確たる証拠でもあればね。
 名前が書いてあるわけでもなかろうし、水晶球や魔法人形では論拠に欠けるかな」
 もちろん、この場での会話をまとめてマザリーニやアンリエッタへと伝えるのには、少々決定打が足りない。
 アンリエッタの立太子という少々繊細な事情が絡んでいた上に、関係者一同口を噤んでいるところに、当事者たるリシャールが話題を蒸し返すのもよろしくなかったから、それこそ義父の言う、『叛乱の第二報以降、それもアルビオン側が本格的に劣勢となった場合のみ』に注進するべきなのだろう。
 それにしても、虚無などとは……。
 経済についてならまだしも、政治にさえ少々疎いところのあるリシャールである。ましてや伝説など、どう扱って良いものか想像もつかない。
「そうだ、もう一ついいですか?」
「……今更だろう。
 僕に答えられることなら、喜んで話をさせて貰おう」
「聖地って、どんなところなんでしょう?
 始祖にゆかりの地で、エルフの支配下にあることぐらいしか僕は知りません。
 正確な場所も、どんな様子なのかも……」
「……すまないが、それは僕にも解らない。
 それが解れば……いや、この仮定は無意味か。
 あるとすれば昔の聖戦の記録か、研究者が遺した古い文献ぐらいだが、それも今の聖地のことについて書かれているわけじゃないだろうな」
 きつい酒を立て続けにあおるワルドだが、先ほどと同じ鋭い目つきのまま、酔っているようには思えない。
「聖地もそうですが、エルフのことも話に尾ひればかりが付いていて、やっぱりよくわかりません。その向こう側、東の果てロバ・アル・カリイエに至っては法螺話やおとぎ話と変わらないほどです。
 東方産の珍品と称して流れてくる品物もたまにありますが、行商人の前口上にしたところでどこまで信用して良いものやら……。
 九割九分はどこかの山師か詐欺師が仕立てた偽物でしょうが、残りの本物、あれらがどうやってこちらへと渡ってくるのかは気になっています。
 まさかエルフが手間賃を取って仲立ちしているわけもないでしょうし……」
 リシャールがロバ・アル・カリイエに興味を抱いている最大の理由は、元の世界と繋がっているかも知れないと言う可能性故である。
 アルトワで手に入れた発泡スチロールのトロ箱や、ラ・ロシェールで買った銃弾は、間違いなく現代地球産の品物であった。今更帰れるわけもないし、妻子を置いて戻る気は全くないが、それでも多少は郷愁をそそられもする。
「せめてエルフが交渉の出来る相手であれば、多少は話が簡単になるかもしれませんが、これはちょっと無理かな……」
「……君は面白いことを考えるのだな」
 少しだけ元の様子に戻ったワルドは、軽く微笑んだ。
 それを見つけたリシャールも軽い話しぶりに切り替える。
「例え話で恐縮ですが……僕が王宮の奥深くへ勝手に入ろうとすれば、怒られて叩き出されますよね?」
「ふむ、僕の職分が正にそれだ。
 魔法衛士隊こそは、王宮と王族を守る盾だからね」
「でも、先に手紙で何某の用件でいついつ頃に登城しますと知らせておけば、止められることなく王宮の奥深くに入れて貰えます。
 これは僕が爵位を持った貴族で国に対して信用があるからと言うだけではなく、平民の仕立屋だって、手続きや約束事を守れば王宮の奥に招き入れられることはあると思いますが……どうでしょうか?」
「当然だな。
 ……なるほど、君の言うとおりだ」
 瞑目したワルドは、大きく息を吐いた。
「はい。
 エルフと交渉する為の手続きや約束事……そんな接点があるのかどうかはそれこそ解りませんし、出会い頭、いきなり戦争になるのかも知れませんが……」
「エルフの国に入る手だてか……」
 グラスを軽く揺らして酒の香りを立て、少しだけ含む。リシャールの口中に、先ほどよりも多少柔らかい味が広がった。
「そうだな、交渉が持てるならば……。
 ふはは、あれこれ調べて回るよりも、今聖地を手中に収めている奴らに直接聞く方が、確かに早いな」
 くつくつと笑い続けるワルドに、何がそんなに可笑しかったのだろうかと、リシャールは訝しげな視線を向けた。

 再会の折にはまた酒杯を交わす約束をして、その日はワルドと分かれた。
 帰り際、ルイズの様子を聞かれたが、夏に会ったときは元気でしたと伝えるしかなかったリシャールである。先日のラ・ヴァリエール訪問の折はそれどころではなかったし、アルビオンの内乱に端を発した忙しさは今も続いていた。
 虚無と聖地については、ロバ・アル・カリイエのこととも相まって実に知的興味はそそられるが、ワルドには申し訳ないながらも後回しにせざるを得ない。
 翌日も王城奥に招かれ、奏上とも授業ともつかぬ会議を終えてリシャールは城を辞したが、別邸に戻ると客人が待ちかまえていた。
 『魅惑の妖精』亭の店主、スカロンである。
「お店に来てた兵隊さんからリシャールちゃんが王都に来てるって聞いてね、慌てて飛んできたのよ」
「ちょっとお呼びが掛かりまして……。
 あれ? そう言えば、ミ・マドモワゼルがこちらに来られるのは初めてでしたっけ?」
「立派なお屋敷でびっくりしたわ、リシャールちゃん」
 たまの予約にしてもこちらから出向くし、少なくともリシャールの知る限りは家臣一同ツケ払いなども行っていないから、督促状を差し出されることもないはずだ。どうしたのだろうと小首を傾げる。
「今日はちょっとね、お願いがあってきたのよ」
「お願い、ですか?」
「ええ、お店の事じゃないし、誰かに言伝るっていうわけにもいかなくて……」
 珍しいこともあるものだと、くねくねとしなるスカロンを見上げる。小柄で細身なリシャールに対し、分厚い筋肉とともに、座っていてもこちらの視線が上を向くほどの上背を誇るミ・マドモワゼルであった。
「タルブにいる私の甥っ子なんだけれどね、そろそろ家業を継ぐかどこかで奉公するかの歳なんだけど、ラ・ロシェールのそばで生まれ育ったせいかしら、フネに乗りたいっていうの。
 それでね、ただの船乗りじゃなくて水兵さんがいいらしいんだけど、知り合いのいるところの方が安心でしょ?
 リシャールちゃん領主様だし、あなたのところの兵隊さんたち見てれば、職場の雰囲気ぐらいはわかっちゃうもの。
 それでえっと、なんて言ったかしら?
 十三、十四の子供がフネに乗りながら見習いでお仕事覚えて……」
「……少年水兵?」
 従卒や下働きとして仕事を覚えながら数年を過ごし、十五歳までしっかりと勤め上げれば四等水兵を飛ばして二等もしくは三等水兵に任じられる少年水兵は、平民でも頑張り次第では士官になれる空海軍なればこそ、最初から少しでも上を目指そうと狙う少年達にとってはある種当然の選択肢でもあった。
「そうそう、それよ!
 確かリシャールちゃん軍艦を持ってたでしょ?
 だから、最初に聞いてみようかと思ったの。
 ……ねえ、どうかしら?」
 もちろん、いくら財政の厳しい領空海軍でも、少年水兵を一人ねじ込むぐらいは造作もない。
 スカロンの推薦ならまあいいか、とも思う。人数枠の限度は超えているが、来年の増員分から引けばいいだろう。人事権こそラ・ラメーに一任しているが、これも雇用主の特権である。
「あれ?
 ……タルブというと、シエスタの弟さんですか?」
「ええそうよ。
 ……良く知ってるわね?」
「前にタルブを訪ねたとき、彼女の家に泊めて貰ったんです。
 じゃあ、一番年かさの男の子……かな?」
 シエスタによく似た黒髪の弟妹がいたことは、うっすらと覚えていた。一番大きな男の子は確か、いきなりアーシャに触ろうとしてシエスタに怒られていたような憶えがある。
「ミ・マドモワゼルの甥子さんなら歓迎します。
 でも、最初に告げておく方がいいかなと思うことがあるので、少し聞いて貰えますか?」
「ありがとう、リシャールちゃん!
 ええ、もちろん聞かせて貰うわ」
 スカロンがこちらの信用を裏切ることが出来ないのと同様、リシャールもスカロンを騙すようなことは出来ない。
 スカロンは大口の顧客を、リシャールは王都で安心して飲める場所を。
 お互いが得をするこの関係は、維持されてこそのものである。
「まずですね……うちは王国の空海軍と違って、新型の軍艦にはほぼ間違いなく乗れません。
 今あるフネも全部中古です。
 だから、甥子さんががっかりするかもしれません」
「それは仕方ないんじゃないかしら?
 あたしには想像もつかないけれど、おフネの値段は随分と高いんでしょうし……」
 今はともかく、艦齢を重ねて更新時期が来たら棚上げしてもいられまい。戦々恐々とその時期を待つリシャールである。
「それからたぶん、王国空海軍より訓練も厳しいと思います。
 うちの艦長はそれこそ数十年をトリステインの空海軍で過ごしてきた本物の船乗りで、退役後にうちの一切合切を引き受けて貰ったんですが、空とフネには妥協がない人です。
 その代わり、本人にやる気があれば最高の環境であることも間違いないのですが……たぶんきついだろうなあ」
 後半は半ば独り言である。
 特に今なら若い新兵の数も少ないから、士官や熟練水兵らの目も行き届いてしまうだろう。……さぞや鍛え上げられるに違いない。
「あら、新人に厳しいのはどこも同じでしょ?
 いいんじゃないかしら」
 スカロンは気にした風もなく頷いた。
「では、一度本人に尋ねておいて下さい。
 もしもそれでいいようなら、この別邸を訪ねるように伝えて貰えますか?」
「お願いね、店に戻ったらすぐ伝えるわ。
 話次第ではそのままおつとめすることになるからって、こっちに呼んだのよ」
「あ、彼はもう王都にいるんですか?」
「ええ、リシャールちゃんにお手紙書こうかしらと思ってたら、王都に来てるって聞いたものだから、慌てて飛んできたのよ」
「じゃあ……えーっと、明日の朝には領地に帰りますから、ちょっと夜遅くなるけど今からこちらを訪ねるようにして貰って……。
 うちのフネで働くかどうかも含めて、どちらにしても本人には確認をとっておく方がいいでしょう。
 ……どうですか?」
「そうね、お願いするわ」
 時間から考えるとスカロンが店に戻ってすぐだろう、背負い袋を担いだ十二、三に見える黒髪の少年が、ジェシカに伴われてリシャールの元を訪ねてきた。

「ジュリアンです!
 よろしくお願いします!」
 勢いよく名乗ったシエスタの弟は、翌日リシャールに従ってそのままセルフィーユへと向かっていた。本人の話によれば、既に両親の説得も隣人への挨拶も一人立ちの準備も、全部済ませてきたらしい。
 最初は上空数百メイルの高さに驚いていたようだが、あっと言う間に慣れたところは姉同様であった。
「竜に乗ってる時って、もっとふらふらするのかと思っていました。
 フネみたいに安定してるんですねえ」
「竜は初めて……だよね?」
「はい、姉ちゃんから聞いて、俺も一度乗ってみたいと思ってました!」
「きゅー」
 アーシャには真新しい鞍が用意されていたが、今回の旅程ではつけていないのでジュリアンには荷物を抱かせ、リシャールの腰から縄を伸ばして互いを結んでいる。いかにスカロンの甥でも、流石に男を抱きかかえて乗りたくはない。
 ちなみに城の物置に保管されている鞍はアーシャと相談の結果、国外などの長距離飛行や彼女曰くの悪いやつをやっつけに行く時など、基本的にはリシャールがお願いした場合にしかつけないという約束がされていた。
「ああ、でも楽しみだなあ」
「そんなにフネが好きなのかい?」
「はい、ずっと決めてましたから!
 頑張って出世して、絶対に艦長になって見せます!」
 夢を語る少年に、それは頼もしいことだとリシャールは微笑んだ。
 彼が憧れていた王立空海軍では平民でも士官への門戸は開かれているし、確かに平民の艦長が皆無というわけではない。
 それはセルフィーユの領空海軍でも踏襲されているはずだが、こちらでは平海尉で甘んじている士官にさえ艦長経験者が含まれている現状、ジュリアンの前にはとてつもなく大きな壁が立ちはだかっているに等しかった。しかし老人が多い領空海軍の上層部は、裏を返せば将来はごっそりと退役してしまうわけだから、彼が本当に頑張れば海尉どころか艦長も夢ではない。
「昨日も言ったように君が入隊することになるセルフィーユ領空海軍には、中古のフネしかないけれど、みんないいフネだよ。
 旗艦の『ドラゴン・デュ・テーレ』はアルビオンの元重装フリゲートでしっかりしているし、定期航路の『カドー・ジェネルー』は老齢だけど相当に足は速い。もう一隻あるけど、これは予備艦でお休み中かな。
 ……領空海軍の全員を集めても『ドラゴン・デュ・テーレ』一隻の定員にもぜんぜん足りないけれど、艦長も士官も水兵も名人ばかりだから、襲ってきた空賊をフネごと捕まえたこともあるんだ」
「すごいですね!」
 アンリエッタ姫の座乗までは話せないが、空賊の襲撃そのものは隠されていないからここで話題にしても問題はない。
「ふふ、その分訓練はすごく厳しいはずだよ。
 陸の方が優しいってわけじゃないけれどね」
「はい、がんばります!」
「うん、まずはジュリアン海尉の誕生を楽しみにさせて貰おうかな」
「はい!」
 経験豊かな老士官たちは何事につけ頼りになるが、何時までも一線を張っていられるわけもない。彼らの退役と共にセルフィーユの領空海軍が腑抜けになっては困るので、次代の育成も重要だった。
「あの、ところでセルフィーユって、どんなところなんですか?」
「場所ならトリステインの東北の端っこ、まあ、どこにでもある田舎の港町だよ。
 夕陽が綺麗で魚が美味しくて……あとは自分で確かめて感じてくれると嬉しいね。
 そうだ、セルフィーユに着いたら手紙を書くといいよ。
 ミ・マドモワゼルも知らせてくれるだろうけど、やはり親御さんには自分で知らせた方がいいだろう?」
「え、俺、字なんて書けないですよ!?
 名前だけは覚えとけって言われて、何回も何回も地面に書いて覚えましたけど……」
 リシャールは思わず後ろを振り返った。
「あれ!?
 シエスタは読み書き出来たと思ったんだけど……?」
「姉ちゃんは魔法学院は無理でもどこかのお屋敷に奉公するつもりでしたから、村にいるうちから寺院で字を習ってたんです」
「あー……うん、そうだったのか。
 ……よし、ジュリアン」
「はい?」
「先に字を覚えてみないか?」
 報告書の読み書きが出来ない士官など、いるはずもない。見所ありと評されて候補生になれば嫌でも教え込まれる類のものだろうが、若いうちに覚えた方が何かと融通が利く。
 彼にはどうやら、領空海軍より先に聖堂の学舎で頑張って貰う方が良さそうである。

 その日の昼過ぎ、ジュリアンが初めてセルフィーユに降り立った記念すべき地は、大聖堂の裏手、聖堂騎士隊の隊舎前であった。公式訪問や至急の時は大聖堂前の前庭を使うが、こちらにも竜が降りるに十分な広さの練兵場があるので普段使いにしている。
「きゅいー」
「お疲れさま、アーシャ。
 ……ジュリアンも疲れていないかい?」
「だ、大丈夫です!」
「隊長殿!」
 副長のテオドーロ他、大勢がこちらに走ってくる。
 軍馬や馬車も引き出されているし、時間を考えれば午後の巡回開始前というあたりだろうか。聖堂騎士隊のほぼ全員が揃っていたところに降りてしまったらしい。
「総員整列! 我らが騎士隊長殿に敬礼!」
 重甲冑に聖杖の正騎士から自前の杖に胸当てだけの見習い従者まで、素早く隊列を組んだ二十数名にリシャールも鞍上……というには鞍の上ではないが、アーシャの上で答礼を返す。しまらないこと甚だしいが、ジュリアンの腰と縄で結ばれているのでそのまま地面に降りることが出来なかったのだ。
「……あー、竜の上からで失礼。巡回ご苦労様です。
 テオドーロ副長、何か問題はありませんか?」
「は、隊は万事快調、巡回先の村々もここしばらくと言わず平穏であります!」
 それは重畳と大きく頷き、幾つかやり取りを交わして騎士隊を送り出すと、縄を外す手を止めて呆然としているジュリアンが目に入る。
「どうかしたの?」
「リシャールさんって、騎士隊長さんだったんですね……。
 若いのにすごいや。びっくりですよ」
「えっ!?
 もしかして……ミ・マドモワゼルやジェシカから、僕のことは何も聞いてないのかい?」
 どうやら彼も犠牲になったようだと、リシャールはため息をついた。シエスタの時もそうだっただろうか。
「えっと、伯父さんは、リシャールちゃん……じゃなくて、リシャールさんは若い貴族様だけどトリステインの東半分には随分と顔が利く人で、きちんと頼んでおいたから大丈夫、でも失礼だけはないようにって……。
 ジェシカ姉さんは、あんたが怠けたり悪いことしたりしなきゃ、ちょっとぐらい困ったことになってもリシャールさんが助けてくれるはずだから頑張んなさいって、それぞれ言ってました」
「……うん、まあ、間違ってはいないかなあ」
「えっ、違うんですか!?」
 こういった悪戯の好きなジェシカはともかくスカロンはきっちり話をしていると思っていたのだが、トリステインの西の果てから東の果てにやってきてこの仕打ちである。
 アーシャの上で身体を入れ替えたリシャールは、ジュリアンへと向き直った。
「最初に謝っておくけど、ごめんよジュリアン。
 そのあたりのことは聞いてるものだと思っていたから、僕もリシャールとしか名乗っていなかったかもしれない」
 彼の未来に幸多かれ。
 行き違いはどこにでもあるものだが、これから彼はセルフィーユで働くというのにちょっと可哀想なことをしたかなと、リシャールは頭を掻いた。
「セルフィーユ司教座聖堂付き聖堂騎士隊隊長、トリステイン王国王軍予備役准将。
 ついでにシュヴァリエで王宮の見聞役、ラ・ファーベル家の当主でもあるけれど……。
 改めて名乗ると、僕はセルフィーユ伯爵家初代当主リシャール・ド・セルフィーユ、平たく言えばここの領主だ」
「!?」
「……領空海軍のフネは定期便にもなっているから、配置次第では王都に行く機会もあるよ。
 もしもミ・マドモワゼルやジェシカに言いたいことがあるなら、その機会を逃さないようにね?」
「はわわわわ……」
 リシャールは手をばたばたとさせて顔色をころころと変えるジュリアンの肩を、労るようにぽんと叩いた。


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