ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第八話「息抜き」




 リシャールは夜会の半ば、カトレアがマリーの居る控え室にて休憩を挟んでいる時間を使って、アルビオンのウェールズ皇太子と商談とも雑談ともつかない折衝を行っていた。
「今は殿下のご注文の後、ご興味を抱かれたアルビオン諸侯の皆様より予約を頂戴しておりますので、工廠はマスケット銃の生産に力を傾けるよう指示を出しています。
 おかげで今年は売り込みに走り回らなくてもよさそうで、家臣一同とともに安息しております」
「ふむ、それは良かった」
 決して密談ではない。
 同じく休憩と称して、疲れた様子のアンリエッタとルイズがソファでぐったりとしていた。更にはその彼女たちを介抱するべくメイド達が走り回っている中では、密談のしようもない。
 ……これでも気は使ったのだ。
 ウェールズ皇太子へと挨拶に行った先で少し話があると言われ、退場して休憩がてら一室を借りようとしたところで、何故かアンリエッタとルイズがこちらの後ろをついてきていた。ウェールズと顔を見合わせてから、王太女殿下はお疲れのようですし我々は別室で……と口にしかけたが、その一瞬に限って眼光の鋭くなったアンリエッタによって、それは封殺されてしまった。
「それはそうと先ほど聞いた試作品の砲……散弾砲だったかな?
 竜騎士に対しては甲板にメイジと銃兵を並べるしかなかった所に、散弾とはね。
 仕掛けそのものは驚くほどではないが、なるほどと頷くに十分かな?」
「はい、試作品は完成していますが、量産はしばらくお預けになります。
 今はフネに積んではいますが、訓練に交えて色々と試しているところですよ。
 どちらにしても小さな改良が必要な上に、何より、工廠の方に余力がないもので……」

 工廠の方は僅かながら人数を増やしてはいるが、少し工作機械を増やしたものの、生産力がほぼ頭打ちになってしまっていた。兵器を扱うことから多少審査らしきものも行っているのでその門は狭めざるを得なかったし、領地の取得時に比べて領民の大幅な増加をみたとは言っても、その全てが中心地たるラマディエの街に集住しているわけではないのである。ラ・クラルテ商会で雇用している人数は数百人に及ぶが、就労者の比率でも農業や漁業、林業に鉱業と、領内の各村落でそちらに従事している者の方がまだまだ多かった。そちらを削れば今度は村々の衰退を呼びかねないし、それはリシャールの望むところではない。
 振り返ってみれば、新教徒たちの移住がなければ従業員不足で工廠の運用さえ不可能だったかもしれなかった。当時は急に過ぎたので一時は道路工事や鉱山労働へと人を割り振っていたが、今では工廠もしくは製鉄所へと比重を移動しつつある。
 そのような理由もあって、利益に加えて雇用も税収も生む頼もしい工廠であるが急な対応は出来かねたし、今は売れ行きを確保できていても、アルビオンから不穏な空気が払底すれば大口の注文は止まると予想された。その後は地道な販路の開拓をして行くにしても、生産調整も視野に入れなくてはならない。
 そうなれば今度は雇用問題が逆方向へと発展するわけで、その時になってから考えればいいかと気安く言えたものではなかった。リシャールが単なる雇用主であればそれでいいかもしれないが、領主としては大量の失業者が出るなど御免被るのである。

「ふむ。
 ……製造は困難なのかね?」
「いえ、砲身そのものは、既存の小口径砲と大きく変わるものではありません。
 砲耳と砲座にも少々仕掛けが施してありますが、平射と曲射を切り替えることが出来ます。
 もっとも、それも前に作った砲からの流用ですから……」
「何だって!?」
「……あ!」

 セルフィーユ式六二四〇年型六口径四リーブル散弾砲という長い名前を付けられたその砲は、同じく平射と曲射の出来るフロランの四リーブル砲を切りつめ、砲身を若干喇叭型にした改造砲であった。
 もちろんリシャールには既知のものでも、製造力に余力がない現在、どこの誰にも売り込みを行っていない新製品でもある。ウェールズにも大砲を作るという話ぐらいはしていたはずだが、その性能や個々の特徴まで話したことはなかった。
 ハルケギニアでは一般的な砲兵部隊の場合、大砲を撃つ際には、坂道状に整備した砲陣地の傾斜路上で仰角の調整を行った。船上では、船体そのものを傾ける方法が主流である。大型の陸亀を調教して使う砲亀兵は機動力もあって発射角度も調節できるし、メイジが操るゴーレムやガーゴイルに持たせたり背負わせたりすることもあるが、数の確保とその維持には通常の砲兵の何倍もの費用と手間が必要で、砲兵の主流たりえなかった。たった二段階と言えど砲側でそれを為しうることがセルフィーユ式砲の特徴であり、陣地整備の手間やメイジの補助は必要ない。
 少し考えたリシャールは、良い機会なので売り込みを行っておこうかと、やはり数は揃わないのですがと前置いて、ウェールズへとセルフィーユ製四リーブル砲の長所と欠点を並べ立てた。わざわざ商談相手に商品の欠点を伝えることは、一見不利なようにも思えても、信用を重視するべき場面では十分こちらの武器たり得る。もっとも、リシャールの話術が成功したのか否か、ウェールズの表情からは読みとれなかった。

「あー……お話ししたことはありませんでしたが、話題に出す機会がなかっただけで、秘密にしていたわけでもありません。領軍には既に配備していますし……。
 殿下がそれほど驚かれるような品だということの方に、むしろ驚いております」
「ふむ、そういうものかもしれないな。
 しかし、小型船の海賊避けに有益という点は非常に魅力的だね。
 四リーブル砲ながら十二リーブル砲と同等の砲戦距離か……」
「はい、発射時に砲口がかなり上を向きますので甲板に引き出しての露天射撃となりますが、元から舷側に砲門のない商船では問題にならないと、試験に立ち会った艦長は申しておりました。
 もちろん、散弾砲も甲板上で射撃を行うことを前提にしています」
 品物が揃わず売りようがないのは残念だが、ここはウェールズの興味を引けただけでも成功としておくしかない。
 ちらりと横に目を向けたウェールズは、隣のソファでアンリエッタらが小さい寝息を立てているのを確認して微笑ましげな笑みを浮かべ、声を潜めた。
「それはそうと、例の我が国から注文されているマスケット銃の件なんだが……」
「はい、殿下のご指示通り、アルビオンよりの注文は全てメイトランド書記官を通して受け、その他はお断りするようにしてあります」
「すまないね」
 ウェールズの要望は、アルビオン諸侯よりの武器の発注は全て在外公館を通すべしという簡単なものだったが、裏にあるものが読みとれないほどリシャールは鈍感ではない。

 昨今、諸侯の叛乱が続いているアルビオンである。反抗的な諸侯に武器が渡ることを警戒しない方がおかしいのだ。
 セルフィーユ製の武器でテューダー王家が痛手を被っては、リシャールの方でも寝覚めが悪いし、他国の王家に徒為したとあっては国内での立場も微妙なものとなる。無論アンリエッタには申し開きのしようもない。それに大量とは言えずとも武器の輸出であるから、セルフィーユ側もトリステイン王政府に対して公館を通していることで勝手働きや横流しはしていないとの申し開きを用意することが出来る。
 アルビオンの方でも王政府あるいはウェールズが仲介役となっているはずだが、親密な関係にある諸侯に対しては、入手の優先順位を引き上げることも可能だった。そちらを通さずマスケット銃の注文を打診してきた相手に対しては、僅かながらないわけではないトリステイン国内からの注文同様、納期が半年先一年先になる事を示した上で丁重にお引き取りを願っている。名前は控えていたが、『此度はさるお方よりのご指示にてマスケット銃を……』などと初手では相手も名乗らないことの方が多いから、面倒でも時には自らの伯爵位とウェールズの威光を全面に押し出してリシャールが庁舎の執務室で応対するなど、気を使う場面も多い。
 ただ、これでは一方的に、しかも都合良くリシャールが囲われた形になるが、そこはこちらも商売である。向こう一年分の注文と引き替えにした大口顧客への特典と考えるならば、悪い取引ではない。
 千分率単位での値引き合戦に仕入先の確保と顧客のつなぎ止め、宣伝にセールにクレーム処理、更には商圏の重なり合う近隣の同業他社と丁々発止のやり取りをしていた前世のあの頃と比べれば、大国の皇太子兼宰相が『総代理店』として取りまとめてくれるし、真面目に物作りに励んでいれば少々のことでは揺るがない。幾分かは楽が出来ているなと、リシャールには余裕を感じる部分さえあった。

「いえ、うちは逆に助かっていますよ。
 今でも作る数より注文を受ける数の方が多いほどですから、断る理由として使わせていただいているほどです」
「こちらの兵器廠は空軍の再建に手一杯で、陸軍や諸侯の需要まで満たすのはいま少し厳しいところでね、君を頼らせて貰おう。
 ……予定が切り上がってしまって、明日の日の出前にはもう出立しなければならないんだ。
 少しは羽根を伸ばせるかと思っていたんだが、これがなかなか……」
 やれやれといった風にウェールズは両手を広げて見せた後、ソファへと沈み込んだ。

 その後は特筆すべきこともなく、無事に夜会も終わった。水槽は大きな評判を呼ぶとまではなかったが、添え物にしてはそこそこ人目を引いていたようである。
 翌日、アンリエッタより茶会に誘われたカトレアとマリーがルイズとともに王城へと向かい、夕方前には迎えに行くからとリシャールもラ・ヴァリエール家の別邸を辞して、自分の屋敷の方へと戻って疲れを癒していた。向こうだと緊張が抜けないと……までは言わないが、やはり自邸の方が気楽である。一日だけ予備日として予定を組んでいたが、幸いにして大きな用事が入らずに済んだのだ。
 夜はお忍びで『魅惑の妖精』亭に顔を出し、明日は領地に帰る予定だった。羽目を外すつもりはないが、羽根ぐらいは伸ばしたい。見送りも断らざるを得ないほど忙しいウェールズではないが、立太子式に絡んで忙しかったのもまた事実であった。
「『カドー・ジェネルー』は無事、貨客を積んで出航いたしました。『ドラゴン・デュ・テーレ』はご指示通り明日出航の予定とし、乗組員には上陸を許可しております」
「ご苦労さまです」
 旧友の家を尋ねるので本日は自らも不在と律儀にも報告に来たラ・ラメーを見送ると、家人達にも適度に息を抜くようにと言い渡し、リシャールは率先して昼寝を決め込んだ。

「王城に迎えを出すまでに、まだ間はあるか……」
「はい、数刻は大丈夫です」
「じゃあ散歩がてらに出かけてきます」
 結局昼過ぎまで惰眠をむさぼったリシャールは、軽い食事ついでにアーシャのおやつでも買いに行くかと、外に出ることにした。
「では……ジネット、貴方もお側付きとして出かける用意を。
 リシャール様のお支度はこちらで行いますから、貴女も準備をなさい」
「はい、ヴァレリー様」
 従者時代と同じ様な軽い衣装を選び、無紋のマントを身に着ければお忍び姿の完成だ。但し、自分で着るのではなく着せて貰う、という部分に以前との差違があった。
 身重のヴァレリーに気遣ってジャン・マルク夫妻を留守番にすると、ジネットをお供にレストランなどが並んでいるブルドンネ街へと向かう。立太子式に当て込んだ露天などは既に片づけられているが、馬車で通ることや上空から見下ろすことはあってもしばらく来ていなかったなと、未だアンリエッタ立太子の祝いの余韻が端々に残る通りに祭りの後を感じながら歩いた。
 ちなみにその後ろを背の高い男性二人組が何気なく歩いているが、彼らが私服に着替えたセルフィーユ家の衛兵だと知っているのはジネットだけである。
「何かお買い物をされるのですか?
 私たちにお申し付け下されば買いに出ますのに……」
「ああ、うん。
 ジネットたちの仕事を取る訳じゃなくて、面白そうな物があれば買うかも知れないけれど、散歩半分に市場を覗きにいくのが目的だからね。
 最近はなかなか出歩く機会もなくて、ちょっと鬱屈していたというか、何というか……」
「そうなのですか?」
「僕だって、三年前は伯爵公子様付きの従者だったからね。
 暇が出来ると市場をひやかしに行ったりしていたよ?」
「え!?
 リシャール様は伯爵家のお孫さんでは……」
 驚くジネットに、叙爵に至った詳しい経緯を知るのは家中でも限られた者だけだったかと苦笑する。彼女たちがセルフィーユへと移り住んだのはリシャールが子爵へと陞爵した去年以降のこと、確かに話す理由がなければ口にするようなことでもなかった。
「うん、母はエルランジェ伯爵の娘だけど、実家は下級貴族でどこかの侯爵家に連なる分家の分家のそのまた分家……だったかなあ」
 特に気にならなかったので調べたこともないが、今後は関わることもあるのだろうか。家族の間でも話題に上らなかったところを思い出すと、侯爵家本家とはほぼ縁が切れているのだろうし、父方の親しい親族とは幾度か行き来があったと祖父から又聞きしたぐらいで、詳しいことはリシャールも知らなかった。従姉妹がいると聞いたことはあった……気もするが、叔父夫婦に会ったことすらない。実家を出る前は、そもそも母の実家が伯爵家であったことも知らなかったぐらいだ。
 家長同士で手紙のやり取りぐらいはあったとしても子供だったリシャールには知り得なかったし、現代日本ならば鉄道や自動車で日帰りできる距離でもハルケギニアでは数日掛かってしまうから、遠方との行き来を頻繁かつ気軽には行えない。便りのないのは良い便り、とするのが常であった。
「何というか……爵位が欲しいと我が侭を申し上げたら、エルランジェのお爺様が乗り気で話を進めて下さった、というあたりなんだよ」
「あの、欲しいで貰えるようなものじゃないと思うんですが……」
「そこはまあ、色々あったからね。
 ……丁度いい、少し冷やかしていこう」
 リシャールは軽く流して、目に付いた本屋へと入っていった。

 その後、書店を皮切りに平民向けの雑貨屋、服飾店、古物商などを巡り、そのまま足を伸ばして『魅惑の妖精』亭で予約を入れ、今度は食料品を主に扱う店々が並んだ一角へと向かう。王都商館の日常業務にも物価や流行を調査は含まれているし、それら報告書にも目を通しているが、息抜きと称して市街をうろうろすることはやはり格別の気晴らしになった。
「うん、いいね」
「……領主様?」
 小売店がぎっしりと並んだ通りが街区の端まで続いており、トリスタニア中の人々の胃袋を満たすに十分な商品が並んでいる。同時に商人の懐を満たす客足も確保されているが、このあたりに店を出すとなると、間口は小さくとも地方の大店に匹敵する売り上げと共に維持にも相応の金額が費やされていることだろう。
 無論品数の豊富さ、取引の規模、活気など、どこをとってもラマディエの市場が敵うはずもないが、時折訪れる行商人と数件の商店が散在していただけの頃と比べればセルフィーユも随分と発展したはずだ。店の数は着実に増えているし、訪れる行商人の数も以前の比ではない。
「このぐらいの活気がうちの領地にも欲しいなあ。
 流石はトリスタニアの台所、と言ったところかな」
 小麦はこのぐらい、野菜は少し高め、加工品ながら意外と魚介類も豊富だなと、心の中にメモしてまわる。油漬けの類もあるようで、壷から小分けして売りに出されていた。中にはリシャールの知らない種類の魚で作られたものどころか、肉類の油漬けまであるのには驚かされる。加工肉と言えば腸詰めか塩漬け、薫製を含めた干し肉がこちらの主流だが、どこかの知恵者が製法を流用したらしい。
「お肉が柔らかそうですね」
「うん、これはうちの方でもいけそうだ。
 帰ったら早速試してみたいところだね」
 リシャールの食卓を潤せそうなのはもちろんだが、ここは平民で賑わう市場、つまり市民でも手が出る価格で売られている。極端に高価なものにならないことは、油漬けの製法から考えても容易く想像できた。
 領民の生活に気を配ることはともかく、国際問題にまで縁が出来つつある身としては、このぐらいの、夕食の選択肢が増えるか否かといった問題に知恵を絞る方が気楽でいいのにとは、決して口に出せない本音である。

 結局、鹿肉の油漬けとオレンジのパイを買い込んで別邸に戻る頃には、少々時間が押す頃合いになっていた。ジネットに荷物を預けると、着替えるのももどかしく、今度はジャン・マルクをお供に紋付きの馬車で王城へと向かう。遅すぎても気を持たせるし早すぎても歓談の邪魔をするようで、匙加減が難しいところだった。
「気晴らしになりましたか?」
「はい、それなりに。
 ちょっと出かけます、と言って遊びに行けたのはいつ以来だろうと思ったりもしますが……」
「なかなかにお辛いところですな」
「ええ、愚痴だけに留めておきます」
 先ほどの散歩も外遊中であればこその息抜きであり、流石に思いつきでほいほいと歩き回れるような立場ではないと自覚もしている。日々を政務に追われていることもあり、予定された視察でもない限り領内を出歩く機会はほぼなくなりつつあった。
 だが不満ではあっても、それはリシャール自身が理解し納得の及ぶ範囲での不満である。あまり我が侭を言うものではないと自分に言い聞かせてもいるし、家臣からの評価を落とすことは非常に好ましくない。真面目な態度を示しておくだけで、多少の悪評は回避が出来るのだ。
 ただ、それだけでは今度は自分が潰れてしまうことにもなりかねない。ヴァレリーやマルグリットとも相談の上で、外遊中は公務以外の時間は休息や自由時間に宛て、予備日も予定がなければ休日として扱っていた。早く領地に戻って城で休むこともあれば、今日のように現地で観光などをして過ごすこともある。代わりに領内で過ごしている場合は基本的に週に一度、虚無の日のみを休日としていた。
 もっとも、領内での休日は急な来客などで潰れることも多く、それに引きずられて家臣達の休日も流動的になってしまうので、お互いに口に出せないながらも、領主の外遊は主従ともに歓迎すべき事態という些かおかしな状況になりつつある。
 借財の返済や日々の忙しさはともかく、それ以外は概ね満足と言って差し支えない。それもこれも領内が平穏であればこそ、とリシャールはひとりごちた。
「ともかく今日一日、羽根を伸ばさせて貰うことにしますよ」
 明日は移動で潰れてしまうし、明後日からはまた、政務に追われる日々が再開される。
 今日のところは言葉通りのんびりしようと、リシャールは背もたれに身を預けた。

 王城から妻子を引き取ったリシャールは、その足で『魅惑の妖精』亭へと向かった。
 朝カトレアと同行したルイズにはラ・ヴァリエールから別に迎えが来ていたので、リシャールは会っていない。昨日は随分と疲れた顔をしていたが、今日は元気を取り戻していたそうだ。
「あう?」
「うんうん、父さんのお友達に会いに行くんだよー」
「よーお?」
「そうだよー」
 そろそろマリーもお喋りする手前まで来ているのかなと、リシャールは目を細めた。口真似も増えてきたような気もする。リシャールにはよく聞き取れないながらも、一人で何やら呟いていることも多くなってきた。乳母たちからは、そろそろ離乳食も準備するべきとも聞いている。
「ジェシカは元気かしらね?」
「春先に会った時はスカロン店長ともども元気そうだったよ」
「夏には会えるかもってお手紙に書いたから、時間があればリシャールにお願いしようと思っていたのよ」
「そうなの?」
 カトレアがジェシカと文通していたことを、リシャールは全く知らなかった。愛妻の交友関係にどうこう言う気はないが、ジェシカの性格を考えれば少しばかり釘を刺しておいた方がいいかもとは思ってしまう。……彼女は物事を面白おかしく脚色する才能に、実に長けていた。
 ほどなく『魅惑の妖精』亭に到着すると馬車を降り、カトレアに腕を差し出して扉をくぐる。半ば護衛、半ば労いも兼ねてジャン・マルク夫妻も同行しているが、子連れの貴族がこの店を訪れることは極少ないのだろう、若干の注目を浴びた。
「リシャールちゃん、奥方様、いらっしゃい! 
 まあ! こちらがお姫様ね!
 トレビアーン! なんてかわいらしいのかしら!」
 もっとも男性陣の大半はカトレアに視線が向いていたのだが、それはスカロンがさり気なく押さえてしまい、あとはいつもの店内に戻った。
「リシャールちゃん、お昼は居なくてごめんなさいね。
 仕入れ先の方で色々あってお出かけしていたのよ。
 昨日はうちも大忙しで、お店中のお酒がなくなっちゃうほどだったの」
 今日は女装じゃないんだなあと、半ばどうでもいいことを考えながらスカロンの案内で席に着いたリシャールは、『魅惑の妖精』亭の店内を見回した。
 いつもより客が少ないだろうか。
 だが思い当たる節もあったので、そのまま口に乗せてみる。
「昨夜はトリスタニア中が酒場になっていたらしいですね?」
「そうなのよ!
 おかげで仕入先が値上げ云々言い出してね……」
 薄物のシャツの下からから屈強な兵士もかくやの筋肉を溢れさせんとばかりにくねくねとするスカロンから少しだけ距離を置きながら、酒肴とワインを注文する。
「ジェシカ!」
「カトレアさん、お久しぶりです!
 いやん、マリーちゃんかわいいー!」
 あっという間に妖精さんに囲まれたカトレアとマリーに苦笑して、リシャールは休日に乾杯と酒杯を傾けた。マリーは少し驚いていたようだが、今はもうジェシカらに笑顔を向けている。
「ジェシカ、マリー『様』、でしょう?
 でもほんと可愛い!」
「あ、こっちをみてらっしゃるわ」
 自分も明日のことは棚に上げて、今はこの場を楽しもうか。
 リシャールは酒杯を一気に飲み干し、『ハシバミ草のサラダ・セルフィーユ風』に手を着けた。
 ハシバミ草のサラダにタルブ産のソース・ドゥ・ソージャ、つまりは醤油をかけただけのシンプルな品である。この店ではリシャール専用の特注品となっている故に、セルフィーユ風と名前がついてしまっていた。
 同じタルブ産ならばワインや畜肉の方が余程店の売り上げに貢献しているとはジェシカの言だが、スカロンも根負けしたのか、今では店のメニューにもソース・ドゥ・ソージャを使った肉料理と魚料理が一品づつ載るようになっていた。曾祖父の味覚の影響か、彼女もこのソース・ドゥ・ソージャがお気に入りのようである。
「あらいい飲みっぷり。
 そうだ、新作のお料理があるのよ。
 ね、食べてみてくれない?」
「へえ、いいね」
 食に一家言を持つ気心の知れた相手としてジェシカには実験台として使われることもしばしばだが、そこは酒場兼宿屋の娘、好みによる差違はあっても食べるに耐えないほど酷い味の料理は出されたことがない。王都行きの小さな楽しみの一つでもある。
 待つことしばし。
「はい、お待たせー!
 ……シエスタの事、覚えてる?」
「うん、もちろん」
 リシャールに醤油をもたらしてくれたジェシカの従姉である。忘れよう筈もない。
「彼女がね、ソース・ドゥ・ソージャを気に入ったリシャールならこれも気に入るんじゃないかって、手紙に書いてあったのよ。
 パティ・ドゥ・ソージャって言うんだけど、ソース・ドゥ・ソージャと似た作り方の調味料でね、この間、タルブの伯父さんから送ってもらったんだ」
 差し出された皿には肉が盛られ、茶色いペースト状のソースが添えられている。確かに醤油があるならこれがあっても不思議ではない。作り方そのものは似た部分も多かったっけと、うろ覚えの知識を頭の中で諳んじる。
「……どれどれ」
 リシャールは酔いもあってにやつきそうになる表情を押し隠しながら、肉を口に運んだ。
 この香り、この味。間違いなく味噌だった。




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