ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
外伝「異界に在りて(下)」




「村長、穀を剥いたビール麦はこちらに時々来る行商人も扱っているだろうか?
 それとも、やはりラ・ロシェールまで買いに行かないと無理だろうか?」
 武雄がこのハルケギニア世界に来て半年余り。
 異界での生活にも慣れてきて、こちらの常識も身に着けつつあった。時に人を驚かすこと、逆に驚かされることもまだ多いが、それらは徐々に些細な内容に移り変わりつつある。
 だが冬の出稼ぎを終えてラ・ロシェールから帰村した翌日、村長の家に戻ってきた武雄はかび臭い布の小袋を手に、村長夫妻を困惑させていた。
「……ビール麦?
 お前さん、酒でも造るのか!?」
 夫妻は顔を見合わせ、しばらくして村長が口を開いた。
「おお、それもいいな!
 だが少し違うんだ。これを見てくれ」
 袋の中には、案の定黴びた穀物の塊があるばかりだ。
「あらまあ!」
「おいおい勘弁してくれ、カビだらけじゃないか」
「これは故郷の調味料の元でな、運良く零戦から見つかったんで、大事に保管しておいたんだ。
 これを使い、故郷の調味料を再現したいと思ってな」
「カビで……調味料?」
「えーっと、あなた、白カビのチーズみたいなものじゃないかしら?
 ほら、ちょっと塩辛いけどコクがあって!」
「ああ、いつだったかガリア土産だと貰った事があったな。
 あれは確かに美味かったが……」
 やはりこちらにもカビを使った食べ物があるのだなと、武雄は頷いた。
「大雑把に言うとだな、大麦……ああ、ビール麦にこのカビをつけて増やし、それを豆と塩に混ぜて寝かせると出来る。
 作り方はそれぞれ違うんだが、一つは液体の調味料、もう一つは練り物のような調味料になるんだ。
 本当は水田で作る米と言う穀物があればよかったんだが、ラ・ロシェールの穀物商すら知らなくてな……」
 珍しくあれこれと熱く語る武雄に、村長夫婦はもう一度顔を見合わせた。

 村長らに話をした数日後には、『竜の巣』の傍らに以前のごとく廃材と柴と麦藁が積み上げられていたが、武雄が実作業に手を着けたのはニューイの月、日本の暦では六月に入ってからであった。春の種蒔き───麦は秋蒔きだが、青物や豆は種類による───の時期に重なってしまったし、そうこうしているうちにもう麦秋と、色々忙しかったのだ。結局麹の入った雑嚢は、無事に固定化の魔法を掛けられた零戦の操縦室の隅に、再びしまい込まれたままになっていた。
 村長はカビがワインに及ぼす悪影響について滔々と語り、作業は基本的に竜の巣で行うことと、許可は得られたが念を押されてしまった武雄である。ワインも発酵によって葡萄を酒に変えるのだから、麹の本体であるカビについては村長の心配ももっともだと頷く。
「色々不足はあるが……千里の道も一歩から、出来ることからやるしかないな」
 場所は竜の巣から少し離れた、森に近い場所に決めた。多少なりとも木陰があるならその方がいいのだ。腕まくりをして先ずは土を集めて踏み固め、土間の床に当たる部分を形作ると廃材で数十センチの柱を組む。当然ながら、とても大人が入れる大きさではない。
 迷ったが、壁と屋根は柴で無理矢理編んだ肋材の上に粘土質の土と藁を混ぜたものをぺたぺたと塗りつけ、漆喰なしで作った土蔵のような仕上げにした。見かけは窓がついた土のかまくらか、天の塞がった大きな竈である。最後に中で柴と藁を燃やし、十分に乾燥させて麹を作る小室の完成とした。扉は藁筵だが、雨風は入らないように気を使っている。
 村人たちは、またタッケーオがおかしなことをやっていると笑っていたが、普段の生真面目な仕事ぶりや実直な人柄については評価されているようで、出来上がったら味見ぐらいはしてやろうと見守り、子供達は変わった娯楽として捉えたのか、時に様子を見に来てはあれこれと小室やその傍らの竜の羽衣について辛辣な評価をしていた。

 武雄が造ろうとしている味噌や醤油は、日本では数百年前から製造流通されていたものだ。実家の土間の隅に置かれた瓶は大事にされ、子供の頃はよく仕込みの手伝いをさせられたので手順にも覚えがある。そもそも味噌は何処の家でも作るが、自家製の醤油は工場醤油が幅を利かせる今の世には珍しいかもしれない。だが、実家のある山村では仕込みをする家が多かった。
 海軍に入ってからはそのような機会はなかったが、無論、味噌や醤油と縁が切れたわけではない。だが市井では原料ともども既に配給制となっており、どこもかしこも随分苦しいとは聞いていた。武雄の所属していた海軍の、それも本土を防空する航空隊の食糧事情は控えめに見てもかなり上等な部類に入るが、それでも時折、味噌汁の代わりに小麦粉を溶いて塩で味を付けただけの代用汁が出ていたほどである。
 作業の合間にそれら故国のことを思い出すと、ちくりと心が痛む。
 だが同時に、帰れるかどうかも分からない異界の地で、故国の味を求めることを誰が止められようかとも思う。
 敗色濃厚な中、今も戦いに身を投じているであろう戦友達。
 戦場を途中で去り、のうのうと醤油や味噌を求める武雄。
 今の状況に対しこれは不可抗力であると、言い訳なら幾らでも出来そうな自分は、決して戦友に誇れたものではなかった。
 ではどうすれば、という問いに答えてくれる者は居ない。
 帰る手だてもなく、こちらで生きることに前を向こうと決めたのも武雄だが、時折押さえきれない焦燥感に身を焼いているのもまた、武雄自身だ。
 だが、後々も時に郷愁の念と慚愧の念の板挟みになりながら、武雄がそれら胸の内を誰かに話すことはなかった。

 農作業の合間に暇を見て頑張ったおかげか、ひと月あまりで作業場は完成した……と行きたいところだったが、まだまだ準備が不足していた。
 材料の調達もあるし、中に麹を作るための小棚を作らなくてはならない。更には作業に使う鍋などの道具類や小分けして保管するための壷か小瓶のような物、もちろん薪や炭のような燃料も必要だ。
 魔法の代金も返したところだというのに、また借りるのは以ての外と、何かと仕事を見つけては、こまめに品物を揃えていくこととなった武雄である。

 夏のとある日に至り、ようやく武雄は実際の作業に取りかかれるようになった。前日から水に浸けておいたビール麦を借りた鍋と麻布、良く洗った小枝で作った蒸し器で蒸し上げるのだ。
 小室の隣に作った二組の竈───石組みの簡単なものだが、今度は小さいながらも本物だ───で、火の準備を始める。
「タッケーオ!」
「ああ、シエスタか。どうしたんだ?」
「うん、面白そうだから見に来たの」
 この冬一緒に出稼ぎへと出たジュリアンの妹が、いつの間にか武雄の側に来ていた。お転婆だが兄よりも余程しっかり者だとは、ジュリアンを除いた村人達の評価である。
 さらっと結わえた金髪にくるくるとよく動く碧眼、健康そうな美人で武雄の見立てでは十七、八に見えたが、まだ十五と聞いて驚いた覚えがあった。
「ソーユ?」
「正しくは『醤油』、だな。
 ……でもどうだろう、地味な作業だから見ていて面白くないかもしれない。
 それにまだきちんと出来るかどうかもわからないから、失敗しても笑わんでくれよ?」
「うん、笑わない」
 そう言えば、この娘は料理好きだったかと苦笑する。時折ジュリアンのご相伴に預かった覚えがあった。
「あ、蒸すんだ」
「ほう、シエスタは知っているのか?
 ジェシカさんの話では、こちらではあまり蒸し物はしないそうだが……」
「うん、干し葡萄と蜂蜜を混ぜたパン種を入れて蒸すと美味しいよ。
 お祭りのお菓子だから、春にしか食べられないけど」
「ああ、あれか。確かに甘くて美味しかったな」
「でしょ。
 でも、王都だともっと色々な種類のお菓子がお店で売っていて、いつでも食べられるんだって」
 蒸籠のような専用の蒸し器は、料理人のいる貴族の屋敷か飲食店にしかないらしい。こちらにも蒸す料理はあるが、鍋底に野菜や香草を敷き詰め上に肉をのせて火に掛けるような、いわゆる蒸し煮や蒸し焼きが主流とのことだった。
 合間にもうひとつの石組み竈で湯を沸かし、麻布を煮込む。
「布? なんで?」
「カビがついてると大変だから」
 梅干しの壷や漬け物の瓶は焼酎で拭くし、濾し取り布は煮るものと相場が決まっている。武雄は布の入った鍋が沸騰したのを確かめ、蒸留酒の小瓶と、これは三三七空時代から使っていてボロボロになった日本手ぬぐいを取り出して、小室の内部を拭きはじめた。大事にしていたが、破けてしまってはウエスにするしかない。
「そろそろいいな」
 火の番をして一時間ほど、そろそろ良いかと蒸し鍋をのぞき込む。熱いのを我慢して棒きれで麻布を開くと、麦はいつか見たような茶色く透き通ったほどよい状態になっていた。
「美味しそうだね」
「うん? 色は良いが、味はついていないぞ。
 食べられないことはないが……ほら」
 武雄は彼女の手にひとつまみ麦を乗せた。ついでに自分も少し食べてみる。
「……あんまり美味しくなかった」
「……だろうな」
 確かにこれだけでは正直美味くはないが、悪くもない。漬け物かおかずの一つでもあれば、武雄にとっては大化けする味だった。米粒の飯が望めないこちらでは、たまの贅沢に麦飯を作るのも良いかもなと、一人頷く。
「お鍋?」
「ああ。買ってきた」
 さて、ここからが気を使う場面だ。
 麻布の包みを全部取り出して平たい鍋に広げ、混ぜては崩し崩しては混ぜ、蒸し上げたビール麦を冷ましてゆく。
 人肌に冷めたところで雑嚢から握り飯のなれの果てをそっと取り出して麹の幾らかを落とし、再び酢飯のようにざっくりと混ぜていく。それこそ目分量だが、ともかく麹を増やすことが第一の目標であり、品質は優良可の可であれば文句なしと言える。
 一度で成功するかどうかは不明だが、麹屋や酒蔵のように大きな麹室で温度や湿度まで管理して短期間で均質かつ高品質な物作り出せるわけもないので、基本的には麹を植え付けた後は放置して、雑菌が見つかれば取り除くという地道な作業を繰り返すしかない。最適な温度や湿度はわからないが、時間を余計にかければ大丈夫なはずだった。
「よし、と」
 作りつけた棚に熱湯で洗って干した麻布を敷いてその上に麦粒を広げ、もう一度上から布で覆い、最後に藁筵をかけて今日の作業は終了である。
「それでおしまい?」
「ああ。後は毎日様子を見て、時々かき混ぜるぐらいかな」
 これで無理ならまた何か考えるよと、武雄は片付けをはじめた。

 本来なら武雄の母が行っていたように、きちんと濡れ布巾や団扇で温度や湿度を調えてやれば二、三日で出来上がるのだが、その塩梅がどうにも分からないので、元々は放っておいても生えてくるものだからと武雄は成り行きに任せることにした。握り飯にも生えてきたぐらいだ、よろしく頼むと柏手を打っておいたので大丈夫だろう。
 二日ほどは大した変化もなく、朝夕に様子を見ては頷くに留めていたが、四日目に白い菌糸が見え始め、武雄は顔をほころばせた。
 だが、その後が大変だった。カビとの戦いである。
 当然つまんで捨てるのだが、これがもう出るわ出るわ、毎日のように黒いもの青いものが麦の各所に現れてくる。
 一週間ほどして麹の菌糸が全体に回った頃には、その量は当初の四半分ほどになっていた。
「出来たには出来たが……」
 歩留まりが悪すぎる。
 やはり屋外で作業を行ったことが、原因なのだろうか。
 それでも、出来上がった麦の麹を恐る恐る口に入れると、ほのかな甘みが広がった。
 一応は成功を見た次の週、武雄は出来上がった麦麹を使ってもう一度同じ作業を行うことにした。
 米が手に入らないのでは、元の握り飯の麹が無くなっても作り出せるようにしておかないと、一度で希望は潰えてしまう。
 蓋のついた小壷にしまい込んでいたうちから玉杓子に一杯ほどの麦麹を用意して、武雄は再び作業に取りかかった。

 投入した麹種の量が前回よりも段違いに多かったおかげか、二回目の麹製造は五日ほどで仕上がり、製造期間も短い分他のカビの繁殖も押さえられたようで歩留まりも上がった。
「豆もそろそろ選んでおかないとな……」
 残念ながらと言うかやはりと言うか、大豆は手に入らなかった。こちらで一番よく食べられているエンドウ豆では少々甘い物になりそうで、最初に試すのは出来れば避けたい。
 それに、もう一つ問題も生じていた。小壷に保管していた麦麹にぽつりぽつりとカビが発生し、処分せざるを得ない状況に陥ってしまったのである。よし出来たと、しばらく様子を見ていなかったことが災いしたようだ。新しく作られた方は無事であったが、これは日々気を付けて保管するしかないと、武雄は嘆息した。
 こちらの方も色々と解決策を考えてみたが根本的な対処法は思いつかず、保管のための小壷を複数用意して小分けすることで、全体が一度に黴びてしまわないようにするしかない。麹を作るためだけに、一部屋間借りするわけにもいかないのである。
 気がつけばこちらへと来てから一年が過ぎていたが、武雄は心の内を誰にも見せず、表向きは嘆息一つで済ませてしまった。
 
 それでも秋までに目分量でおよそ一貫目、約八リーブルの麦麹を用意することが出来た。こまめに手を入れて小壷のカビを除去したことと、武雄自身にも作業への慣れが出てきて歩留まりも良くなったおかげだろうか。
 豆の方も目処がついた。例の如く村長のお供でラ・ロシェールに出かけた際、市場で扱っているあらゆる豆を各々少量買い求め、煎り豆にして食味を確かめたのである。食味が今ひとつ大豆に遠く候補外となった豆は、子供達が名乗りを上げてくれたのでおやつとして提供した。流石に毎日毎日煎り豆の味見では、種類が違えど飽きも来てしまう。
 結果、ヒツジ豆という種類が比較的良さそうだと結論づけた。少しでこぼこしているが、大きさも食味も比較的大豆に似ている。試しにと煮込んで食べてみると、大豆より柔らかくなるのが早いこともわかったし味も期待できそうだ。このトリステインではあまり作付けされていないが、南側にあるガリアやその向こうのロマリアではよく食べられているそうだ。輸入品になるのでトリステイン産の他の豆よりは少々値が張ったものの、こちらも十分に許容範囲である。
 ただ本格的に忙しい時期にも近づいてきたので、麹の点検は毎日行いながらも、仕込みについては冬場に行うこととした。

 去年と同じく麦とワインに追われた秋が終われば、また出稼ぎの季節がやってくる。その前に仕込みだけはと、武雄は村長に断りを入れて休みを貰っていた。
 小分けした麦麹は幾らかカビが生えたので少し目減りしてしまったが、諦めるほどではない。
 幾度も手順を思い返し、必要な物も揃えたし塩も麦も十分に用意した。竈の横には十分な柴が積み上げてあるし、ヒツジ豆は既に計量して前日から水に浸けてある。道具の方も、豆を潰す為のすりこぎを自作した。
 あとは行動するのみである。
 まずは豆の入った鍋を火に掛け、柔らかくなるまで煮込む。ここまでは味噌も醤油も共通だ。岩塩を砕いて煎るのは昨日の内に終わらせたが、合間に麻布の煮沸消毒を済ませ、醤油用の煎り麦も作らなくてはならないので忙しい。
 前回に引き続きシエスタが手伝いを申し出てくれたので、これ幸いと彼女を助手に、平行して仕込みの準備を進める。
「何をすればいいの?」
「シエスタは煮豆の火の番を頼めるか?
 俺は壷を洗う水を貰ってくる」
 この草原から一番近い水場は村の井戸で、彼女に手桶を持たせるのは申し訳ない。ちなみに今日は既に二往復している。
「……ふう」
「おかえりー」
 晩秋にも関わらず、戻ると汗が滲んでいた。
 洗った壷を蒸留酒で拭き、味噌用の麹の塩切りを行う合間に豆をつまんで様子を見る。大豆よりもずっと早く煮えることだけはありがたい。煮始めておよそ三時間で程良い柔らかさになった。
 醤油用の小麦は煎り終わり、今は広げて荒熱を取っているから、あちらが冷めきるまでに味噌は仕込んでしまいたい。
「こっちの鍋に豆だけを移すからな」
「うん」
 すりこぎで粒からそぼろへ、そぼろから練り物に。水を切った豆を全て潰すのは手間だったが、時間勝負の側面もある。
「半分だけ、こっちの新しい鍋に移してくれないか」
「半分ね」
 残った鍋の豆を人肌ほどに冷まし、今度は手に力を込めて握りしめるように塩切り麹と混ぜ込む。
「お豆で出来たパン種みたいだわ。ちょっと塩が多すぎるけど」
「しっかり練って発酵させるところは似てるかもな。
 ……混ぜ込まないと、ムラが出来てしまうんだ。
 シエスタ、玉杓子に半分ほど煮汁を入れてくれないか」
「うん。……これくらい?」
「ああ、丁度いい」
 覚えている感触に近い柔らかさに練り混むと、今度は拳大の塊を形作る。
「あとは仕込みだ」
 味噌の玉を壷の底に押しつけるようにして上から力を込め、潰しては積み上げる。丁寧に空気を抜かないと、カビが出てしまうのだ。
「最後に塩で覆って重石をすれば、こっちは出来上がりだ」
「あんまりにおいがしないね?」
「今はな。
 さあ、もう一つの方だ」
 続いて醤油の方にも取りかかる。
 煎った麦と煮た豆、それに麹をやはり丁寧に混ぜ込むと、今度は山盛りにして麻布と藁筵をかけ、小室の棚に置く。こちらは醤油麹をまず作らなくてはならない。
「今日はこれで終いだ。
 明日は朝晩に様子を見て、熱くなっていたら豆の山を崩すぐらいかな。
 大丈夫そうなら明後日か明々後日、塩水と一緒に壷に仕込む。
 ……今日は助かったよ、シエスタ」
「わたしも面白かったよ。
 タッケーオは本当に異国の人なんだね。
 こんな調味料、うちのおばあちゃんだって知らないと思うわ」
「だろうなあ」
 どこともわからない異界では、和食が知られていなくても不思議はない。
「代わりに俺は、こちらのことはまるで知らないからな。
 まあ、おあいこだ」
「そうだね、おあいこだね。
 ね、次はわたしが作ってみてもいい?」
「そうだなあ」
「大体は覚えたと思うんだけど、駄目かなあ……」
 少し勿体をつけて見ると、シエスタがあまりにしゅんとして落ち込んでいたので慌てて付け足す。
「出来上がりを味見して、シエスタが気に入るかどうか次第だな」
「……うん、気に入ると思う」
 ぱっと表情を明るくしてくすくすと笑うシエスタの顔が、少しばかり眩しかった。

 冬に出稼ぎ、春に収穫と、季節は巡って盛夏葉月、こちらではニイドの月と呼ばれる夏の一番暑い頃のこと。
 武雄はいつものようにシエスタと連れだって、味噌と醤油の様子を見に草原へと出ていた。
 既に村では公認の仲で、村長宅に出入りするシエスタには誰も驚かなくなっている。多少のすったもんだ───村長夫妻からは見かけよりも手が早かったと呆れられ、シエスタの両親からはあの通り遠慮を知らないお転婆だが本当に貰ってくれるのかと真顔で問われ、老若男女問わず村人からは二人してさんざんにからかわれ、唯一猛反対したシエスタの兄ジュリアンは『いい加減妹離れして!』とシエスタから正拳で殴られてしばらく頬を腫らしていた───はあったが、それらもようやく落ち着き出していた。
「楽しみだね」
「ああ」
 仕込みからおよそ九ヶ月、味噌と醤油は順調に変貌を遂げていた。
 味噌は二度目の天地返しを終え、醤油はカビを嫌って既に口の狭い壷に移し替えている。
 麹に味噌に醤油と中が狭くなってきた小室は、隣にもう一つ同じ様なかまくらもどきを作って容量を増やした。これはいよいよまともな土蔵か小部屋が欲しいところだが、いきなり手に入るものではない。
「これが仕上げ前最後の手入れになるな。
 味噌はワインの仕込みが終わる頃まで寝かせるだけ、醤油も同じ頃まで寝かせて絞るだけだ」
「匂いがきつくなってきたね?」
「俺にはいい匂いだが、嗅ぎ慣れていないときついかもな。
 ……まだ塩辛いだけだとは思うが、少し味見してみるか?」
 小さい匙で少しばかり掬い、二人で味を見る。
 それぞれに角の取れていない塩味がきついのだが、それでも随分と久しぶりに口に広がる芳香は、十分に武雄の郷愁を誘った。うま味はまだまだ足りないが、前回の手入れでは感じられなかった味噌や醤油の香りと味がする。
「……しょっぱいけど、不思議な味がする」
「ああ。
 流石にまだちょっと若いが、悪くないな」
「煮物よりもお肉のソースの方が合うかしら?」
「それはシエスタに任せる。
 俺はありものは識っていても、その先がわからん」
「うん、まかせて」
 武雄は座り込んで、シエスタを引き寄せた。
「あん! まだお昼よ」
「……なあ、シエスタ」
「……なあに?」
 じゃれて抱きしめられたのとは少し違うと気付いたシエスタは、不思議そうに武雄を見上げた。
「少し、聞いて欲しいことがあるんだ」
「うん」
「この一年じっくりと考えた。
 俺は多分、故郷に帰ることなくここで老いて死ぬと思う」
「……うん」
 列機の山本や高田、三三七空、故国日本。
 こちらへと流されて丸二年、歩いて帰ろうとして止められたこともある。色々と尽くした手は全て空回りに終わり、ここに至っては、日本に戻ることは不可能と武雄もはっきり理解していた。でなければシエスタとも距離を置いて接していた筈だし、ましてや嫁に貰おうなどとは思わなかっただろう。
 それに吹っ切れると、色々見えなかったことも見えてくる。
 どのような方法か偶然かはわからないが、武雄はこのハルケギニア世界に来てしまった。ともすれば、また他の誰かが日本から来るかも知れない。可能性は全くの零ではないはずだ。
「それでな、色々考えているうちに、俺と同じ様にこちらに来てしまう奴がいても不思議じゃあないと気付いたんだ」
「そうだね」
 誰とも知らない、来るかどうかもわからない相手だが、おそらく武雄と同じように異世界に驚き、困り果てるに違いないことだけは想像がついた。
「そいつにだな、こっちにあるはずのない味噌汁や煮物を振る舞ってやったらどんな顔をするだろうと考え出すと、とてつもなく面白いことのように思えてな。
 ……シエスタも手伝ってくれよ?」
「それはもちろん手伝うけど……その人はいつ来るのかな?」
「さあなあ。
 明日かもしれないし、百年後かもしれない。来ないかもしれない。
 ……わからないな」
 来てくれ、とは言えないし言わない。
 あくまでも、『来てしまった』誰かに対して振る舞いたいのだ。
 食前酒には村長自慢のワインを一献、出てきたスープはみそ汁で、煮込み料理は醤油味。
 その誰かは、実に愉快な表情をするだろうに決まっている。
「……百年後はちょっと手伝えないかな。
 あ、でも!」
「うん?」
「娘が産まれたら、ソーユの仕込みは必ず教える!
 息子が産まれたら、お嫁さんに覚えて貰う!!
 ……これなら、百年後でも大丈夫じゃないかな?」
 不覚にも、武雄の涙腺は決壊した。悟られないようにと、シエスタの金髪を抱え込む。
 驚かせたい誰かに会えないのは癪だが、百年後に自分たちが生きているはずもない。
 しかし、異界の村に味噌や醤油が伝わる不思議に、その誰かは出会うわけだ。
 それならばそれでまた面白いと、武雄は笑みを浮かべて腕に力を込めた。

 二人は翌年結婚し、子宝にも恵まれた。
 大きくなった彼らの子は醤油をソーユと呼び慣わしていたが、やがて孫の代になると直系である長子の家以外ではソーウやソーニャ、ソージャなどと訛化し、あるいは『ソース・ドゥ・ソージャ』と呼ばれるようになっていた。味噌の方は『ソーユの練り物』の意味から『パティ・ドゥ・ソージャ』となり、本来の名前は喪われて久しい。『ヨシェナヴェ』だけはそのまま当時からの名で伝わっているが、これは最初にその名を覚えたのが子供たちだったせいだろうか。
 またタルブだけでなく、その周辺でも嫁いでいった二人の子や孫もその名と味を広めていった。大きく扱われることがなかったのは、生産量が自家消費分に押さえられていたこと、それぞれに味が濃くて単味ではこちらの人々の舌に馴染まなかったこと、また出汁と合わせることを武雄がシエスタ以外には伝えていなかったこと、売るときに調理法までは伝えなかったことなど、様々な要素が絡み合ったせいである。
「あなた、それは?」
「『海軍少尉佐々木武雄、異界ニ眠ル』……俺の墓石だ。
 墓碑銘ぐらいはお国の言葉でないと、こっちに来たやつが素通りするかもしれんからな」
 当初はこちらの大工を雇って造らせた『竜の巣』も、武雄が自ら手を入れて板葺き屋根に白い漆喰で和風に仕上げたし、あとはこの墓石が締めくくりとなるようにしたかったのだ。
 結局、武雄が生きているうちに日本人がタルブを訪れることはなく、彼は少し残念だなと笑いながら、いくつかの遺言を家族に託してこの世を去った。

 だが。
 彼がこの地に降り立ち、最初の醤油と味噌が仕込まれてより実に数十年。
「それって村の名物なんだろ?
 さっきのヨシェナヴェみたいな。
 そんなの、持ってきたらダメじゃん」
「でも……、わたしの家の私物みたいなものだし……。
 サイトさんがもし欲しいって言うなら、父にかけあってみます」
 武雄とシエスタの曾孫で、曾祖父譲りの黒い髪と黒い瞳と、曾祖母の名を受け継いだ少女が、ついにその望みを叶えることになる。

(了)




←PREV INDEX