ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
外伝「異界に在りて(中)」




「今日は早いな、タッケーオ」
「うん、おはよう。零戦の方をちょっとな」
「ああ、あの飛べない竜のところか」
「いやいや、ガソリンさえあれば飛ぶぞ」
「がそりん!? ……餌みたいなものか?」
「うむ、そのようなものだ」
 ラ・ロシェールより戻って数日、武雄は村長宅で世話になりながら今後の身の振り方を模索していた。

 ともかく、こちらの世界『ハルケギニア』のことについて、村の子供より物知らずであるこの状態を何とかせねばならない。尋常小学校にあった金次郎像の尊徳翁ではないが、家畜の世話の合間でも頭を働かせることは出来るし、耳目も働く。
「お前さん、算術はそれこそ商売人並に出来るのに、こっちのことはほんとに何も知らんのだなあ……」
「……面目ない」
「まあ、とんでもなく遠い国から来たのなら、それも仕方のないことか」
 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥と子供に混じって教えて貰うこともあれば、村長や村の大人に直接聞いて回ることも多い。
 少しづつ成果は出ていた。例えばお金の単位はエキュー、スゥ、ドニエで丁度円、銭、厘に対応する。教えて貰った物価から考えると、一エキューが五円かそれより少し安いぐらいと換算すればよいようだ。村長から小遣いを貰い、行商人から買い物をしたこともある。
 長さ一メイルはほぼ一米、重さは一リーブルが百匁よりも少々重いぐらいだろうか。ともかく生活に慣れることが肝心と、武雄は村に溶けこむ努力していた。
 同時に零戦も、そのまま野ざらしで放置するわけにもいかない。
 それに武雄と同じくこの近隣では他にない日本の生まれ、部隊の装備品でもあるが、大きく見れば陛下よりお預かりしたものである。無碍な扱いは出来なかった。今はラドの月と言ったか八月……いや、九月だったかで、ほとんど雨もないらしいが、麦の種蒔きが終わる再来月には、少し雨が多いと聞いている。

「気をつけてな」
「ありがとう」
 歩いて数分、村からはそう離れていない草原の隅に、今も零戦は止まっていた。飛ばしてやりたいが力になれずすまんと謝り、その前にでんと腰を下ろす。
 さてどうしたものか。
 一度や二度の雨であれば拭き取れば何とかなりそうだが、やはり零戦が丸ごと入る格納庫のようなものが必要だ。詳しく聞いたところでは全般的に日本よりも雨が少ない様子で、武雄の感ずるところ空気も乾燥しているが、現状のまま放置するわけにもいかない。
「少年倶楽部の冒険小説でもあるまいし、えいやそいや出来た出来た……で建てられるわけもないか」
 手堅くいくしかないなと武雄は知恵を絞り、二段構えの作戦を採ることにした。
 先ずは第一段、零戦にほぼぴったりな骨組みを廃材などで作り、柴と麦藁で葺いて雨避けを作る。数ヶ月なら、時折開いて風に当て、中を乾かせばなんとかなるだろう。家畜小屋より粗末だが、その分、複雑なことにもならないはずだ。
 続いて第二段、こちらきっちりと準備をして本格的な建物を作る。これには時間も、そして恐らく代金も相当必要だろうが、零戦を長期的に保護するには恒久的な建物を建てしまうしかない。
 機体そのものは、武雄でも出来る部分は自力で整備し、整備兵にしかわからない部分は基本的に放置することに決めた。下手に触れるよりはいいだろう。長期的視野で見れば、ガソリンや潤滑油はなくともランプに使う植物油や防寒衣に使う獣脂は村長の家で見たから、将来支障は出てしまうかもしれないが錆止めの代わりは用意できる。
 ともかく、自分で出来ることからはじめてみようじゃないか。
 武雄は頬を叩いて気合いを入れると、村へと駆け出した。

 その日より武雄は、仕事の合間に草原横手にある森へと入っては、材料を集め始めた。
 村長からは、『そこは領主様の森なので、許可無く立木を切れば問題になる。だが、焚き付けに使うような落ちた枝や枯れ木はお目こぼしされている』と聞かされていた。つまりは、きこりは駄目で柴刈りは良し、と言うことだ。それでも村長の口調と態度から、貴族に逆らう行為は拙いのだということはよく分かった。今でも世話になりっぱなしであるのに、村長らにこれ以上迷惑を掛けるのは本意ではない。言われた通り、立木に手を出すのはやめておくことにした。
 それでも手作業で柴を集めるのは、何とも腰の痛い重労働である。持てるだけ持っては零戦の傍らに積み上げて行くという辛い作業の繰り返しだが、総員罰直が日課であったあの頃と比べれば、なんのこれ如き、音を上げてはいられない。
 縋るものもないこの土地で、零戦は武雄の心の拠りどころとなりつつあった。もしかすると、ほんの少しぐらいは帰還できる可能性もあるかも知れないが、その方法となると手探りもままならず、何も方策が浮かばないのでは仕方がない。
 その零戦を収容する小屋にしても、勝手に建物を建てては拙いだろうと、村長ら村の顔役に相談だけはしてあった。
 おかげで麦藁は、極端な量でなければと念押しされたが、家畜小屋の敷き藁に必要な分以外は好きなだけ持っていっても良いと許しが出ている。骨組みに使う廃材の方は、今後何かで出た廃材のうち、村では特に重要度の高い牧場の柵の修理や葡萄畑で使う物以外は、やはり武雄に回そうと約束してくれた。
 更には物珍しさも手伝ってか、目処がつけば手すきの村人も手伝ってくれるそうだ。代わりに種播きの時期は、武雄が縦横無尽に働き回る約束である。
 
 ひと月ほど走り回ったおかげで、第一段階の雨避けは無事完成した。なんとか種播きの前に滑り込む事が出来たようだ。
 廃材と麦藁と柴で出来たそれは、空襲避けの偽装網を施したようにも見えるし、単に田んぼの稲掛が連なっているような、田舎風景を切り取ってきた風情にも思える。だがこれでどうにか、零戦を風雨に晒すことがなくなった。次の段階へと進むには、本格的に稼がねばならない。
 手伝った村人からは、いつのまにか零戦が『竜の羽衣』、雨避けの方が『竜の巣』などと呼ばれていた。機首の『辰』の字の意味を聞かれ、それに答えたような覚えがある。だがよくわからないながらも、武雄が零戦を大事にしていると言うことだけは伝わったらしい。子供達はからかい半分に『でっかい竜の置物』『タッケーオのボロ別荘』などとも呼んでいるが、これがきっかけで村人との距離が縮まったことも事実である。
「今日は確かエミールの家だったか?」
「ああ、わしらはエミールのところに行く。
 モンタンとクレールの家も、他の連中が手伝うから今日中には終わる。残りはジョエル、アルノー、それからロドリグ爺さんのところだな。
 なんとか今年も無事に種蒔きを終えられそうだよ」
 日本では裏作が主となる麦だが、こちらでは主食とあって村中総出の大行事である。ちょうど日本の田植えのようなものかと、一人頷く。
 村長の家はワイン専業で麦畑はなく、葡萄畑とその隅にある根菜や葉物を植えている小さな畑を持つのみで、この時期の村長は手の足りないところに顔を出すのが通例だった。今年は武雄が居るので楽が出来ると、まじめな顔で肩を叩かれる。娘は余所の村に嫁ぎ、息子は戦争で帰らぬ人となったとは、しばらくしてから聞いた話であった。
「今日はよろしく」
「おう」
 昨年結婚したばかりだと言うエミールの家の畑は、村の東南にある。武雄の目から見ておよそ七、八町歩───二万坪ほどになるだろうか、大した広さだ。こちらでは、これで普通の農家だというのだから恐れ入る。もっとも、今秋麦を植えるのはその半分ほどで、春に収穫した畑は休耕地になるそうだ。
 村長とエミールが馬に牽かせた犂で畑を起こし、他の面々はめいめいに鍬や篭を担いで、与えられた仕事をこなしていく。
 水田と芋畑に慣れた武雄には少々違和感もあるが、日本でも裏作に麦を選ぶ地域は多かった。麦そのものは例えば麦飯やうどん、すいとん、天麩羅の衣、食べ物ではないが麦わら帽子など馴染み深い。
「そう言えばタッケーオ、お前さん馬を扱えたりはするか?」
「いや、無理だ」
「そうか。……まあ、そのうち覚えてくれ」
「ああ」
 武雄の実家は馬を飼っておらず───山村の棚田だったので田起こしは人手頼みだったし、国の支援がある開拓団でもなければ農業機械があるはずもなく───陸軍の騎兵科は時代遅れと興味が沸かずで、往来で馬車を見かけることはあってもそれほど親しみある存在ではなかった。
「ふう……」
 水田と違って厳密な水平を保つ必要はないが、その分、多少坂になっていようとお構いなしに麦畑にするらしく、割に骨の折れる作業が続く。代々使われている農地とのことで、大きな石や太い木の根などがないのは幸いだ。
 普段は葡萄の方に取られている人手も、ここ数日はこちらの手伝いが主になる。入れ代わるように来週からは葡萄の収穫とワインの仕込みで忙しくなるそうで、この時期が一番忙しいと聞いた。
「おーい、タッケーオ! ジェシカとシエスタがパイを持ってきてくれたから休憩にしよう」
「ありがたい、すぐに行く」
 村長の奥方、ジェシカの作るパイは美味い。
 武雄は一度身体を伸ばし、腰をぱきりと鳴らしてから皆の集まる一角へと向かった。
 
 そのようにして忙しい秋が終わりに近づくと、ようやく村も落ち着いてくる。
 特にワインの方は麦畑以上に忙しく、更には気を使うので、流石の武雄も疲れが溜まってきていた。仕込みさえ終われば後はそうでもないのだが、そこまでがきつい仕事なのだ。
 あとは森に豚を放ってドングリを食べさせるのが、武雄の仕事になった。豚は冬の間の食料にもなるし、増やして売ることもできる貴重な財産である。子守仕事も半分任されているのか子供達もぞろぞろとついてくるが、食べられるきのこや山菜を教えて貰った礼にと、村長の奥方から鍋と塩を借りて森へと持ち込み、おやつ代わりに料理を振る舞ったこともあった。
「ちょっと寒くなってきているからな、温かいものもいいだろう」
「スープ、じゃないわね?」
「美味しいよこれ!」
「そうだろう、そうだろう。
 これは『寄せ鍋』と言う故郷の料理でな」
「ヨシェナヴェ?」
 数十年の後にこれが村の名物になろうとは、想像もしなかった武雄である。

 他にもワインを献上する村長に従って、隣村の領主の屋敷へとくっついて行ったこともあった。冥加金なり上納品なりを収めるのは、古今東西何処も変わらないらしい。
 行った先で、ついでのように武雄の戸籍も作られた。村長の家の下働きという立場ではあったが、これで正式に村の一員と認められたことになる。
「二十四歳!? タッケーオ、お前さんそんな歳だったのか?」
「ああ、そうだが……」
「見かけで十四、五かと思っていた。その歳にしてはよく気がつくしっかりものだと……すまん」
「いや、それは構わないが……。
 村長、もしかして他の皆もそう思っているんだろうか?」
「……多分な」
 武雄自身は土地や家畜を所持しているわけでもなく商売もしていないので、当面は村長から与えられた給金に僅かな税がかかるのみであった。村長はしたたかなことに、日々の食事や寝床、武雄に回した廃材等を給金の現物支給として役人に説明して見せ、時折渡す小遣い銭についてはだんまりを決め込んだ。
 ここは代官の治める王の直轄領ではなく、地方貴族のアストン伯爵が直接治める諸侯領とあって、伯爵家に仕官する役人も領内出身の者が殆どだった。役人の方でも分かっているからこそ、多少穴のある村長の説明でもうむと頷いて余計な口は挟まなかったのだとは、帰りの馬車で聞いた話である。
「そう言えば、タッケーオは地元でどんな仕事をしていたんだ?」
 ……ああ、話したくなければ別にいいぞ?」
「話すのは別段……ただ、どう説明したものかとな」
 戦闘機がないのでは、その操縦士と言っても話が通じないだろうと思案する。
「……日本では、軍人だったんだ」
「ほう?」
「本当だぞ。
 これでも海軍の士官で……そうだな、こちらで言えば竜騎士のような仕事をしていた」
「タッケーオ、お前さん、貴族様だったのか?」
 村長の目が若干厳しくなる。
 武雄の故国日本にも、ハルケギニアの貴族同様に華族と呼ばれる人々はいた。流石に直接の知り合いはいなかったが、貴族院の議員をはじめとして爵位を持った軍人や政治家、あるいはオリンピックの金メダルで新聞を賑わせたバロン西のような有名人など、雲の上の人という認識ぐらいはある。
「まさか。
 実家は農家で、俺はただの次男坊だよ」
「……ああ、空海軍は平民でも士官になれるんだったか」
「故国だとあまり関係はないが、こちらでは厳しいらしいな」
 こちらの貴族は魔法を使えると聞いたが、一度くらいは見ておきたいものだと、武雄は肩をすくめた。

 放牧の他にも、『竜の巣』の一件で大工道具を器用に使うところを皆に知られてしまったので、武雄は村のあちこちに家屋や家畜小屋の修繕に駆り出されることが増えていた。
 若干流されているような気もするが、異邦人───それもどうやら異界からきた流れ者───である自分に対して、村は十分に甘くて親切な態度で自分を受け入れてくれた。遠くの親戚より近くの他人……でもないだろうが、このことは幾ら感謝してもしすぎということはないだろう。
 それに、忙しいとは言っても防空部隊の戦闘機操縦士として日本にいた頃に比べれば、全く以て何ほどのこともなしと言い切れた。
 連日連夜の出撃は、体力もさることながら神経をすり減らす。大陸帰りの猛者も飛練教育を終えたばかりの新任も、分け隔てなく、地獄の釜へと放り込まれるのだ。
 武雄はここハルケギニアに来て数ヶ月になるが、未だに警戒警報の耳障りな響きや高声器から流れる緊迫した声を聞いたような気がして、夜中に目を覚ますことがあった。
 あちらはどうなっているだろうか。
 列機の山本や高田は、『辰』部隊の皆は大丈夫だろうか。
 ……日本はどうなったのだろうか。
 ここで頑張ろうという気持ちに嘘はないが、帰れるものなら帰りたい。こちらもまた、偽りのない気持ちであった。
 男は涙見せぬもの、今は為すべきことを為すべしと、武雄はそれら一切合切を心の中にしまい込んだ。

 やがて季節は冬を迎えた。
「村長、奥方、では行って来る」
「ああ、しっかりやってこい」
「気をつけてね」
 冬場はそれほど忙しくはないと聞いた武雄は、村の若手数人と一緒にラ・ロシェールへと出稼ぎに出ることになっていた。手元不如意では何もできない。このまま村長の家に居候し続けるのも、なんだか申し訳が立たなかった。
 それに、理由はもう一つある。
 それまでも、武雄はたまに時間が出来ると『竜の巣』へと赴いて、骨組みを覆う麦藁の束を外して機体に風を当て、あるいは風防を開けて操縦室内の湿気を逃がしと、零戦の維持に心を砕いていた。
 だが余りにも頻繁に向かうのを見かねた村長から、提案があったのだ。
『そんなに心配なら、貴族様に頼んで錆止めの魔法を掛けて貰えばいいんじゃないか?』
『そんなものまであるのか!?』
 朗報……と言ってしまっていいのか、摩訶不思議な手もあるものだ。錆びないだけでも零戦の心配がかなり減る。
 魔法を直接見たことはないが、貴族が杖をかざして呪文を唱えれば、たちどころに怪我が治ったり、大きな岩の塊が持ち上がったりするという。皆に担がれている……とは思わなかった。何せここは、帆掛け船が宙を飛び、竜に乗った騎士様が大空を舞う世界であるからして。
 武雄が決意するのにそう時間は掛からなかった。
 まともな建物に零戦を収めるという計画の第二段はそのままに、錆止めの魔法───後から聞いたところでは、正確には『固定化』の呪文と言うらしい───も掛けて貰うようにする。科学万能もへったくれもなかった。郷に入っては郷に従え、これがこちらのやり方だと思えばいい。
 ただ村長の話では金額も相応のようで、これは本格的に稼がねばと武雄は気合いを入れていた。
「気楽に行こうぜ、タッケーオ」
「ああ」
 同行する村の若者は四人、ラ・ロシェールでは商人に雇われて荷役に従事する予定だった。
 いずれも独身、道中は猥談なども織り交ぜながら、気になる娘のことなどを語ったりする。これは何処も変わらないなと、武雄は苦笑するに留めた。
「しかし、なんだって今頃の時期に港が忙しくなるんだ?
 収穫は春だろうし……」
「ああ、タッケーオは知らないかもしれないが、ガリアの南の方だと春蒔きの麦もあるし、商人によっちゃあ倉庫に貯め込んどいて、値段が上がるのを待ってから売る人もいるんだ」
「だからアルビオン航路の要にあるラ・ロシェールは冬のこの時期、忙しくなるんだ……って村長が言ってたよ」
「まあ難しいことはよくわからんが、俺達は言われるままに麦の袋を積み替えてりゃあ、給金が貰えるってこった」
 連れになった若者達は、兄貴の結婚祝いを買うだとか一人立ちした時に牛を飼う為の資金にするだとか、はたまた可愛いあの娘に銀細工の櫛を買うのだとか、目的はそれぞれにあるが顔は揃って明るい。生活に困って働きに出るわけではなかったからだ。タルブは麦とワインの二本柱のおかげで、そこそこ裕福な村だった。
「まあタッケーオの面倒は俺が見てやるから、安心しろ」
「何言ってんだ、ジュリアンの場合は面倒を見て貰う、の間違いだろ?
 シエスタが『お兄ちゃんはもうちょっとしっかりしないと、お嫁さんの来手がない』って言ってたぞ」
「違いない。
 お前はもうちょっと回りをよく見た方がいいな。
 俺らから見てもがさつ過ぎる」
「お前らなあ……」
 娯楽の少ない土地のこと、血の気の多い若者を追い出して圧抜きをさせているのに近いようだと気付いたのは、村に戻ってからのことだった。
 
 武雄の見るところ、出稼ぎ仕事の方は可もなく不可もなくというあたりであった。タルブ組は桟橋近くの小部屋を寝床として宛われているが、フネが入港してくると忙しく、そうでない時は暇を持て余すような仕事である。フネの入港を『出撃』、それ以外を『待機』と考えればよいだろう。
 それに、口入れ屋が間に入っている日雇い荷役夫というわけではなく、村長の知り合い……というよりも村ぐるみでつき合いのある商会に季節雇用されているので、色々と融通も利く。
 例えば降臨祭の休暇もその一つだ。
 こちらでは降臨祭と言って年明けに十日ほどの休暇を取るそうで、そのうちの半分は仕事になっていたものの、残りは村で過ごすことが出来た。武雄としては、三が日より長ければ十分長いと思えるので特に文句はなかった。
「ラ・ロシェールはどうだった? 稼げたか?」
「土産を買える程度には、なんとか」
「ほう、こりゃあ嬉しい」
 村長には蒸留酒を、奥方には香草茶を手渡す。世話になった礼としては些少かも知れないが、いまはこれが精一杯である。
「そういえば、給金はどのぐらい貯まったんだ?
 もう貴族様に依頼できるぐらいにはなったか?」
「……一月半で十五エキューになった。
 思ったよりも良心的な雇い主だったよ」
 随分と直裁だが、村長とは大家と店子のような関係でもある。気を揉ませているのも間違いないと、武雄は素直に答えた。
「あちらさんにも良心的になる事情があるのさ。何せ、タルブの麦はあの商人が独占しているからな。
 ……それで、だ」
「うん?」
「ちょっと少ないが、まあ、足りない分はこちらで用立ててやる。
 ……気になって仕方ないんだろうが?」
「……いいのか?」
 そこまで世話になるわけにもいかないと言う気持ちと、少しでも早く魔法を掛けて貰い、経年劣化や長期の放置による整備不良から機体を守りたいという気持ちの間でしばし葛藤する。
 だが……遅きに失してしまうよりは、迷惑を掛けることにはなっても零戦を優先するべきだった。どこかに不具合が出てからでは、魔法の意味が半減してしまうのだ。
「済まない村長、宜しく頼む」
 村長は、にっと笑って首肯した。
 
「貴族様に対しての態度は……そう言えば、タッケーオは軍人だったか?」
「うむ」
「なら、上官に対する言葉遣いをしていればいいか。大きな問題にはならんだろうよ。
 こちらに来て貰うのが今日になるか明日になるかわからんが、昼には一度村に戻るよ。
 領主様の家臣の方だから今の時期は大丈夫だと思うが、相手方が不在だったらすまん」
 翌日、降臨祭の休暇のうちなら頼めるかも知れないと、村長は隣村───以前に行ったことのある領主の屋敷のある村だ───に向かい、武雄は零戦の方が問題ないか確認していた。
 幸いここトリステインは、日本ほど湿潤ではなく雨も少ない。出稼ぎに出る前とそうかわらない様子の零戦に、武雄は安堵した。雨避けを外して風を当ててやり、搭乗前同様に注意深く各部の状態を調べていく。
 多めに時間を掛けた機外の点検が終われば、今度は操縦室の内部である。武雄は風防を開けて乗り込むと、久しぶりに操縦桿に触れ、フットバーに脚を乗せた。雨避けの骨組みがあるので大きくは動かせないが、操縦索の感触を確かめながら順に動翼の動きを確認する。
 ガソリンがほぼ無い状態で着陸したので、残念なことにエンジンを掛けてバッテリーを使う細々とした装備の状態を確かめるわけにもいかなかった。イナーシャハンドルもないし、プロペラに綱をかけて大勢で引っ張って回すような騒ぎをするのは少し躊躇う。
「よし。 特に問題はないな。
 ……うん?」
 操縦席の機械臭に混じって、微かに甘い香りがする。
 出所を探してみると雑嚢であった。そう言えばと思い当たる節もあり、少し顔を顰めながら、恐る恐るのぞき込んで見る。
「やっぱり……」
 案の定開けた袋の中は黴びており、先ほどの甘い香りに混じって香ばしいような埃っぽいような臭気も漂ってきた。おそらくは、整備員に渡された握り飯だ。どこかで嗅いだような覚えもあるが、腐ってしまったのだろう。このタルブへと来る機中で食えば良かったのにと、その時思いださなかったことを悔やむ。一緒に入れていたアルマイトで出来ている水筒の蓋も、同じく薄緑色のもので覆われている。雑嚢は惜しいが、捨ててしまうべきだろう。
 いやいや、これは故国で作られた自分にとっては替えのない大事な物、僅かでも無駄にするのは良くないかと考え直す。水筒は洗って干せば匂いもましになるだろうし、握り飯は潰して糊に、雑嚢は……袋としては使えなくとも、零戦の整備に使うウエスにすれば無駄にはなるまい。
 ひとつだけ大きなため息をついた武雄は、雑嚢を手に機外へと出た。
「……?」
 そこでふともう一度、先ほどの甘い匂いについてひっかかりを覚え……今度は大きく笑みを浮かべた。機械油の臭いや金属臭で形作られた機体の臭い───それはそれで武雄にとり故国での生活を思い出させる大事な物だった───から離れて雑嚢の香りのみを嗅いでみれば、とても懐かしい色々なものを思い出すことが出来る『いいにおい』だった。
 漬物屋の店先で、あるいは実家の土間の隅で嗅いだ覚えのある匂い。腐ったなどとはとんでもない。よくぞあの空戦の後、握り飯を食わずに忘れていたものだ。
 今一度雑嚢を開け、そっと笹包みを取り出して開く。握り飯には菌糸がびっしりと生えていたが、飯粒の形は残っていた。乾いているそれを触ってみるとそぼろ状に崩れ、塵埃のような胞子がふわりと舞う。
 まごうことなき麹であった。それも見たところ、麹屋で仕入れるのとあまり変わりない様子である。
 一粒だけ口に含み味を見てみると、乾燥して硬い米粒はまるで干飯のようだったが、微かな甘みに武雄はぐっと拳を握りしめ、目を瞑った。
「……こりゃあ、忙しくなりそうだ」
「おーい! タッケーオ!」
 笑み崩れそうになる顔を押さえながら呼ぶ声に振り向けば、客人らしい黒マントを身に着けた初老の男性を連れた村長が、こちらに向けて歩いて来るところが見えた。



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