ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
挿話その八「王太女の嘆息」トリステインの王太女アンリエッタは、侍女達に文箱を片付けさせながら、また一つため息をついた。 書き上げたばかりの手紙は、今頃は領地にて采配を振るっているであろうセルフィーユ伯爵リシャールに宛てたもので、しばらくは登城禁止と記している。彼には謹慎処分に近いぐらい大人しくして貰わないと、彼も自分も困ったことになるのだ。 今頃はマザリーニも、ラ・ヴァリエール公爵に同じ様な手紙を書いている頃だろうか。 この大失態をどう取り戻したものかと、アンリエッタは不安と焦燥に駆られていた。 先月の半ば、彼が登城した折の騒動は記憶に新しい。 マザリーニと相談して、細心の注意を払ってこちらに近いか中立と見える人物を数人を選び、短い会談を行うように仕向けたのだ。 こちらは彼の宰相就任を可能な限り先延ばししつつ、彼自身には数年掛けて王政府内での地歩を固めて貰わねばならない。この矛盾した要求を満たすために、地位や実権のないまま、政府の高官と直接顔を繋いで貰う必要があった。 もちろん、こちらの望む通りに彼は次々と会談をこなしていった。後ほど相対した各人から聞き取っていったが、専門外の問答にも過不足無く答えを返していたと言うから、アンリエッタも満足していた。彼の宰相就任が時期尚早なことは理解していたし、無理に登用せずとも、十分な貢献をしてくれるのならばそれでいいとも思っている。 しかし、世論がそれを見逃さなかった。 喧伝はしていなかったが秘してもいなかったことが災いし、数日して会談の事実が広まると、新宰相の誕生を望む声が一気に大きくなってしまったのである。 『鳥の骨』と世間に広く揶揄されている現宰相マザリーニであるが、トリステインの政治的命綱である彼の不人気振りたるや、アンリエッタの想像を遙かに超えていた。彼女への直接的な進言こそなかったが、今年中は押さえられそうだと思われていた時計の針は、大きく進んでしまうことになった。 数日して、返答不用と記してこちらとの接触を禁じたリシャールからの返事こそ無かったが、ラ・ヴァリエール公爵からの返書はマザリーニの元に届いていた。 「宰相、公爵は何と?」 「領地の整備と街道工事が軌道に乗る頃合いと称して仮の期限を切り、就任そのものを認めてしまうがよいかと仰られていますな。 代わりに今度は、アンリエッタ様の即位を早める方策を立てねばなりません」 「それは厳しそうね……」 何事もなければ、アンリエッタの即位は二十歳頃と見られていた。約四年を余しているところだが、宰相によればリシャールの方は稼げても二年、それ以上は厳しいらしい。街道工事の残りは六年に予備が二年でも、完遂が条件となるわけではなかった。 しかも……。 「市井にまで噂が広がっているとなると、更に厳しいところですな」 マザリーニの机に置かれた新聞には、セルフィーユ家の紋章とともに『新宰相の候補決定か!?』などと見出しが踊っている。市民には生活に影響ある一大事であり、また反面、丁度良い娯楽でもあった。 「とりあえず、これらを片付けてからもう少し話し合いましょうか」 「……そうね」 二人でため息をつくと、揃って政務を再開する。 王政府を悩ませている問題は、他にも山ほどあるのだ。 更に数日、沈静化を狙って『わたくしと同い年ですから、彼もまだ政治を学んでいる身』『将来は期待しているが、今すぐの登用はありませんわ』などとアンリエッタ自身も方々で口にしていたが、勢いのある噂というものは簡単には止まらない。貴族院からも正式な上申が届いており、彼女らを悩ませている。 ため息をつきながら半ば王太女執務室ともなりつつある宰相執務室でマザリーニと共に政務をこなしていると、財務卿のデムリが出ていってしばらく、高等法院長のリッシュモンが足を運んできた。 もちろん、そう珍しいことではない。爵位を持つ貴族が絡む調停などは全て報告されていたし、彼が預かる高等法院はトリステインの司法機関の頂点である。貴族の関わらぬ市井の風紀の取り締まりや、書物や演劇の検閲なども職掌の範疇であったから、そちらの方の仕事も忙しい。 「姫殿下にはご機嫌麗しゅう。 宰相も相変わらずお忙しいようですな」 「高等法院長、ご足労痛み入る」 「リッシュモン殿もご苦労様」 アンリエッタにとってはトリステインの司法を預けるに相応しい相手で、そのことについてはマザリーニも特に反論を述べなかった。行政を司る王政府と司法を預かる高等法院は対立することもしばしばだが、国政に対する観点が元から違うこの両者はそういう関係なのだと当事者達も理解している。 書類を前に難解な質疑を交わしていく二人を見て、アンリエッタはこの位置まで自分を高めなくてはと、気持ちを新たにした。 「宰相、この部屋にもう一つ机を増やされるのはいつ頃でしょうかな?」 「さて、机ごと譲るやも知れませんのでな、正式に決まるまでは二つで十分でしょう」 しばらくして粗方の仕事話は終わったのか、話題が変わった。リシャールのことだわと、アンリエッタは二人の話に注意を向けながら羽根ペンを走らせ続ける。 マザリーニはともかく、リッシュモンもリシャールの宰相就任は早すぎると意見を述べていた。彼は王政府へと早期にリシャールを引き込むことそのものには賛成であったが、十分に経験を積ませた十年後二十年後に、改めて宰相の器に相応しいかどうか見極めるべきだとも口にしている。アンリエッタももっともな意見だとは思うが、それでは遅い。 「ふむ、なんとか早期に決着を付けていただきたいところです。 政情の不安を抱えていては、どのような綻びになるとも限りませんぞ? ……私の耳にも色々と噂が入っておりましてな」 「ほう?」 「なんでもセルフィーユ伯爵の居城には、ゲルマニア貴族の娘が滞在しているそうで……。 無論、愛妻家と有名な伯爵のこと、籠絡されたりはなさらぬでしょうが、話を聞いてひやりとしましたぞ」 リシャールは何やってるのよと、アンリエッタは天井を仰いだ。夫人であるカトレアも一緒だろうから問題ないが、浮気と取られる可能性もあるのだ。もちろん、あのリシャールがカトレアを置いて浮気に走るなど、始祖に誓ってあり得ないとアンリエッタは知っていたが……。 「その後、その娘がトリステイン魔法学院への入学を志望しているとわかりまして、全くの杞憂と胸を撫で下ろしておったところです。 ……セルフィーユ伯爵のご領地はゲルマニアに接しておりますからな、あちらに領地ごと鞍替えなさったなどとなれば、トリステインに大打撃は必至」 「義父ラ・ヴァリエール公爵の手前もありましょうし、愛妻家と名高い伯爵にとっても慮外の疑われ方でしょうな」 そうね、ただの浮気話じゃないわねと、アンリエッタは自分の間違いに気付いた。 この『成立しなかった』浮気を政治的観点から眺めてみれば、実に複雑なことになる。ゲルマニアに通じたとも取れるし、リシャールにその気がなくとも、万が一子供でも出来ればセルフィーユ伯爵家の継承権を持つゲルマニア貴族が誕生してしまうのだ。 誰かは知らないが、その娘が魔法学院に入学したのも幸いだった。同じ浮気でも、逆にリシャールが籠絡して引き込んだようにさえ見える。 「ですが、トリステインから出て行って貰うのは、悪くない手でもありますな」 「ほう?」 「少なくとも、宰相就任の話は一時棚上げせざるを得ませんでしょう。 流石にこちらも頭を痛めておりましてな……」 何てことを言い出すのと、アンリエッタはまじまじとリッシュモンを見つめた。無茶な論法にも程があるし、冗談にしては酷すぎる。 だが彼女は、マザリーニに視線を向けて更に驚くことになった。 宰相はいつになく真面目な顔で、深く考え込んでいたのである。 少し詳しい話を聞きたいと、アンリエッタは茶を運ばせて人払いするよう側にいたアニエスに命じた。彼女も主人のことと複雑そうな表情をしていたが、余計なことは何も口にせず、本物の侍女に用件を伝えに行った。 やがて三人が部屋に残されると、アンリエッタが口火を切る。 「リッシュモン殿が仰るように、セルフィーユがゲルマニアの領地になって伯爵がゲルマニア貴族になれば、確かにトリステインの宰相に推されることはなくなるでしょうが……宰相、あなたは何故、それを冗談と受け取らなかったのかしら?」 「アンリエッタ様、それは高等法院長のご意見が、検討に値するものであったからです」 アンリエッタは話の飛びようについていけず、続けて頂戴と一言口にしてから黙り込んだ。 「無論、セルフィーユ伯爵をゲルマニアに売り飛ばす、ということではありませぬ。 伯爵を一時的に手の届かぬ国外に置くことは不可能ではないと、高等法院長は口にされたのです」 「その通りです。 誰が煽ったのやら、世論だけでなく貴族院や王政府にも動きがあり、放置も出来ぬ段階になっておりますが……私の考えるところ、姫殿下の御即位まで問題の棚上げを出来ぬわけではございませぬ。 ……姫殿下もクルデンホルフ大公国はご存じでしょう?」 「ええ、もちろん」 クルデンホルフ大公国はトリステインにとっては衛星国となる、トリステイン、ガリア、ゲルマニアの三国に国境を接する小国である。巧みな全方位外交と強大な資金力を背景に独立を維持し、小国ながら影響力は侮れない。 「では……そうですな。 姫殿下、クルデンホルフよりトリステインの庇護をなくしてから……財力を取り去り、空中装甲騎士団を解散させ、君主の爵位を数段落とせばどうなるか、お考えになって下さいませ」 「囲む国のいずれかに、吸収されてしまう……かしら?」 「はい、仰るとおりでございます」 リッシュモンはにこやかに首肯して、宰相へと向き直った。 「……如何ですかな、宰相?」 「答えを申してしまえば、早急にセルフィーユを独立させ……しかる後、望む時期に再併合する、ですな?」 アンリエッタは懐疑的な目で、二人を見た。 独立も簡単な話ではないだろうし、再併合などと都合の良いことが出来るのだろうか? セルフィーユの東に広がる幾つかのゲルマニア領には、過去トリステインの国土であった部分さえ含まれていた。国境紛争やその後の講和で失われた領地はともかく、独立の末に吸収された小国や都市国家もあったと、家庭教師に習った覚えがある。逆に東南部にはトリステインがゲルマニアからもぎ取った領土もあり、時に外交問題として王政府を悩ませることもしばしばだった。 「はい。 ……これでも私は高等法院長の身、古今の法だけでなく、国を越えた法とも言うべき条約や協定についても歴史共々学んでおりましてな。 まずはトリステインとセルフィーユのみについて、お話しするならばですな……。 独立は、さほど問題にならぬでしょう。……いや、出来ぬと言うべきですかな? 根回しは言うまでもなく必要ですが、伯爵が出奔を希望し、王家がそれを認めるならば、王政府も貴族院も、もちろん我が高等法院も、異を唱えるに根拠が薄うございます。 人事以前に聖なる契約の破棄なのですから、大方の世論を封じることは出来ましょう」 聖なる契約の破棄とは古い言い回しだが、主従の関係を解消するという意味である。 「再併合も、まあ難しくはありませんな。 独立国セルフィーユが頭を下げてトリステインに併合を持ちかけるならば、寛大なる慈悲でそれに応じれば良いだけです。 その頃、我が国には『女王陛下』もいらっしゃるでしょうし、これも予め伯爵の了承があれば、問題とはならぬでしょう」 確かに、当事者と謀った上での独立と併合ならば、騒ぎは最小限にくい止められるような気はした。それにリシャールは約束を守るだろうと、アンリエッタは知っている。 だが、事はトリステインだけの話では済まない。リッシュモンも、トリステインとセルフィーユのみについてと前置いた上で話をしていた。 「問題はその間、ゲルマニアが黙って見ているかどうか、ですのね」 「はい、アンリエッタ様もご存じでしょうが、セルフィーユと接するゲルマニアの皇帝アルブレヒト三世は、覇気と野心に富んだ人物として広く巷間に知られております」 「無論、彼の者の良心に期待するのは愚策ですぞ。予め再併合の時期まで伝え、協力を仰ぐというわけにもいきますまい。 逆手に取られる可能性の方が高いと言わざるを得ません」 「他にも対外的な名目も必要でしょうし、国内の世論も誘導せねばなりませんが、ゲルマニアを押さえ込めるならば、再併合時に下手な横槍が入ることは回避できますかな」 そのあたりですなと顔を見合わせる二人を、アンリエッタは物言いたげに見つめていた。 「リシャールを君主に、セルフィーユを独立国に。 時が来れば消えてしまう小さな国、ね……」 しばらくしてリッシュモンが執務室を辞した後も、アンリエッタは人払いを解かず、宰相と話を続けていた。 「……宰相、今のお話のように、そんなに都合良く国境線を引き直したり元に戻したり出来るものなのかしら?」 「まあ、にわか仕立てでは上手く行きませぬな。 高等法院長の論法には些か穴もありましたし、そのことは自覚しておったでしょう」 「そうなのですか?」 「はい。彼は話の最中、一度もラ・ヴァリエールの名を出しておりませぬ」 セルフィーユ家最大の後ろ盾、ラ・ヴァリエール家を簡単に説き伏せられるとはアンリエッタにも思えなかった。ある意味、最大の難所であろう。 「それに横槍も少々問題になりますかな。 むしろ期間を限ってゲルマニアを押さえ込むだけならば、話が簡単になるほどです。 例えば……そうですな、独立国とは言えトリステインの徹底的な保護が必要な衛星国であるならば、外交も関税の権利も取り上げて国家宰相としてこちらから人を送り込み、安全保障費としてこれまで通りに貢納金を上納させ、トリステインの王軍を駐留させてしまいましょうか。 これだけ手厚くすれば、まず五年はゲルマニアを押さえ込めましょう。……十年後はわかりませぬが、そもそもセルフィーユの独立を十年二十年も保たせる必要はありませんからな。 それこそ、雲行きが怪しくなれば前倒しで再併合してもよろしいでしょう」 「横槍は……他の大国?」 「はい、当該地より距離のあるアルビオン、ガリア、ロマリアは大国とは言え本来ならば話に加われませぬが……声高に余計なことを叫ばれて、引っかき回すぐらいのことはされかねません。 無論、トリステインも同じ事を行っておりますので、とやかくは言えませぬが、これも先に押さえておく必要がありますな」 「……酷いことね」 「まあ、当の国主が希望しておれば、干渉の排除は可能です。 こちらから別の問題を引き合いにして、強く推してやればいいでしょうな。 ガリアならばラグドリアン湖周辺の国境の治安など、ロマリアならば国内不安や貧民問題。 アルビオンは未だ内乱より落ち着いておりませぬ。こちらは余計な手を出さぬと約して、この件から手を引いて貰うのがよいでしょう。 代わりにこちらは他の交渉ごとにも使える札を、この一件に費やしてしまうのですが、さて……」 まだわかりにくい部分もあるが、何かにつけて国同士が足を引っ張り合うことはよくあるのだ。それに国内は落ち着くが外交は一歩後退、なるほど、都合のいい話ばかりではない。 「まだこの策を進めると決まったわけではありませんが、ラ・ヴァリエール公爵らにとっては大問題となりましょうし、知恵も借りたいところです。 セルフィーユ伯爵を宰相にと推す声は、日増しに強くなっておりますからな。本当に時間がないことだけは確かです。 ……公爵には話しておいてよいかもしれません。 それも秘密裏に、且つ大至急に、です」 「……わたくしが手紙を書きますわ」 アンリエッタは宰相執務室を小走りに出て、私室へと向かった。廊下で出待ちをしていたアニエスが慌てて後を追う。 ここには宰相の執務室であって、彼女が私信に使う透かしの入った王室御用達の便箋や、封蝋に必要な紋章入りの印章がないのだ。 アンリエッタが手紙を出して三日と置かず、ラ・ヴァリエール公爵は王都入りしていた。 但し、王城には顔を出していない。彼が堂々と城に出入りしては、またぞろ騒ぎが大きくなってしまう。 アンリエッタがマザリーニとアニエスを伴って公爵家の別邸に無紋の馬車で乗り付けたのは、夕闇もかなり暗くなってからのことだった。周囲を固める魔法衛士隊の騎士も、揃いのマントと羽根帽子を外して地味な装束に着替えさせるという念の入れようである。 「王都までお呼び立てして申し訳ありませんでしたわ、公爵」 「義息が王国をお騒がせしておりますこと、誠にご迷惑をお掛けします」 「それにエルランジェ伯も来て下さったのね」 「まあ、孫かわいさにしゃしゃり出てきた、というところでございます」 エルランジェ伯爵は王都に住まうから、公爵の別邸に足を運ぶのはそう難しいことではない。 貴人らの挨拶を見届けたアニエスは護衛を解き、静かに一礼していつものように部屋を出ようとしたが、アンリエッタがそれを止める。 「今日はあなたもここにいて、話を聞いていて頂戴。 ……場合によると、セルフィーユに行って貰う可能性もあるの。 あなたなら、リシャールにもすぐ取り付いてもらえるでしょう?」 「畏まりました、殿下」 頷いたアンリエッタは前置きすることなく、諸侯二人にセルフィーユの独立と再併合の話を切り出した。宰相が黙ってそれを見ていることから、この話はアンリエッタが仕切るのだと、公爵と伯爵は見て取った。 たっぷりと小一時間ほどをかけたアンリエッタの話が終わると、室内は沈黙に包まれた。 しばらくして、アンリエッタの目配せと仕草で合図受けたアニエスが、茶杯の入れ替えを伝えに行く。公爵家のメイド達が仕事を終えて再び退出するまで、誰も口を開こうとしなかった。 「わたくしね、この策そのものは悪くないと、思いかけていますの。 国内は少し騒ぎになると思うけれど……リシャールが独立を希望して、王家がそれを受け入れて出奔を許したなら、他者が口を挟むことはできません。 そして、本当なら最大の問題になるはずのリシャールは、トリステインから心変わりをしない。 追い出す側のわたくしが口にするのはおかしいけれど、戻ってきてって約束さえしていれば、彼はそれを裏切ったりしないでしょう?」 公爵と伯爵は、顔を見合わせてから頷いた。 きちんと信頼されているのねと、少し笑顔になったアンリエッタは先を続けた。 「期間も四、五年、わたくしの即位直後に呼び戻す予定で、先に少し触れたように五年ならばゲルマニアからも守りきれます。 その他の国からの干渉は……アルビオンは恐らく余裕がありません。 ガリアとロマリアは少し騒ぐかも知れませんが、交渉の材料はあります」 宰相が小さく頷いて、諸侯達に肯定して見せた。 「わたくしね、リシャールが独立国の君主になるかもと考えたとき、少しだけ、楽しいと思ってしまったのです。 もちろん、リシャールが戻ってくれるとわかっているからこそ、ですけれどね」 突然の独白に、三人は口を挟めなかった。 「……セルフィーユにはトリステインの大使館を置いて、毎週船便で届く報告書には、彼の行う奇抜な、でもとても洗練された政策やその顛末が書かれている。わたくしは、その報告書の到着をすごく楽しみにすると思います。くびきとしがらみを解かれたリシャールは、それこそ好き勝手するでしょう? リシャールに振り回されて、みんな大変だわ。でもたぶん、彼も領民も、その大変な仕事を笑顔でこなしていきそうな気がするの。 ……アルビオンに行ったときだったかしら、一度だけ、セルフィーユの街を馬車から見たことがありますわ。 出発が一日遅れると聞いて、馬車を借りて街に出ましたの。ほんとに小さい街よ、ゆっくり往復しても一時間はかからなかった。 でも、ハガルの月の寒い時期だというのに、トリスタニアよりも活気があるように見えましたわ。 今はどうかしら? ……わたくし、その頃よりもっと活気があるんじゃないかって思いますの」 ゆっくりと卓上を見回したアンリエッタは、大きくため息をついた。 「でも、これだけ良い条件が揃っていると……何か大きな落とし穴がありそうな気がして、それに気付かないまま歩いてしまいそうだと思いますの。 ……ですからこのお話の悪いところを見つけて、徹底的に討論して頂戴。もちろん、わたくしも加わります。 それでもなお、リシャールが早期に宰相となるより、このお話を進める方がよいと結論が出たなら」 アンリエッタは王太女らしく、まっすぐに切り込んだ。 「わたくしと王国は、セルフィーユの独立と再併合という札を切ります」 翌日の明け方、ラ・ヴァリエール公爵家別邸を出る馬車の中で、アンリエッタは丸一晩掛かった話し合いを思い出していた。 意外にもまず、ラ・ヴァリエール公爵が賛成に回った。 このまま宰相となって使い潰される現状よりは、独立国を維持する間に領内をまとめ上げさせ、後にリシャールが中央へと出ても国許で騒ぎが起こらぬよう布石を打たせる期間としても使えばいいと、彼は片眼鏡を光らせた。属国ながらも国を一つまとめるのだから、あ奴も苦手な国家の外交や貴族の社交を学ばねばならんでしょうなとさえ口にしている。アンリエッタらの失態については、一言も口にしなかった。 公爵はもう一つ、万が一状況が許さず、あ奴が戻ってこなければどうされるのかと、アンリエッタに問うた。その時は本物の独立国と認め、トリステインの頼もしき盟友とすると、彼女は胸を張って宣言した。 エルランジェ伯爵は消極的ながらお飾りの宰相になるよりはましと賛成、むしろマザリーニの方が反対を唱えて議論に突入する場面が多かった。 問題は国外よりも国内、貴族院の押さえや世論の誘導と結論付けられた。見え見えの時間稼ぎにつけ込まれることは、何としてでも避けねばならない。 基本の筋書きも決まった。 表向きには、アンリエッタは即位を控える身で、これ以上国内を騒々しくされては悪影響が出る事は必至、セルフィーユ伯爵は世を騒がせた身を恥じて出奔を望んでいるが、当人の人格と忠誠と能力に疑いはなくその事績と行為は賞されるもので、王家は彼の者の出奔を認め、同時に寛大なる慈悲と厚情を以て伯爵の領地を安堵し、セルフィーユを独立国として承認する。 裏側では、実質的に属領のままでありいつでもトリステインに復帰させられること、あるいは、相手によっては国政を学ぶ場として本人の領地を実験場とするには構わぬ故に許可をしたということにして、ごねそうな幾人かを説得して回ることになるだろう。 逆に併合時には、アンリエッタ女王がセルフィーユ伯爵を説得し、セルフィーユ伯爵はアンリエッタ女王に首を垂れて併合を望むという、どこか演劇じみたやりとりがなされる予定だった。 次の話し合いは来週、それまでに新しい補強策や問題解決の糸口を探すことを約束する。 一番最後に、ゲルマニアへの牽制も兼ねて侯爵位ぐらいは前渡ししておこうかしらと、アンリエッタは口にした。彼の爵位が年に一つ上がるのは、もはや恒例となりつつある。独立に比べれば、周囲もリシャールも大して驚かないだろうと、皆で笑った。 まだ暗い中、馬車が王城へと入っていく。 流石にお忍びとは言っても王太女の使う馬車、出入り禁止のはずの夜間でも門はわざわざ開けられるし、誰何に呼び止められることもない。 「ねえ、アニエス」 「はい、殿下?」 「セルフィーユの独立と聞いて、あなたはどう思った?」 アニエスは少しだけ考えて、胸中をそのまま口にした。 「……最初に浮かんだのは、領主様の引きつったお顔でした」 「……そうね、リシャールはまだ何も知らないのよね」 はあっと大きなため息をついて、アンリエッタは額を押さえた。 ←PREV INDEX NEXT→ |