ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
挿話その三「真実への選択肢」




 ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドは優秀なメイジであるとともに、多忙でも知られる。
 そもそも激務で知られる魔法衛士隊の隊長が暇なはずもないのだが、更には地方諸侯として子爵の地位にある彼は、家臣を代官に仕立てて領地を任せきりにしていなければ職務に支障を来していたことだろう。同じ諸侯の家柄でも、領地を継ぐ前の公子や領地を継がない次男三男の勤務先としては花形ではあっても、通常は領地の経営に重きを置かざるを得ない当主の魔法衛士隊への所属は異色とも言える。
 精神を病んでいた母の死がきっかけであったのか、彼は十二の歳より修行一筋に己の腕を磨き続け、その後に起きた父の死も顧みることなく武の道を歩み続けていた。
 転機は二十歳の頃であっただろうか。
 母の日記に遺されていた記述に、彼の人生は大きな変革を迎えることになった。
 『ジャン・ジャック、聖地を目指すのよ』
 気の狂った母親が繰り返したその言葉の意味に気付くのが遅すぎたのか、あるいは事が起きる前にその真の意味に気付けたのか。
 足がかりは幾つか掴んでいた。
 だが、未だ答えは出せていない。……いや、たどり着けてはいなかった。

 二日酔いとは言わぬが少々重くなった頭を振って、ワルドはベッドから身を起こした。従卒や従者は雇っても無駄になるほど仕事時間が一定せず、部屋の掃除や洗濯物だけを下働きに任せていたから、危急でもない限り誰かに起こされることはない。
 非番故に登城の必要こそないが、夜着のまま居間に向かい、眠気覚ましに冬の室温に冷えたワインを瓶のまま煽る姿は余人に見せられたものではなかった。
「……」
 昨夜は何を話したかと、しばし反芻する。
 次期宰相とも噂される少年の実力はいかほどのものかと、軽い気持ちで話題を振ってみたのが良かったのか悪かったのか……。
 勢いのままに内心をセルフィーユ伯爵へと吐露してしまったような気もしたが、それは向こうも同じ事。問題になれば、酒席での戯れととぼけても良いだろう。
 胸元のペンダントをしばし握りしめ、心を落ち着ける。そこには亡き母の細密画が収められていた。
「第三の選択肢とは……セルフィーユ伯爵、困ったことをしてくれたものだ」
 窓から入ってくる朝日に目を細め、ワルドは大きく重い様子で肺の中身を吐き出した。

 まとまらない考えに頭を悩ませながらも朝食をすませ、貴族に見えなくもないほどの軽い服装に着替えた彼は、非番を幸いに宿舎を出て街区を歩き出した。
 平素昼日中に出歩く事はまずないが、王族の巡幸やパレードなどで時には市中を警備区域とすることもあって、市街地の地図はほぼ頭の中に入っている。迷うような不手際はない。
 エルフとの接点など雲を掴むような話で探しようもないが、それでも幾つか思いつきを試してみることにしたワルドであった。商人上がりと影で揶揄されるセルフィーユ伯爵にあやかろうとしたわけではないが、このハルケギニアで平素から国を跨いで移動する人々と言えば商人、次いで船乗りと相場は決まっている。
 ワルドはトリスタニアでも一番の繁華街であるブルドンネ街をしばらく歩き、市中を警備する衛士詰め所の手前で折れて狭い路地の奥を目指した。
 旅商人を尋ねて露天が並ぶ市場の方へと足を向けなかったのは、エルフの名を出して市中で目立つことを避ける故である。それに店持ちの商人も仕入れをせぬわけには行かぬだろうし、扱う品によっては国外とも取引はあろう。
 汚い水たまりを避けながら辻を曲がると、雑多な店が看板を並べている。ワルドはそのうちの一軒に入っていった。軒先には、屋号の掘り文字と共に薬瓶の形をした金属板が下がっている。
「……らっしゃい」
 地味な前掛けを付けた老店主に片手を挙げ、客であることを態度で示す。
 ここは裏通りに位置しながらも、トリスタニア市中でも指折りの、ありとあらゆる秘薬を扱う老舗だった。店主の後ろに並んだ棚は、王都でも一、二を争う品揃えを誇るとの評判を裏付けるのに十分な迫力を醸し出している。
「店主」
「……へい」
「この店では、取り寄せも含めてどの程度まで特殊なものを扱っている?」
「足の極端に短い物と季節物以外、大抵のものは」
「研究対象にしたいので種類や効果までは問わないが……」
「……具体的には?」
「エルフの作った秘薬が欲しい」
 店主の視線がぎろりと動き、驚いたという様子でワルドを見据える。
「……店を継いで四十年、エルフの名を出して品を尋ねたのはあんたで二人目だよ。
 残念ながら扱っていないがな」
「そうか。……邪魔をしたな」
 偽物を出してきて小銭をかすめ取るような店でないことだけは確認できたが、どうやらここは無駄足だったらしい。
 だが、去り際にふと気になったワルドは店主に振り返った。
「一人目はどんな奴だったんだ?」
「……何とかいう公爵様の使いで、エルフの秘薬でもなんでもいいから不治の病を治す薬はないかときたもんだ」
「……」
「幾ら金に糸目をつけないと言われたところで、うちは仕入れようのない秘薬を二つ返事で客の前に出せるほど始祖に祝福された店じゃないんでな」
 ワルドには、その公爵に心当たりがあった。

 更に数軒の秘薬屋を尋ね歩き、同じように肩すかしを食らった……というよりは、トリスタニア市中ではエルフ由来の秘薬は扱われていないという確認を取っただけで、結果は半ば予想したとおりでもあり、気分にも大きな変化はない。
 昼食を挟み、続けて向かったのは、工芸品や輸入雑貨を扱う店だった。扉をくぐる前に出窓の中を見やれば、必要以上に凝った意匠の花瓶やこまかい細工のついた行李、何に使うのかよくわからない道具類などが所狭しと並んでいる。
「いらしゃいませ、旦那様。
 本日はどのようなものをお求めで?」
「見舞いの品を探していてな、大きさや種類に拘りはないが、異国情緒溢れる珍しい品があるならば、そちらを見せて貰いたい。
 贈る相手は旅行の好きなご老体なんだが、臥せっておられてな……」
「店主に尋ねて参ります、しばしお待ちを」
 若い店員と入れ代わりに、奥まった作業場より店主らしき男が手ぬぐいをつかいながら現れた。
「どちらかご希望はございますか?
 手前は丁度、ロマリアはアクイレイア産のガラス細工を磨いておりましたところです。
 お勧めでございますよ?」
 奥を手で示されそちらを見れば、なかなかに見事な細工物が作業台の上に鎮座している。だが、ワルドの目的はそれではないので首を横に振った。
「北はアルビオンから南はロマリアまで、大概の場所は行かれたと聞いているのでね。
 ……砂漠の向こうにいるエルフの作りし品や、ロバ・アル・カリイエ産の品などはあるかね?
 流石にそちらまで足を伸ばされたことはないだろうから、良い手慰みになることと確信している」
「ふむ……。エルフの手による品などは手前共も扱ったことはございませんが、東の果てのものならば時には手に入りますな。
 ……少々失礼」
 さて、この店はどうだろうかと、ワルドは店主の背中を皮肉を込めて見やった。
「お待たせいたしました」
 奥にとって返した店主は、それほど大きくない木箱を大事そうに抱えて戻ってきた。見台の上で紐が解かれると、中には濃緑一色で染められた、先の尖った五角形の布袋が収められている。袋の留め具をぱちんと外した店主は、中身を取り出してワルドに示した。
「なんだこれは……折り畳みの出来る農具か!?」
「はい、数日前に入荷しましたもので。
 おそらくは土を掘る円匙であろうと思われます」
 これは明らかにハルケギニアのどこかで作られた物ではないと、ワルドにも初見から理解できた。この精密な仕掛け、合わせ目の見事さ、そして使われている金属の質。……ロバ・アル・カリイエの民は、土匙ひとつに何をここまでこだわるのか。ワルドは当初の目的を忘れ、半ば本気で首を捻っている自分に気付いてそれらを脳裏から追い出した。

 畳まれている円匙の大きさは二十サント四方ほどで、実際に使われたことがあるのか表面は傷だらけだった。柄や持ち手も含め全てが金属で出来ていて、何故か匙部の片側にだけ波状に溝が掘られており、全体が黒一色のつや消し塗料で塗られている。
 リシャールが見ればアウトドア愛好者や登山家、あるいは軍隊が使う折り畳み式のスコップだと一目でわかっただろうが、ワルドにも店主にも、土匙だとは見て取れてもいくつか不可解な点があった。

「店主、東方ではこのように……農具を折り畳んで何をしようと言うのだろう?
 確かに持ち運びにも収納にも便利だろうが……」
「手前にも量りかねますな……。
 確かに作りから見ても、農家が使うには過ぎた品であろうとは思います。
 しかし……貴族様なら農具が必要なら従者にでも運ばせればよいでしょうし、杖を持つ方々ならそれこそ匙を持ち歩く手間を掛けずとも、穴の一つや二つはすぐに掘れるはず。
 第一、かように短い柄では使いにくくて仕方ありませぬ」
 店主はかちゃりと柄を伸ばし、留め具になっているらしい根本の回し手を締め込んだ。全体の長さは六十サントほどになって、ワルドの目にも間違いなく土を掘る匙に見える。
「ここまでの精密な工夫が施されているにしては、黒一色などと地味な塗りで……あちらではこれが王侯貴族の色などとも言われていますが、確かめようもありませぬ」
 店主はワルドに匙を手渡した。中空になっているのか、見た目よりもずいぶんと軽い。
「しかしこれ一つ作るのに、一体何人の錬金魔術師と金属細工師が関わったのやら……。
 と、まあ……使い道はほぼありませぬが、幾らでも話の種になることだけは間違いございませぬ」
 実用に供するには使いにくく、形が土匙では貴族屋敷の飾り物にも出来ぬのだろう、店主はワルドの想像していた値付けよりも幾らか安い金額を提示して一礼した。

 翌日、ワルドは本来の仕事である警備は部下に任せ、気になることがあるのでと表向きの理由を別に仕立てて城の資料室へと足を向けた。
 前夜は買い取った土匙をあれこれと矯めつ眇めつしていたので、少々寝不足なワルドである。無駄金になったとは思わないが、残念なことに聖地への手がかりにはならなかった。店主も行商人が持ち込んできた怪しげなものの中からこれぞと思う品を目端を利かせて買い取るだけで、東方の産品について確とした仕入先は持っていないのだという。きっかけにはなったが、誰かに売るか譲るかしてしまっていいかもしれない。それこそセルフィーユ伯爵ならば、喜んで引き取ってくれそうな気もした。
「魔法衛士隊グリフォン隊、隊長のワルドだ。
 ……閲覧の許可は必要か?」
「失礼しました、許可は不用です」
 入り口で誰何に答えて入室の目的を告げ、案内を付けて貰う。
 城の資料室は、数千年分のありとあらゆる記録を蓄えた巨大な書庫である。
 比較的整理されているのは年代までで、司書も案内に迷うことはないが中身までは良く知らぬとのことだった。王立の図書館は別にあるが、そちらはそちらで本の幽霊が出るだの勝手に蔵書が増えるだの、違った意味で怪しげな事になっているらしい。
「対エルフ戦の研究など不用になればいいのだが、時間のあるうちに思いついたことを片付けておきたくてね」
「ははあ、なるほど」
「全てに備えておくのもまた、魔法衛士隊の仕事だろう?
 まあ、強敵への対処法そのものは無駄にならないさ」
「はい、隊長殿。
 ……ああ、こちらです。
 年代別になっておりますので少し離れた場所にも幾つかまとまっておりますから、こちらの棚に御必要なものが見あたらなければ、また新たな棚にご案内致します」
 一礼した司書は、ここは六百年ほど前の一番新しい聖戦の資料ですと棚の幾つかを指し示した。報告書をまとめて分厚い綴じ本としているそれらは、古ぼけてはいるが背表紙が読みとれないこともない。
 これまでも幾度か足を運んで聖地の手がかりやエルフについて調べたことはあったが、エルフとの交渉事の記録という視点でそれらを眺めたことはなかった。
 案内された棚の近く、ランプの下に椅子を持ち込んで居場所を確保する。殆どが戦闘についてのみが記された資料だが、以前見た資料では『蛮人め!』などとエルフが罵倒してきたという記述も見受けられたから、少なくとも言葉が通じることはワルドも知っていた。
 だが交渉ともなると、そう簡単ではないらしい。
 記録によれば大昔の聖地回復連合軍が勝手に決めた国境線に対し、数百年の争いの後にエルフ側がそれをしぶしぶと認めたようで、交渉が行われたような資料は一つとして見あたらなかった。その後落ち着いてからは聖戦も宣言されず、ここ数百年間はエルフと人間の間に大きな争いはない。
 それにしても、エルフの勢力圏は遠かった。ガリアの一番端にある古戦場アーハンブラからそのまだ向こう、東に広がる砂漠の果てにその場所は存在した。昔見た絵入りの戦史地図では人間側の勇者や聖者ばかりを強調していたが、僅かな土地を得るために敵の五倍もの死者を出し、砦を攻めては十倍の兵士が倒れと、その殆どが実質負け戦であったことは既に知っている。
「長丁場になるのだろうな」
 ワルドは椅子に深くもたれると、手に取った冊子を再びめくり始めた。

 以来数日、ワルドは仕事半分資料室半分の忙しい生活を送っていた。
 資料を持ち帰ることが出来るのならば風の偏在を仕立てて片っ端から処理したいところだったが、それらは禁帯出な上に、城の資料庫では読書に必要な灯りや高い位置への飛行以外の理由で杖を振るうなど御法度である。堂々と入室が許されて、仕事中に資料が読めるだけましと考えた方がいいだろう。いざとなれば躊躇わぬだけの覚悟はあったが、今はまだ自ら騒ぎを起こすような下策をとる必要はなかった。
 古い方へ古い方へと遡っていくため、当然ながら資料に記されている文字や文法は読み進めて棚が代わる度に古い言い回しへと向かう。完全な古語となったあたりで続行不可能としたワルドは、資料庫での捜索を打ち切った。

 更に数日後。
 もやもやとしたものを内に抱えながら、ワルドは書類仕事をこなしていた。演習費用の上申に隊員への支給品の手配と、基本的には担当の部下任せの書類ではあっても、必ず隊長の元へと巡ってくるものだ。特に今の時期は年の瀬で、本来の職務である警備に穴を開けるわけにも行かず、しわ寄せが及んでせっつかれることも多い。
 魔法の自動人形のように書類をめくってはサインを入れる作業には、とうの昔に飽いていた。
 合間に考えるのは聖地のこと、虚無のことである。

 聖地も虚無も、その名そのものはハルケギニアにあまねく知られている言葉である。
 聖地は学生でさえも王国史の授業で習うし、教会でブリミル教の坊主共が行う講話にも出てくる。過去の聖戦に参加した先祖の手柄話として、家で教わることもあるだろう。ワルドの家にもそれは伝わっていた。
 虚無の方はもっと簡単だ。使い魔を喚ぶ呪文にも織り込まれているし、魔法を象徴する五芒星の一角を占めている。
 王軍の元帥にも匹敵する近衛の魔法衛士隊長としての立場は、ワルドが個人的に行っていた聖地の情報収集にも大きな影響力を持っていた。だが、いかに始祖の血を継ぐトリステインとは言っても、ハルケギニアを見渡せば小国よりは幾らかましという程度の国力しかない。歴史と伝統だけは古いが、冷静に俯瞰すればそんなものだ。聖地回復連合軍の主体はエルフと国の境を接する大国ガリアや教皇を戴いて聖戦を発動するロマリアで、力の入れ具合からして違っていた。同時に国が得た戦果と共に情報も少なかったろうと後になって気づき、嘆息したものである。
 『聖地を目指すのよ』と繰り返した母の言葉、その向こう側にあるものは未だワルドの想像の向こうにあった。母の遺した研究資料や手記からは、恐ろしいものだということまでしかわからない。
 虚無に行き当たったのは、偶然ではなかった。始祖ブリミルの遺した足跡を調べれば、聖地と共にその魔法にも辿り着く。始祖と聖地を結ぶ糸になるのではとあたりをつけたワルドは、虚無のことも調査し始めた。
 真実、根源、万物の祖となる、零番目の系統『虚無』。
 だが、ワルドだけでなくハルケギニアに暮らすメイジが良く知る、火地風水の要素を持つ魔法とは全く別種の魔法……ということまでは割と簡単に調べが着いたものの、そこから先はふっつりと途切れていた。探そうにも使い手はどこにも見あたらず、王家の秘宝『始祖の祈祷書』などは本物が城にあるとわかっていても閲覧が許される品ではないし、各地に伝わる写本の類も、調べをつけた十冊ほどの全てが偽典と確かめている。
 こちらはこちらで失われし系統だけあって、資料そのものが少ないのだ。
 その様な中でも、始祖ブリミルが行使したという魔法群についての伝説は幾つか伝わっていたが、伝聞を経て脚色され続けたにしてもそれらは系統魔法での再現などおよそ不可能な領域を示していた。強力な魔法は言うに及ばず、使い魔でさえ千人の軍隊を退けたという。
 だが、現代まで伝わっているのはその凄まじさだけで、具体的な呪文やその効果などはすっぽりと抜けていた。
 しかし。
 数ヶ月前、そこに一つの光明が差し込んだ。
 ワルドは立場上、王国を守るために組まれた裏の仕事の幾つかと関わっていたが、そのうちの貴族の名誉や利権を守るための汚れ仕事でいくらかつき合いの出来ていた高等法院長リッシュモンから、とある誘いがあったのだ。
 隣国で起きる予定となっている叛乱への、支援と助力を請われたのである。リッシュモンの語った内容は美辞麗句で飾られてはいたが、先代国王はアルビオンの王子でテューダー家の出身、次期女王アンリエッタも皇太子と恋仲で、ここで禍根を断って置かねばこのままアルビオン王家にトリステイン王家が乗っ取られてしまうと云った話であった。そのこと自体には大して感銘も受けなかったが、続けて告げられた一言には、ワルドも心を揺さぶられてしまったのだ。

『子爵殿、貴族連合レコン・キスタの盟主オリバー・クロムウェル議長は失われた虚無魔法の使い手でしてな、元は地方の司教であったが信仰心に厚く、なんでも聖地の回復を掲げてハルケギニア中よりあまねく賛同者を募っておられるとか……。
 虚無の血筋は王家の血筋、つまりは正統なるアルビオンの後継者が正統なる地位に復権するだけの話ですな』

 続けて、伯爵への陞爵と領地の加増についても貴族院に一筆入れさせて戴くなどとも聞こえてきたが、その様なことはどうでもいい。
 聖地に行けるかどうか、また母の求めていたものをその目で確かめることが出来るのかが最大の問題であった。
 だが……その後も一、二度誘いはあったが、この魅力的な提案に対してワルドは未だ返事を保留していた。
 レコン・キスタの叛乱は確かに起きたが成功するかどうかにも懐疑的であったし、今になって使い手が現れたというのも眉唾だ。話を持ってきたリッシュモンにしても、謹厳実直に見えて裏では長年相当あくどいことを続けてきた策謀家であることをワルドは良く知っていた。
 それに、この腐敗した祖国を裏切ることや万が一の場合に領地や家名を捨てること、いわゆる貴族の本懐には既に執着もなくなっていたが、愚物の囁きに踊らされて泥を被ることだけは、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドの内に秘めたる矜持に賭けて許せることではなかったのである。

 処理の終わった書類を意味もなく睨みながら、ワルドは更に考え込んでいた。
 魔法衛士隊の隊長という職は、聖地や虚無について調べるのに幾らか便利ではあっても、仕事は面倒で自由に出来る時間も極端に短い。名誉や権勢といった余録は二の次だ。最近は調べ物が行き詰まっていることもあり、どうにも引き合わないと感じることも多かった。
 瞑目して椅子に背を預けると、胸元のペンダントに手をやる。
 ……自分は何を求め、何を為したいのか。
 眼前に現れ来る選択肢より本当に必要なたった一つを選び取ること、それだけが今のワルドを満たしてくれるのだろう。その一点だけは、決して見誤ってはならない。 
「失礼します!」
 隊の預かりになっている騎士見習いの少年が、ワルドの仕事部屋に駆け込んできた。考え事をしている間に随分と時間が経っていたようだ。
「なんだ?」
「高等法院長殿の使いが隊長を訪ねて参っております」
「ああ、通してくれ。
 ……領地のことについて、リッシュモン殿に相談を持ちかけていたのでな。
 私事になるので人払いを頼む」
「了解!」
 ほどなく案内されてきたのは、従者のなりをした中年の男である。前にも一度尋ねてきただろうか。
「失礼いたします」
「うむ、ご苦労」
「こちらを預かって参りました。
 お確かめ下さい」
 封蝋のされた手紙を恭しく差し出されると、ワルドは受け取ってすぐに中身を改めた。
 今夜か明夜、時間があればこちらを尋ねて欲しいといったような話が書かれている。そろそろこちらの方にも答えを出さなくてはならないらしい。内心は表情に出さず、頷くに留める。
「もしその場でお返事を戴けるご様子なら、そちらもお預かりしてくるようにと主人より命ぜられております」
「……しばし時間を頂戴しよう」
 文箱を取り出して短い手紙を書き付けると、渡された物と同じように封蝋して男に示す。
「明日お伺いしたいと、リッシュモン殿にお伝えしてくれ」
「承りました」
 男を帰したワルドは、書類束を放り出して登城の準備を始めた。
 城の夜警は魔法衛士隊各隊の持ち回りとされているが、本日はグリフォン隊に任されていたのである。

 翌日、昼間一杯を睡眠に費やして体を休めると、ワルドは正装には少し足りない程度に服装を整え、高等法院長リッシュモンの屋敷を尋ねていた。
 丁寧に迎え入れられると、そのまま客間へ通される。
「しばらくでしたな、子爵殿」
「高等法院長殿もお元気そうで」
 既に腹は括っている。選び取るのが遅すぎたぐらいだと、ワルドは自嘲気味に笑みを浮かべた。
 腹の探り合いと取れなくもない不毛な会話を重ねることしばらく、茶杯が下げられて酒杯と入れ替えられる。
 ワルドは琥珀色の酒を一口含んで舌を転がし、白の国は西部の仕込み、それも最低十年は寝かされた上物のようだとあたりをつけた。アルビオンの叛乱を支援する彼の元には、アルビオンの酒がよく届くのだろう。皮肉なものである。
「そういえば先日、セルフィーユ子爵……いや、伯爵とも酒杯を交わされたそうですな?」
「よくご存じで」
 飲まないかと誘ったのはワルドで場所も城内の廊下であったから隠しようもないのだが、ご苦労なことに誰かがリッシュモンに注進したらしい。
「若いながらもなかなかの知恵者と、私の周りでも評判になっておりますのでな。
 王太女殿下の覚えもめでたく、近年希にみる逸材で次期宰相に名が挙がるほどとか……。
 子爵殿の目から見て、如何でしたかな?」
 ワルドはリッシュモンの目を見て、セルフィーユ伯爵が何かやらかしたらしいと確信した。あるいは次の獲物として、落とし穴か釣り罠でも仕掛けられようとしているのか。
 どちらにしても、この老練な策謀家を動かそうと言うのだから大した少年だ。
 だが脇の甘いところを守りきれるならば、リッシュモンの鋭い牙をくぐり抜けて意外とよい勝負をするのではないかとも思える。
 実際に杖を交えたわけでもなく場所も安酒場であったが、現にワルドは少年の何気ない一言に『してやられた』のだ。無論、彼はワルドを陥れようとしたのでもなければ、喧嘩を売ってきたわけでもない。しかし、あの場でのやり取りを戦場や決闘に置き換えれば、実質的には敗北と言ってよかった。
 さて、ワルドを大きく揺さぶったこの両者だが、実に対照的だ。

 長年に渡って法院を取り仕切り、トリステインの中枢だけでなく国外とも太くて暗い繋がりを持つ策謀家、老獪なる獅子リッシュモン。

 表舞台に出てわずか数年で未来の宰相と噂されるまでに頭角を現し、王太女殿下どころか王后陛下の庇護さえ引き出す、若き竜セルフィーユ伯爵。

 今後のトリステインの行く末さえ決めてしまいそうな、この両者の争いを間近で眺めたくもあるが……自分が何を求め、何を為したいのかを考えれば、自ずと答えは導かれるものだ。それはまたの機会に譲ることにするべきだった。
「……若いながらもなかなかの知恵者という部分には、大いに頷けます。
 それに少なくとも酒の味……安酒と銘酒の違いをわかっておられることだけは確かでしたな」
 巻き込まれては面倒だと、ワルドは他愛もないことを口にした。
「おや、あまりご興味がないご様子ですな?
 子爵殿には義兄になるやもしれぬ相手と小耳に挟んでおりましたのに……まあ、それはよいでしょう」
 リッシュモンは居住まいを正すと、値踏みするようにワルドを睥睨した。
 沈黙が流れる間にも、その不快さは益々と強くなってくる。
 だが、ワルドも目の前の男から視線を逸らさなかった。
「先日ご相談申し上げたお話、十分ご検討いただいたかと思うが……。
 子爵……いや『伯爵』殿、ご返答をお伺いしてもよろしいかな?」
 しばし瞑目した後、ワルドはにやりと微笑んで自らの選択を口にした。


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