ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第二十三話「一国の主」




「まだ正式な公表はなされていないが……。
 トリステイン王家はアンリエッタ王太女殿下の御名に於いて、リシャール・ド・セルフィーユの出奔とセルフィーユ『侯国』の建国を許すと決断した」

「……」
 それはまた酷い話だなと、リシャールは他人事のように義父公爵の宣告を聞いた。ラ・ラメー艦長をはじめ、『ドラゴン・デュ・テーレ』の司令室にいた士官たちもぽかんと口を開けている。恐らくは、自分も似たような顔をしていることだろう。
「どうした、喜ばぬのか?
 ……とんでもない出世だぞ?」
 口調とは裏腹に公爵も複雑な表情をしていたが、不思議とそれほどの深刻さはない。既にこの一報をあらゆる角度から吟味しているか、あるいはその成立に深く関わっていた故の余裕だろうか。
 だが、どうしたものかと考えようにも材料が少なすぎるし、リシャールも宰相や閣僚に任じられたときの対処や行うべき施策は幾らか用意していたが、トリステインからほっぽり出されるのは予想外だった。
「間もなくドーピニエ上空!」
「仕事だぞ、行ってこい」
「……あ、はい」
 任務に忠実な水兵の報告に、詳しい話は後で聞くかとリシャールは司令所を後にした。
 実際、頭が着いていかなかったのだ。

 ドーピニエで一杯引っかけてフネに戻る頃には、多少頭が冷えていた。感謝祭を祝した乾杯は、全ての村でついてまわる。今はそれがありがたかった。
「アーシャ、どうしようか……」
「きゅい……?」
 トリステインの宰相とセルフィーユ『侯国』の国主、はてさて、どちらがましかと考えれば、どちらも微妙なところであった。ああ、侯国ということは、またしても陞爵するのかと、動いていない頭を無理矢理に動かす。
 それに、公爵が司令室にいた面々にも聞こえるように話をしたと言うことは、その程度には中身が決まっているのだろう。極秘の段階は、既に越えているとみて間違いない。
 『ドラゴン・デュ・テーレ』にアーシャを降ろすと、リシャール再び司令室で義父と相対した。

「アンリエッタ様や鳥の骨とは幾度も話し合ったが……時間稼ぎにしては規模も話題性も大きいが、お主もセルフィーユもトリステインも、基本的には何も変わらぬ」
 移動の合間を利用して、途切れ途切れに公爵の話は続く。水兵は追い出され、室内には士官だけが残された。
「お主はしばらくの間セルフィーユ侯国の国主として国を治めるが、安心せよ、四、五年の後、アンリエッタ様が即位された直後にセルフィーユがトリステインへと再併合される予定が組まれている。
 少なくとも、これでここ最近大きな噂になっていた、お主の宰相就任の話は封殺されるだろう。お主が他国の国主では、並大抵の理由では宰相として推挙されることもなかろうよ。……戻ってきた後は、まあ、しっかり働け」
 にやっと笑って、公爵は先ほどよりも酷いことを口にした。だが再併合と聞いて、リシャールも胸を撫で下ろす。トリステインから完全に切り捨てられるわけではなかったのだ。
「独立国への根回しはもう始まっておるが、先週末の段階でデムリ財務卿、ラ・ゲール外務卿、リッシュモン高等法院長らが賛同に回った。
 ……ちなみに首謀者は、アンリエッタ殿下と鳥の骨だ」
 指折り数える義父だが、たぶん、首謀者からラ・ヴァリエール公爵の名が抜けている。
「貴族院まわりにも秘密裏に交渉が為されている。……まあ、こちらは元から期待はしておらんし、交渉そのものが時間稼ぎになればよい。
 事態の沈静化を図りたい王太女殿下が仲立ちして、セルフィーユ伯の封じ込めによる問題の一時棚上げを以て両者手打ち、当のセルフィーユ伯には口封じとゲルマニアへの牽制を兼ねて陞爵という筋書きだが、どちらにせよ来週か再来週あたり、お主の陞爵が発表されてからが本番だな。
 その後陞爵式まで少し時間を稼ぎ国内を落ち着かせたその後、セルフィーユ独立の噂が流される。
 今度は諸外国の反応も含めた情報合戦となろうが、大国の横槍を押さえる手筈も整えてあるし、社交界だけでなく市井の方にも手を回す。
 噂も落ち着かせ、意見の調整を済ませた頃を見計らって、もう一度王城に呼ばれよう。
 それで晴れて、お主は一国の君主だ」
 簡単に言うなあと、リシャールは義父を見上げた。
 人口数千の小国など吹けば飛びそうな気もするし、伯爵でもいらないなと思っているところに今度は侯爵で国主ときた。本当のところ、傀儡の宰相と属国の国主は果たしてどちらがましなのか、現在その職にあるマザリーニも交えて話し合いたいところである。
「だがな、実際の話、操りものの宰相などになるよりは、小国の主の方が余程良かろう?
 国内……ああ、セルフィーユの『国内』は総じてトリステインよりは安定しておろうし、外交権などはトリステインが宗主国として保持する。いきなり外交交渉の矢面に立たされることなどはない。……とは言っても、式典や夜会などには国主として引っぱり出されるからな、覚悟しておけ。これも一つの外交だ。
 他にも関税の権限はトリステインが握ったままで、まともな国境線さえ引かれぬだろう。
 もっともこちらは街道工事との絡みもあってな、得られる利益と共にトリステインから切り離せぬだろうという話になった」
 セルフィーユとトリステインの国境に税関が設置されれば、商都化には大打撃となってしまう。トリステインの東北部へと荷を売るのに、トリステイン商人もゲルマニア商人も、わざわざセルフィーユの税関を通す必要はない。新たにセルフィーユを迂回した街道が造られても、リシャールは驚かないだろう。
「独立の維持には、お主には煙たかろうが、トリステインから政府顧問を派遣する。これは鳥の骨からの提案で、完全な名誉職になった。通常は国家宰相でも立てるところだが、お主の政のやりようではかえって邪魔であろう?
 他にも、万が一にはお主の要請で王軍が出ることになろうが……これは今までと変わらぬか。
 安全保障の費用と称して貢納金を納めて貰うことにもなるし、王宮の見聞役も任を解かれる予定はない。
 これだけ強固な鎖で縛っておけば、隣接するゲルマニアとて手出しは出来ぬであろうよ。……ここだけ見れば、クルデンホルフよりも手厚いほどだな」
 自分とマルグリットの間にもう一人挟まれては、確かに領地が立ち行かなくなるかと、リシャールは頷いた。それに話を聞く限りは傀儡国家ではなく、ほぼ諸侯領そのままだなと思える。諸侯には外交の権利など元から与えられていないし、毎年貢納金という名の税も支払う。領地の危機に国から援軍がやってくるのも変わらない。
「再併合の方はもっと簡単だ。
 お主がアンリエッタ殿下……いや、『陛下』に願い出るだけで、ほぼ話はまとまる。
 トリステインは国土が戻ってくるし、宰相云々についても、女王陛下の差配であれば、誰も文句は言えぬだろうからな」
 アンリエッタが女王となって後に王政府へと登用されるならば、忙しくともまともな仕事を与えられるだろうし、操り人形にされる心配はほぼ無くなる。その後ろ盾が確立されるまでの数年、リシャールは『国外』でほとぼりを冷ますのだ。
「それからな、リシャール。
 五年もあれば情勢が変化するかも知れぬが、当たり前だがお主はその間、セルフィーユの維持を第一にせよ。
 お主の考えつく限り、あらゆる手練手管を使って構わぬ。
 いつでもセルフィーユをトリステインに戻す手筈は調えられているが、トリステインがセルフィーユを気遣う余裕がまったくなくなる可能性もあるのだ」
 特に財政面では破綻の可能性もあるなと、リシャールは思い出していた。その為に自分は、王宮へと呼ばれて献策を練ったり相談に乗ったりしているのだ。蟻の一穴……というには大きすぎる穴であるから、全く可能性がないと切り捨てもできない。
「まあ、万が一の時には、そのままセルフィーユの国主としてふんぞり返っておればよいわ。
 寧ろお主の真骨頂が見られるやも知れぬと、皆で笑ったほどだ。
 鳥の骨とお主の祖父殿の目の前でアンリエッタ様よりお許しを得てきたからな、その時には、トリステインはセルフィーユを正真正銘の同盟国として丁重に扱うだろう。
 ……アルビオンのウェールズ殿下など、早々に仲を深めておいてもいいかも知れぬぞ?
 トリステインとアルビオン両国の害とならぬ限り、ほぼ全面的にお主の支持をなさるだろうからな」
 そう言った面でも外交を学ばねばならないかと、リシャールは先ほどの公爵の言葉を思い返した。これも一つの外交とは、そういうことなのだろう。
「……単に中央の安定だけを望むなら、国を追い出すのに領土を手に持たせずとも方法はあったのだ。
 こちらではともかく政治から遠ざけるのが先かと、無理矢理にでもルイズと一緒に魔法学院に放り込むか、それでもまだ事態が落ち着かぬようならアンリエッタ様に間に入って貰い、ウェールズ殿下に願い出て遊学という形でお主をアルビオンに預けてしまおうとも考えていたほどだ。
 ところがアンリエッタ様のご提案は違った。
 セルフィーユごと放逐すると仰られたのだ。
 建国を許すなど、正直言って奇手中の奇手だが、諸条件を補えば悪手とも言えなかった。前例もなくはない。
 アルビオンの大公位にあった継承権持ちの王子が、政変から距離を置く為に一時的に建国して政治から離れ、後に国へと返り咲いた事実は確かにあった。
 更には諸外国を押さえるために支払われる交渉材料は、本来なら他の案件にて外交上の押さえに使われるべきもの、王太女殿下はそれらをお主の為に使うと仰ったのだ。
 失態の詫びとは口にされていたがな、この扱い、王家の子息と何等変わらぬのだぞ? これに応えずしてなんとする?
 ……それに、私も見てみたくなったのだ。
 お主が一国の頂点に立つ姿というものを、な」
 にやりと笑う義父に、そんなこと言われてもなあと内心でため息をつく。ラ・ヴァリエールが独立して義父が采配を振るう方が、余程内実も見栄えもあるだろうに……。
 それに、新たに与えられる爵位も含め、国に戻ったらそれだけの仕事をせよと報酬を前渡しされているに等しいのだが、それだけの期待と信頼の現れでもある。……しかし王子様呼ばわりは、カトレアの愛の告白だけにして欲しかった。
「結局、日を空けて幾度も話し合ったが、まあこの様な事情でな、お主はこの一件、引き受けざるを得ないのだ」
 リシャールは心の整理が着かぬまま、曖昧に頷いた。

 だがこれも、受ける受けないの段階は通り越しているのだろう。ある意味、いつも通りだ。ここで自分が造反する意味はないし、身を守るには確かに悪くない選択肢かと考える。
 リシャールの仕事はこれまで通りで自分の国となった領地を切り盛りすること、夜会で挨拶が増えるぐらいで大勢は変わらず、数年と限ってならばもう割り切って楽しんでもいいかという気にさえなっていた。それに、宰相への道が一時的にせよ遠のいたことが、何よりもありがたい。
 国の権利はこれでもかと制限されているが、こちらも名前が変わるだけのようだ。宗主国への外交と軍事の依存は独立国としては屈辱かもしれないが諸侯としては当たり前で、面倒が減ったとさえ言える。政府顧問はお飾りと確約されて国内への影響はなく、関税徴収の権利は街道を利用した中継貿易に大きな支障が出るのでこちらから願い下げだし、もとからセルフィーユで行っていた領政にはほぼ支障がない。
 それに公爵らの考えていた遊学によるトリステイン離脱よりは、セルフィーユを離れないで済むことを考えればよい判断かも知れなかった。
 むしろ、侯爵の位の方が面倒かも知れない。余程の失態でもしない限り、こちらは一生ついて回る。もしも王命による動員を侯爵格で求められれば、最大で一個連隊もの軍を用意せねばならない。実際には領地の規模が小さいことを理由に、正規編成の三個大隊から一個か二個を減じたセルフィーユ軽歩兵連隊でも用意することになるだろうが、それでも大きな負担だ。領政は相変わらず火の車が回っているが、そろそろ貯蓄にも気を使った方がいいかも知れない。
 後は様々な『万が一』とやらが起きぬよう起こさぬよう、なんとか再併合までやり過ごす努力するのがリシャールの仕事となるだろう。

「言うまでもないが、王都から知らせが届くまで他言は無用だ。
 艦長らもその様に頼む。
 特に再併合の話は侯国成立後も口外厳禁と、肝に銘じておいてほしい」
「はっ、畏まりました」
 全員が敬礼し、杖に誓った。
 何とも言えない空気が『ドラゴン・デュ・テーレ』の司令室に漂う。聞いていた士官らも表向きは慶事、裏事情まで考慮すれば吉凶相半ばで判断がつかず、声を掛けづらい様子である。
 そんな中、ラ・ラメーが戯けたような口調でリシャールに語りかけた。
「しかし、しかし! 困りましたぞ、閣下!」
「艦長?」
「これでまた、礼砲の数が増えます。
 出来れば一度くらいは、同口径の艦砲に定数の砲員を揃えて閣下に礼砲を捧げたいと常々思っていたのですが、しばらくお預けになりそうですな」
「……あー、領軍と衛兵隊にも、艦砲の訓練を課しましょうか?」
「水兵は増やしていただけないので?」
「……」
「……」
 しばらくの間、視線だけでやり取りが続く。居並ぶ士官たちはいつものことかと、公爵は何やら面白そうに、それぞれ口を挟まず眺めている。
 ……やがて、根負けしたリシャールが折れた。
「セルフィーユに暮らす領民の十八人に一人が領空海軍に所属しているというのは、割と異常な事態なんですが……近日中に最低一人は増やしましょう。
 実は領空海軍志望の少年がいまして、今は聖堂の学舎で読み書きを学ばせているんです」
 ここはジュリアンを引き合いに出して、煙に巻いてしまおう。リシャールは心の中で両手を合わせ、彼に詫びた。
「ほう?」
「見所はあると思いますよ。
 王都から一緒に飛んできたんですが、竜も高度も、まったく恐れませんでした。
 それに彼の曾祖父殿は、平民ながらどこかの空海軍の士官だったそうです」
「ふむ、それは期待しましょうか。
 活きのいい従卒が欲しかったところです」
「間もなく空港上空!」
「入港準備よろし!」
 急に忙しくなった司令室で、リシャールはそっと壁際に下がった。
 ……増員は、なんとか誤魔化せたらしい。

 空港に着いた夕暮れ、馬車は人通りが多くて使えぬことがわかっていたので、リシャールは義父と二人、のんびりと庁舎への道を歩いていた。『ドラゴン・デュ・テーレ』の乗組員も係留作業が終わり次第、両舷休息で街へと繰り出す予定で、帆を畳む水兵も心なしかいつもより手際がよく見える。アーシャには好きにして良いと伝えると、主会場のある練兵場の方に飛んでいってしまった。
「下世話な質問だが、この祭りの総予算はどのぐらいなのだ?
 ほぼ全額、伯爵家から出ていると聞いたぞ」
「今年は三千エキューと少しですね。
 錬金鍛冶二ヶ月分、というあたりです」
「思ったよりも低い額なのだな……」
「酒食の予算が大半で、そこに皆も持ち寄りをしますし、観艦式などは軍の演習費用から出ています。
 この日だけ出る屋台などは有志の者も多いですし、露天も賑やかですが、こちらから頼まずとも祭りに当て込んだ商人達が集まりますからね。
 あとは飲んで騒いでだけのことですから、大したことにはなりません」
「ふむ、種火があらば薪は燃える、か」
 旧市街に入ると既に出来上がっている人々が、それぞれ酒杯を片手に乾杯を繰り返す姿なども見られる。幾度も声を掛けられては手を振り返しながら、朝から飲んでいた者も多いだろうなと赤い顔が並ぶ通りを庁舎に向けて曲がれば、大道芸人達の姿が人集りの中に見えてきた。
「ルイズは今年も来たがっていたが、来週の頭には魔法学院だ。そうもいかんと置いてきたのだが……。
 ああ、私は王都で会議をしていることになっているからな?」
「はい、カトレアにも伝えておきます」
「うむ。
 ……それにしても、大した活気だな。
 あの屋台など、ロマリアの文字が踊っておるぞ?
 それにあちらはアルビオンの練り菓子のようだな」
「領地一丸となってのお祭りですからね。
 屋台の出店は有料ですが、去年でも割と珍しいものが売られていましたし……」
 出店の方は、実は街の有志がほとんどだ。移民してきた新教徒達が、出身地の味をそれぞれに持ち込んできたのである。この雑多な文化の融合が、そのうちセルフィーユの味や風土となるのかも知れないなと、リシャールは思っている。
「それにお金を持っていなくても、街や村で用意した酒食は無料です。
 安酒と食べ慣れた魚介でも、ただならば誰も文句は言わないとギルドの長……ああ、祭りの顔役は太鼓判を押していました」
 人集りを避けながら、庁舎向かいの『海鳴りの響き』亭に辿り着く。ここの二階では、ジェローム氏がラ・ヴァリエール家の家臣達の指揮を執っている。カリーヌ夫人はカトレアたちと祭りを楽しんでいる筈だが、大凡の位置が逐一報告されているのだという。
「おお、領主様!」
「領主様のお越しだぞ!」
 顔見知りが殆どの酔っぱらい達に片手で挨拶し、そう言えばまだラマディエでは乾杯していなかったかと、義父には視線で詫びを入れ、女将に酒杯を用意して貰う。『海鳴りの響き』亭一階の酒場は感謝祭の名で丸一日貸し切りにしてあるし、ワイン樽も出される料理も祭りの予算で用意されていた。
 義父の手にもワインが渡ったのを確かめて、酔っぱらい達が勧めるままに空のワイン樽の上に乗る。
「あー……。
 今、街中を歩いてきましたが、皆の準備が良かったおかげか、例年以上にたっぷりと酔いの回った、真っ赤な笑顔をたくさん見ることが出来ました。
 これも領内が安泰である証、皆の健康とセルフィーユの平穏を始祖に感謝し、酒杯を掲げたいと思います。
 ……乾杯!」
 続けて酔っぱらい達が大声で唱和し、リシャールも一気にワインを飲み干した。……気を使われたのか、『海鳴りの響き』亭で普段出されている高いワインだった。

 二階に上がってジェロームを探し当てると、カトレア達は庁舎にいるというので、義父と共にそのまま来た道を戻る。マリーがはしゃぎつかれて、寝てしまったらしい。
 すっかり忘れていたが、キュルケは大丈夫だろうか。彼女はカトレアらと共に祭りを回っているはずだった。しかしそれは、カリーヌ夫人も共にあるということに他ならない。
 リシャールは一瞬だけ浮かんだ恐い想像を、頭の中から振り払った。
「リシャール、マリーは元気か?」
「もちろんです。
 最近はもう、よく喋ることと言ったら、朝方の小鳥に負けないぐらいですよ」
 人の顔と名前もよく覚えているし、動物の名前も両手では足りないほど諳んじてみせるマリーだった。最近は、一段づつなら階段も上り下り出来るようになったし、靴の大きさも一つ大きいものを用意して、ふかふかの靴下を二重に履かせている。
「ご苦労様。
 酔っぱらいの喧嘩以外で何か問題は?」
「いいえ、特にはありませんでした」
「うん。
 よし、交代まで頑張って」
「はい、ありがとうございます!」
 入り口で衛兵に答礼を返し、応接室を目指す。
 流石に庁舎や武器工場を無人にするわけにはいかないので、要所の衛兵は短い時間で交代させるようにしていた。
「ただいま」
 マリーが寝ていてはいけないと、静かに応接室の扉を開ける。
「とーさま!」
「リシャール、お父様」
「ただいま、カトレア、マリー。
 ……っと」
 しかしソファで寝ていたのは、カリーヌとキュルケの方である。
「……どうしたのだ、カリーヌは?」
「色々ありまして、母様たちはお疲れなのです、お父様」
 カトレアはしーっと唇の前で指を立てて、リシャールらに注意を促した。
「隣にもう一部屋ありますので、そちらに。
 カトレア、頼むよ」
 リシャールはカトレアに義父の案内を頼むと、軽食でも貰ってこようかと『海鳴りの響き』亭にとって返した。

 安くないワインを自腹で一本購入し、公爵に出すのはどうかと思いながらも、料理の皿を一つ手に持ってもう一つの応接室に戻り、詫びてからグラスや食器を支度部屋から持ち込む。マリーには、カトレア達が先ほど屋台で買ったリンゴの絞り汁を薄めた飲み物が用意されていたので、そのまま我慢して貰うことにした。
「それにしてもカトレア、カリーヌ様とキュルケはどうして……?」
「……たいへんだったのよ。
 端折ってしまうと、幾度も喧嘩になりかけたのだけれど、全部マリーが止めてくれたの」
「あい?」
「……えーっと、お手柄、なのかな?」
「まあ、ツェルプストーの娘がカトレアと懇意にしておることは、私も知っていたのだがな……」
 リシャールも隠してはいなかったがカトレアも実家に手紙ぐらいは書くだろうし、対抗意識がある隣国貴族の子女の行動ぐらいは、筒抜けになっていても不思議はない。娘夫婦が可愛がっているともなれば、なおさら不本意だろう。
「あら、キュルケはいい娘ですのよ、お父様。
 マリーもよく懐いていますし……」
「あい!」
 公爵はそのマリーを膝の上に乗せて、渋い顔をしている。
 髭に手を伸ばそうとしたマリーに、公爵は慌てて彼女を抱きなおした。
「しかしな……」
「両家の喧嘩は、ご領地だけでやって下さいまし」
「む……」
「それに、母様も最後には折れて下さいましたわよ?
 ……マリーの顔を立てて」
「だーめ!」
「マリーよ、しかしだな……」
「ぶー!」
 しばらくして公爵も、娘夫婦と、何よりも孫による説得で、セルフィーユではツェルプストーとは事を構えないと頷かざるを得なくなった。
 むずがる孫に勝てる祖父や祖母など、いやしないのだ。

「リシャール! 少し! 修練が! 足りて! いない! ようです! ね!」
 ……ちなみに城に戻っての夕食後、その日一日分の鬱屈を晴らすかのように吹き荒れたカリーヌに、城の裏庭にあるアニエスとの手合わせに使っていた広場でさんざん魔法剣の稽古を付けられたリシャールであった。
 被害が地面と木々数本と筋肉痛と打撲と擦過傷だけで済んだのは、幸いである。




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