ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第二十話「学院訪問」




 六二四一年もひと月が過ぎ去って二番目のハガルの月、年明けから続いた忙しさにようやく片が付き、セルフィーユは徐々に平静を取り戻しはじめた。
 アルトワ伯らのおかげで麦価も高止まりからやや値を下げ、こちらも一段落かとセルフィーユでも徐々に備蓄を取り崩し、少なくともパンの値段は下げるように市場の方向性を持たせている。
 リシャールの元に届く書類も、村落部への集合住宅の建設計画や、新たに作る葡萄畑の候補地についてなど、後回しにされていた日常業務のものが増えてきた。
「フレンツヒェン殿、同時に一戸建ての借家も検討しておいて下さい。
 十分な家産を持ち込んできた移住者なら、最初からそちらに住んで貰う方がよいでしょう」
「最近は建設部署の方にも余裕も出てきましたからな。領民にも建設を得意とする者がおり、仕事を受けているとも聞きます。
 村長らにもその旨を伝えておきます」
 おかげで単純作業からは解放されたが、今度は頭脳労働や各所との調整に時間を取られ、追い打ちで王都から届く『通信教育』の添削が高度な内容に移りはじめと、リシャールも庁舎も平常業務に埋もれていった。
 それでも帰城が極端に遅くならないのは、現在では主力となっている移住組の官吏も二度目の春を迎えて仕事にも慣れ、庁舎そのものも徐々に増員しているという事情が上手く回っているからに過ぎない。流石に徴税時期の先月は、これでもきつかったが……。
 しかし、領地が農業主体で人口三千人を越える祖父のエルランジェ伯爵領にて事務仕事を主とする家臣は僅か六名、街道上にあって商業の盛んなアルトワが誇る『大』官僚団でも三十人はいないところ、セルフィーユ家で庁舎に勤め領政に直接携わる人数は現在およそ五十人、これは一万人級の商業都市から、五万人級の農村主体の地方領に匹敵する。領内人口なら十五倍以上の開きがあるラ・ヴァリエールと大して変わらない数字で、以前それを聞いた宰相が半ば呆然とし、続いて我に返ると矢継ぎ早に質問を繰り返したのも当然だった。
 これはセルフィーユが人口の集中している市街地だけでなく領内全てを庁舎の管理下に置いているのに対し、一般的な領地では、大きな部分を占める村落部を村長や古老を中心とした村任せの自治としている差でもある。リシャールはかかる費用や管理の煩雑さ、そして自身の仕事量に目を瞑って領地を育て上げているので半ば自業自得とも言えたが、今更止まれる筈もなく、今後は借財の返済も完全に税収で飲み込めるようもう一声、と行きたいところだった。
 逆に城を維持する家人の数ならば、数十人規模を誇る家はそう珍しくない。ラ・ヴァリエール家のように、メイドの数だけで百人を余裕で越えるような家さえある。十分に羽振りがよい家と、虚栄でも権勢や格式を誇らねば立ち行かない家では少々意味が異なってくるが、大きな家屋敷の維持にはやはり相応の覚悟が必要であった。ちなみにセルフィーユ家は当初こそ後者に位置していたが、最近は徐々に脱却しはじめている。
「領主様、ギルドのリュカ代表が参じております」
「ああ、昨日の続きですね。
 そうだ、マルグリット女史は手が空いてましたっけ?」
「マルグリット様はつい先ほど、港のディミトリ氏とともに新倉庫の予定地の視察に出られました」
「あ、今日だったか……」
 ほんとにいつも通りだなと伸びをして肩を回し、リシャールは必要な書類束を手に、同じ執務室内でも小さな相談事に使われる応接机の方に移った。

 貢納金も無事に王政府へと納められ、一段落したと無理矢理決めつけたその日は、珍しく雪がちらついていた。これもあったなあと、週一回の『通信教育』に添えて、そろそろ王都に伺えますと手紙を用意する。間違いなくアンリエッタはリシャールよりも予定が詰まりきっているはずで、予定は今月中のどこか二日、日取りは王宮の方で決めて貰うようにした。
「王都?」
「おーとー?」
「来週、今年一回目の奏上を予定してるんだ」
 キュルケには話していなかったかと、王宮で見聞役なる太鼓持ちをしていること、それが意外に忙しいことなどを口にする。
「もうちょっと距離が近ければアーシャで日帰りが一番楽なんだろうけど、流石に身体が保たないよ。
 結局向こうで余計に一泊して、ついでに商館からの報告を聞いたりで時間も潰れるかな」
「リシャールは仕事しすぎだわ。
 うちのお父様はもうちょっと余裕持ってるわよ?」
「そうねえ……。
 わたしのお父様と比べても、忙しい気がするわ」
 規模はともかくも、ツェルプストーやラ・ヴァリエールのような主家も家臣もそこに根付いて暮らす領民も世代を重ね、発展後の安定期にある領地と比べられても困るのである。
「……仕事の中身は随分変わってきているけどね」
「負け惜しみ?」
「……うん」
 すかさずキュルケに突っ込まれたリシャールは、素直に頷いた。

 その数日後の月半ば、リシャールはいつものように単身王都へと飛び立った。王宮からの返事が思ったよりも早かったのだ。
「リシャール、コメートは身体が鈍るから飼い葉を減らしてその分牧場に出たいと言ってた。
 ジェルトルーデもたまには羊が食べたいと言ってた。
 クリスタランはお城にも静かな池が欲しいと困ってた」
「そっか。
 ……セルフィーユに帰ったら、それとなく伝えておくね」
「うん」
 領内にはアーシャをはじめ、リシャールが知っているだけでも数匹の使い魔がいたし、家臣の使い魔の一部には餌代の補助もしている。
 コメートは体格の立派な白馬で、庁舎の行政官吏の長フレンツヒェンの使い魔だ。ラ・クラルテ村にある御料牧場では主とも呼ばれ、群をまとめている。ついでに繁殖にも非常に協力的であった。
 ジェルトルーデは領軍砲兵隊長テレンツィオの使い魔で、剽悍な黒い猟犬である。彼女は自慢の鼻で主人を手伝って、斥候や追跡、時には稜線越しの着弾観測にまで活躍を見せていた。
 水蛇の幼体クリスタランは先日召喚されたばかりの新顔で、領主付きの侍女ジネットの使い魔であった。『今は』小さな身体を活かして、家具の隙間に落ちた小銭の回収などに重宝されているらしい。

 使い魔は主人と意志の疎通が成り立つ他にも、使い魔同士で話が出来るとリシャールが知ったのは、つい最近になってのことだった。
 お付きのメイド、水メイジのジネットが使い魔を召喚すると聞いたので、自分がそうしたように当日に加えて前日の休暇を与え、万が一に備えて領軍演習場の使用を許可したのだ。市街地でアーシャのように大きな使い魔が召喚されると、確かに困るなとの反省もあった。吼え声が街に届いて迷惑を掛けた覚えがある。
 立ち会いも大所帯になった。ジネットの家族、彼女の上司で水メイジのジェルメーヌ、休みが重なった彼女の同僚達、動物を見れば喜ぶかなとマリーを連れてくれば当然カトレアが抱いてキュルケも一緒、何かあってはとリシャールとアーシャが見守れば、領主一家総出ならと衛兵隊も動くことになる。
 彼女には皆で声を掛けて励まし、じゃあそろそろ召喚しようとなった時、リシャールはアーシャの頭冠にある角に綺麗な小鳥が止まっていることに気付いた。そのリシャールの視線に彼女の家族も気付き、少し騒ぎになったのだ。
 その小鳥はジネットの母の使い魔で、領主様の使い魔を止まり木にするなど大変失礼いたしましたと平伏され、逆にリシャールが困った。
『アーシャが本当に嫌がっているなら、近寄ることすら不可能ですって。
 あー、たぶん、わかってて止まらせているだけなんじゃないかなと……』
『きゅい』
『チチチチ……』
 後ほど人間の言葉でアーシャに確認してみると、ミドリカワセミのエミリーはきれい好きで羽根の手入れにはこだわりがあるなどと返事されたのでリシャールは驚いた。他の使い魔のことも聞くと、やはり詳しい日常話を返される。そこで初めて、リシャールは使い魔同士にも横の繋がりがあり、暇なときには話をしたり、時には一緒に出かけたり助け合ったりしているのだと知った。
 それはともかく、幾度かの深呼吸の後でジネットが召喚した使い魔は、体長五十サントほどの水蛇の子供だった。彼女の喜びように、周囲にもほっとしたような空気が流れる。
 契約が済むと使い魔は主人の腕に可愛く巻き付いていたが、侮ってはいけないらしい。水蛇は成長すれば体長二十メイルを優に超える大きさも希ではないと聞かされたジネットは、絶望したかのように地面に膝をついてうずくまった。……その気持ちは、分かりすぎるほどによく分かる。リシャールは、今月から彼女には『必要量の』鶏肉を支給するようジェルメーヌに告げてから、庁舎に戻った。
 こうしてセルフィーユの使い魔社会には新しい仲間が増えたが、主人達はともかく、彼らは平穏そのもののようである。

 トリスタニアでの二日間は、朝から晩まで王宮側の指示できっちりと予定表が組まれていた。懐中時計と書類挟みを手に持った小者がつけられ、次は何処そこでそれから食事は、休憩の後に誰某様が執務室にてお待ちですと言った具合だ。
 外務卿からアルビオンとの関係について切り込まれ、高等法院長からは領内法に当たる触書について尋ねられ、宰相と国内の勢力図について対話し、財務卿から特効薬にはならないが大して手間も費用もかからない産業振興策の実施について意見を求められ、王太女と代官不在の王領について頭を悩ませ、護衛職の侍女からは試作の小手はもう少し重くてもいいので耐久力が欲しいと注文を受け、廊下では角を曲がる度に見知らぬ相手から握手を求められては顔を売り込まれ……リシャールは旅程の主な部分を終えた。雁字搦めに予定を組まれていたのは、自分の方だったらしい。
 疲労困憊の体で別邸に戻ったリシャールは、ぐっすりと眠った翌日、私事を片付けてからセルフィーユに直帰すると告げて王都を後にした。

「南向きの街道から少し外れて、ぽつんとあるんだって。
 五角形の大きなお城みたいな建物で、高い塔が目印だと聞いたよ」
「わかった」
 王都からは馬車で二時間ほどと聞いていたそこは、アーシャならほんの一飛びの距離で、ほどなくリシャールにも見えてきた。
 トリステイン魔法学院。
 一際大きな中心の塔を取り囲んで五つの塔がそびえ立ち、周囲を高い城壁が守っている。塔はそれぞれ渡り棟で繋がっており、建坪も相当な大きさのようだ。
 王国の誇る最高学府であり、リシャールも直接足を運ぶのは初めてであった。キュルケの入学については手紙一つで済ませられる気もしたが、一度実際に中を見てみたかったというのが本音である。キュルケだけでなくクロードやルイズが春から通う予定だし、気の早いこと甚だしいが、マリーもいずれここに通うことになるなと興味を惹かれていた。……キュルケのように『留学』しない限りだが。
「ああ、あれだね。大きいなあ。
 アーシャ、入り口にお願い」
「きゅい」
 ゆるゆると塔をまわり、道が延びていた正門らしき一辺に降りて貰う。脇の詰め所を覗いてみれば、本を片手にした老境のメイジが一人。守りをかためると言うよりは案内役なのだろう、少し離れた場所に見回りをしている衛兵は見えたが、騎士の姿はなかった。
 騒ぎになるのは面倒だなと、リシャールは紋章の入ったマントを外して手荷物にまとめた。
「失礼します」
「……うん? 君は!?
 学生ではないようだね……そうか、新入生か!
 いやしかし、入学式までにはまだひと月以上もあるぞ? それに来月は春休みだ。
 喜びで気が急くのはわかるが、もう少し落ち着きたまえよ、君」
 一発で学究肌だとわかる応対に苦笑しつつ、自分が新入生ではなく、留学生の入学に必要な手続きについて聞きに来た代理人であることを告げる。
「なるほど、そう言うことであれば誰か案内を呼ぼう。
 それが私の仕事というものだ」
 老人がテーブルの呼び鈴を振ると、しばらくしてメイドが一人現れた。どうやら魔法でどこかに繋がっている鈴らしい。仕組みは横に置いて、これは欲しいかもとリシャールは鈴を見つめた。
「君、彼を事務室に案内してくれたまえ」
「はい、かしこまりました、ミスタ・タルブリエシュ。
 ……ご案内いたします、ミスタ」
 いきなりシエスタに会えるわけもないかと、軽く会釈を返す。多くのメイドがいるだろうこの学園では、名指しでもない限り会える確率は低い。
「ありがとう、君。
 ……それからタルブリエシュ殿、重ねて申し訳ないのですが、うちの使い魔はここに降ろしたままでも構いませんか?」
 リシャールが背後を指差すと、彼は初めてアーシャに気付いたようで、目を丸くしていた。
「うむ、まあ……おお!?
 ちょっと大きいな、これは。うむ、竜が大きいのは当たり前だ。驚くには値しない。
 ヴェストリの広場に使い魔溜まりがあるから、そこで大人しくしているように言い聞かせておくといい」
「ありがとうございます」
 少し話し合ってから、呼ばれたメイドが先にヴェストリの広場とやらに向かい、アーシャに乗ったリシャールがその側に降りることにした。

 案内についてくれたメイドは落ち着いた様子で到着を待っていたが、案内された本人は驚きとともに広場を眺めた。事務室がある本塔へと先導されながら、これはマリーだけでなくカトレアも大喜びするんじゃないかとリシャールは周囲を見回す。
 きゅいきゅい。ギャーギャー。ぐぐぐぐ。ロロロロロ……。
 そこでは、犬や猫などの見慣れた動物や父の使い魔と同じジャイアント・モールはともかく、剣歯虎や恐竜のような地球では滅んだとされている動物から、体格ならばアーシャといい勝負をするほど大きな鳥、図鑑でも珍しいと記されていた様々な幻獣など、ありとあらゆる種類の生き物がのんびりと過ごしていた。この様子を無料で見せて貰えただけでも訪問の価値はあったなと、楽しい気持ちになる。
 中にはアーシャに話しかけているものもいたし、我関せずと昼寝中の使い魔もいたが、動物園かサファリパークのようで実に面白いとリシャールは視線を巡らせた。
「今は授業中ですから、学生の皆さんは教室です」
「なるほど」
 小さな使い魔はともかく、アーシャ級の大きさでは教室に入れないだろうなと、リシャールは頷いた。

 案内された事務室では先ほど同様に新入生と間違えられ、代理で来たのだと慌てて訂正する。室内ではリシャールの他にも、家臣や執事らしい者が同じように説明を受けて、書類をのぞき込んでいた。彼らにも学院にも忙しい時期なのだろう。大変そうだなあと自分のことは棚に上げ、学則や入寮規則、制服や教科書の用意に関する注意事項など必要な資料を幾つも受け取る。
 試験も面接もないし、高校や大学の入学よりも簡単だなとリシャールはひとりごちた。
 実際、本人であることさえ確認できれば、審査は必要ないらしい。本人の名がわかれば、必要なことは家名から全てわかるのだ。貴族とはそういった存在である。入学者は概ね男爵家以上の出とはなっているが、書面での記載はなく、こちらは暗黙の了解となっていた。
 偽名の申請さえ通るが、こちらも本名がわかれば学院は目を瞑る。政治は持ち込まないにしても、例えば……アンリエッタのような王族に堂々と通われても困るのだ。もしも父王が存命であれば、彼女がこの魔法学院に通っていた可能性もあった。なにも王宮の奥深くで帝王学を学ぶことだけが、王族の学業ではない。『人を知る』ことの重要性は、既に知られている。
「一番大事な入学の宣誓は入学式の時に一人一人が杖に賭けて誓うものだし、今年の入学者が誰なのか学院が把握できていれば、大きな問題にはならないのだよ。
 ただこれはトリステインの入学者の場合でね、留学生ならトリステイン貴族の推薦状も必要だが、当てはあるかね?」
「ええ、まあ……」
 これは自分の仕事だなと、リシャールは頷いた。
「では、そちらは出来る限り早急に学院へと提出して貰いたい。
 審査もあるし、確認もせねばならないからね。
 君をこちらに遣わした方には、くれぐれも急ぎとお伝えしてくれたまえ」
 渡された無記名の書類は、推薦状と言うよりも後見人への同意書のようであった。これさえ出しておけば、キュルケの入学手続きに於けるリシャールの役目は終わりらしい。制服や学用品の手配は、キュルケが連れてきた従者達に頑張って貰うとしよう。
 一から書かずに済むなあと、しばし目を通したリシャールは、『でっかい妹』が問題を起こしませんようにと聖印を切ってから、入学予定者の欄にキュルケのフルネームを書き入れ、推薦者の署名欄は自分の名で埋めた。……まさか伯爵家当主の推薦で、駄目ということはないだろう。
「君、君!
 そこは推薦者の名前を記すところで、手続きの代行者が名を書くところではないぞ!」
 そういえばすぐ説明に入ったから自己紹介もしていなかったかと、リシャールは事務員を見上げた。
 たぶん自分も、そして彼も悪くない。
 悪かったのは、巡り合わせだろう。
 リシャールは立てた指を口元に当て、不審そうな事務員に名と身分を明かした。

 しばらくの後、リシャールは丁重かつ強引に事務室を追い出され、本塔最上階の学院長室とやらに放り込まれていた。伯爵への応対に事務室の一角を使ったとなれば、一方ならぬ問題が学院事務室の方で発生するらしい。
「ほっほっほ、そりゃあ申し訳ありませんでしたな、伯爵」
「いえ、元より名乗るつもりもありませんでしたし、手続き全てがその場で行えるとわかったので、先走った自分のせいもあります」
 オスマンと名乗った学院長は水パイプを手にのんびりとした様子でリシャールを迎えると、長くて白いひげをしごいて笑みを浮かべた。歳はわからないが、おそらくは義父やクレメンテ司教よりも年輩であろう。
 だが名誉職でもないようで、リシャールは食えない人なんだろうなとの印象を持った。アルビオン駐在のクーテロ大使に似た雰囲気がある。
「新入生に間違われるのは、まあ、多少は予想できていたことですし……」
「でしょうな。
 いっそ、通われてはどうですかな?」
「うーん……」
 領地はもちろん放り出せないし、王都に近い分、通信教育の添削が毎日になってしまいそうでちょっと困る。目の前の老人は学生ではない若者との対話を楽しもうとでも言うのか、飄々とした風で答えを期待している様子だった。
「母は通っていたんですが、僕はちょっと無理ですね。
 領主が学舎に通っていけないことはない、とは思いますが、領地が立ち行かなくなると思うので……」
「ほう、お母上の名は?」
「今はエステル・ド・ラ・クラルテ、当時はエルランジェを名乗っていたはずです」
「……『泉水』?」
 よくもまあ、二十年以上も前の一女生徒の二つ名がすぐに出てくるなあと感心しつつ、多少相好を崩した老人にとりあえず、はいと返事をして様子を窺う。
「あのう、母が何か……?」
「いいや。
 ……実技が得意で魔法学が苦手、何かと言えば水魔法をぶっ放してばかりおったのうと、思い出しておっただけじゃよ。
 結婚して多少は大人しくなっとればいいんじゃが……」
 母エステルがお淑やかかと問われれば、飾らずに答えるとなると、お淑やかな振りも得意ですと口にせざるを得ない。
 まあ、自分だけの王子様が現れたと下級貴族の家に思い切りよく嫁ぐような人だから、そういうところもあったかもしれないなと、リシャールは頷いた。
「それはともかくですな、……うお!?」
「えっ!?」
 建物が僅かに揺れ、続いて爆発音が小さく聞こえてくる。リシャールは一瞬身構えたが、すぐに地震や敵襲ではないと気がついて緊張を解いた。
「……ああ、なんじゃ、コルベール君か」
「はい?」
「あー、失礼をしましたな。
 いつものように、火メイジの教師が実験に失敗したようです。
 このぐらいの音なら、火傷一つ負っておらんでしょう」
 壁越しに音のした方へと視線を送り、オスマンは口からタバコの煙を輪っかに出してため息をついた。
 なるほど、ここではよくあることらしい。
「話は変わりますがな、伯爵」
「はい」
 オスマンは髭をしごいてから、リシャールが提出したばかりの推薦状を手に取った。多少は真面目な様子……に見えるように、わざわざ背筋を伸ばしたのであろう老人に、微妙な表情を向ける。
「この推薦状は……お受け取りしてよろしいのですな?」
「ええ、もちろんです」
 ……ゲルマニアはツェルプストー家の娘が、ラ・ヴァリエール家の義息の推薦状で、トリステイン魔法学院へと入学する。国境越しに領地を接する両家は、先祖代々不倶戴天の敵同士として有名なほどだ。何も知らなければおかしな話に聞こえるだろうなと、リシャールも自覚はしていた。先ほどオスマンには、入学するキュルケと自分の関係を、ラ・ヴァリエールの話も含めて告げている。
「ふむ。伯爵が了解して居られるのであれば、こちらからは何も。
 ……確か、ラ・ヴァリエール家の娘も今年入学してくるのでしたな?」
「はい、義妹です」
「ではわしも生徒の将来の為、一肌脱いで見せましょうかのう」
 オスマンは、入学と同時に入寮もする彼女たちの部屋を、隣り合わせにしておきましょうと笑って見せた。
 リシャールも、実家はお隣同士ですから、きっと大丈夫でしょうと流しておいた。
 この老人の采配が国境紛争の火種となるか、はたまたセルフィーユを模倣した蜜月のきっかけとなるのかは、リシャールにもわからない。
 だがここはトリステイン魔法学院。若者がしがらみやくびきを解かれて、青春を謳歌する場所である。
 そして青春の一コマには、喧嘩と仲直りがつきものなのだと信じたいところだった。




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