ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第十六話「翌年への想い」




 スカロンから預かったジュリアンを、無事に聖堂の学舎へと放り込んでしばらく。
 今年も年末はいつもと変わらない様子で、リシャールを筆頭に庁舎へと詰める一同は昨年同様に徴税の準備に追われていた。領地も広がって人口も大きく増えた分、税収の総額が増えると同時に手間は増えるだろうことはわかっていたから、今年から新しく領地となった村には一時的に官吏を増員し、説明に回らせている。一時的な配置換えは余力がない頃からセルフィーユの庁舎ではよくあることだったから官吏達の混乱こそ少なかったが、集計を出すのはかなり遅れることになるだろう。
 そろそろ脱税の監査ぐらいはした方がいいかなとは思っていても、なかなか手を着ける余裕がない。
 それでも概算は出せていたので、翌年度の話し合いにも手が着けられはじめている。
「早く落ち着いて欲しいところですが、年々領地が増えては対処が追いつかないですねえ」
「……よそのご領主様には絶対に聞かせられない、贅沢な悩みですわね」
 マルグリットの嘆息ももっともだが、困っている部分も大きいので笑って済ませるわけにも行かなかった。

 ラ・クラルテ商会も含め、本年度予想される税収十六万二千エキューに地代や狩猟権漁労権の許料など各種雑収入を加えて十七万三千、ここに別会計としているマスケット銃の『税収』が十八万で、セルフィーユ家の総収入は三十五万三千エキューの予定であった。
 それに対して支出の方は、主なものだけ取り出しても領軍兵士から官吏にメイド、従者見習いまでを含めた数百名の人件費、領政にも使われる庁舎および各支所と王都商館の予算、城と別邸と伯爵家の体面の維持費、領軍、領空海軍、衛兵隊などの軍事支出、教会領を持たない聖堂と学舎と騎士隊への喜捨と多岐に及ぶ。これに小さな支出諸々を加えて、総支出は二十三万六千エキューに及ぶ。
 本年度は大変めでたいことに、差し引き十一万七千エキューの黒字を達成できたので万々歳……とはならない。今年になって成立したマスケット銃七百五十丁分の売り上げより求められる税収が本年度の総税収に合算されて、その二割である八万六千エキュー余りが王政府へと貢納される。いつぞや王城で問われたときよりも随分と上乗せされていたが、誤魔化しようもない。更にはヴァイルブルク銀行からの借財は無事に片付いたが、さて、祖父や王政府へと返済する地代四万と、春の騒ぎで発生した私掠税三万四千八百エキューはどこから調達しようか……となってしまうのだ。
 ここで生きてくるのが、ラ・クラルテ商会の売り上げと錬金鍛冶であった。
 商会の資産は別会計とは言いながらも、名目を出資者への配当とすればリシャールの指示一つで動かすことが出来る。
 街道の工事費用は製鉄所が飲み込んで現在は黒字を維持しているし、今年のマスケット銃の生産量はウェールズ皇太子との直接取引分を除いて約千五百丁、その全てが作れば作っただけ売れていった。年末の領税税収を見越し、ヴァイルブルク銀行への返済や工作機械の追加購入なども含め先に幾らか引き出されていたが、帳簿の上ではおよそ七万エキューが利益として手つかずのまま残されていることになる。但し、石炭価格の高騰が迫っているところに、アルビオンの情勢も予断を許さないままに膠着状態となっているので、借財の返済に充てたその残りに手を着けるのは躊躇われた。
 錬金鍛冶の方はこれまでも一時的な金策に活用してきたが、最近は余裕もなく月に十日も鍛冶場には足を向けていない。それでも無償で提供している領軍兵士や聖堂騎士の装備を除いた純粋な売り上げは、今年いっぱいで一万五千エキューほどになっていた。こちらはリシャールやカトレアの私的な小遣い金としての側面もあったが、酒場での飲み代やちょっとした買い物にそうそう大きな金額が費やされることもないから、食材の研究費や客人を接待する時に足が出てしまった場合の補填、あるいは去年なら園遊会、今年ならば立太子式など、割り振られた予算枠での対応が難しかったり急を要する時に、手元にあってすぐに使えるこの私的な余剰金で処理してしまうことも多い。
 来年は私掠税も先送りされる課税対象もないので貢納する額は下がるだろうが、同時にアルビオンの状況次第では銃の売れ行きも下を向くと予想される。その代わり、ようやく主人の錬金鍛冶に因らぬ領地と家の維持が可能となるかもしれない。ついでならば、商会の余剰資産にも手を着けずに済ませたいところであったが、それは高望みというものだとリシャールは理解していた。

「今年は村々を結ぶ主要な領道こそ完成しましたが、街道工事から資金を割り振っての救済策でしたし、ラマディエ旧市街の主道拡幅、ラ・クラルテ、ル・テリエ間の農地開拓促進、アリアンス島灯台の改装にゲルマニア行きの護衛付き往復便、軍用糧食と個人装備の改良……。
 私の王都行きも多くなるでしょうし、落ち着いて領内のことに取りかかれない状況なのはわかっていますけど、手を着けたいことが山ほどありますね」
「庁舎の方は……この時期の忙しさはともかく去年よりも落ち着いておりますし、お城と軍隊はほぼリシャール様の手を離れています。
 来年は領地にもリシャール様ご自身にも、もう少し余裕が出来ると思いますわ」
 資料を前に、まずは互いに思うところを述べる。摺り合わせはその後、大凡の方針をまとめてから年始に庁舎各部署の責任者、各村長も招いた会議を開く予定をしていた。
「そうですね……。
 出来た余裕で、来年は国境沿いの新領にもう少し力を入れたいところです。
 一息はつけたところでしょうが、まだラマディエやシュレベールほどには手厚くしたとは言い難いですから」
「サン・ロワレは概ね問題ありませんが、開拓がはじまったばかりのラ・クラルテ村とその他の新領地の村は、冬の蓄えに不安が残っていますわね。
 ご指示通り、麦価調整の準備は進めてありますし、ラ・クラルテ商会の方にも油漬けよりも日持ちの長い塩油漬けと干物の方に力を入れさせています。
 セルフィーユは海に面している分、そちらで補いをつけられますから……」
 今のところは麦価も狂乱に至ることなく、高いには高いが少し眉をひそめる程度の高止まりで推移していた。アルトワも時期を待っている段階である。
 万が一の場合、ラマディエではギルドに命じて領内の流通に備蓄分を噛ませることでパンを含めた小麦製品の価格を落ち着かせ、店のない各村々には役人を通じて食料品を配給することにしていた。去年までは単に流通量を増やして対応するだけで済んだが、それはセルフィーユの食糧生産力が領内の要求を満たせなかったからであって、買い付け先のデルマー商会を含む国内市場全体が麦の流通量不足を懸念されていたわけではない。
 だが、今年のように王国全土で麦の値が上がることが予想される場合は、より慎重な対応が要求される。
 もちろん、新しく売り物にしようとしていた軍用糧食は折角買い付けた麦を外に出すことになってしまうので、試作を済ませた段階で止めて生産そのものは留保していた。当たり前だが、麦は殻付きの全粒で保管しておく方が加工品よりも日持ちする。
「流石に領外までは責任を持てません。
 しかし、かと言って……パンが安いと余所で商売をするほど買い込まれても困るし、商圏と見定めている地域にセルフィーユはこちらを見捨てたと悪評が立つのはなお困ります。
 アンリエッタ殿下やマザリーニ猊下に進言しようかとも考えましたが、今王政府が動いては、肝心の義父やクリストフ様の一手を潰してしまいそうで……」
「リシャール様、どう無理をしても王国規模の食糧不足にこちらで補いを付けるのは不可能ですわ」
「マルグリットさんの言うとおりだと思いますけど、これがなかなか……」
「無い物ねだりは首を絞めてしまいますわよ?」
 自分の執務室なので他には誰もいないが、普段から家臣としての態度をなるべく崩さないようにと自分を律している彼女にしては珍しい様子である。ギーヴァルシュ以来の面々であるヴァレリー、ジャン・マルクらと私的に集まる時以外には、終ぞ見たことがない。
「この予想税収でさえ他家と比べれば大きな躍進で、王国に対して貢献していると主張してもよいぐらいですのに……。
 それはともかく、アルトワの伯爵様は麦市場のことならばこちらよりもずっとお詳しいでしょうし、公爵様も大きな領地を長年まとめてこられたお方ですから、勝算ありと見ておられるはずだと思いますよ。
 既にこの案件への対処は完了したと、枕を高くされても良いのでは?」
「……そんなものですか?」
「ええ、そんなものですわ。
 リシャール様は、何でもご自分で解決なさろうと……いいえ、全てを満たそうと無理を背負い込みすぎです」
 確かにそうかと思う部分もあったので、リシャールは素直に頷いた。
 だが、後で苦労するぐらいなら先に手を打って楽をしておきたいのもまた、性分なのである。
 
 来年への備えは幾ら手を掛けても足りないような気分でこなしていたが、降って湧いてくる問題は何も領内のことばかりではなかった。
 たまの来客に、他領の領主や代官を迎えることもある。翌日来訪の予定と聞いていた筈が、早朝に先触れが来て昼過ぎに本人がやってくるようなことも希ではない。諸侯はともかく代官などは中央に上役を持つから、保身についてはリシャールの遥か上を行く彼らのこと、何某かの命令や圧力があれば目上の筈の伯爵相手でも遠慮がなくなる。
 その日は朝のうち、フロランと次年度分のマスケット銃の生産について打ち合わせていたのだが、早々に切り上げて午後の予定を開けた。おかげで昼食は机の引き出しにしまい込んでいた試作の堅焼きパンのみとなってしまったが、まあそれはいいだろう。
「こちらの都合で予定を前倒しをしてしまい、申し訳ない。
 何とぞご容赦を」
「いえ、お気になさらず」
 庁舎の応接室に迎えているのはセルフィーユから馬車で西に一日ほどの距離にある王領リールの代官、トゥルヌミール男爵であった。リシャールを前にして冷や汗をかいているようだが、彼の心中まではわからない。
 リールは貿易で発展したリール川河口の港町で、その流れはラ・ヴァリエールの端をかすめてアルトワへと続いており、こちらが工事を手がけている街道はリールで折れて王都トリスタニアへと伸びていた。比較的大きな都市で、王都を中心とするトリステイン中部から北部の巨大な商圏に属している。内陸部への水運を持つその立地については羨ましく思っていたが、セルフィーユには何もなかったからこそ横槍が入らずにここまで成長した部分も大きいので、その評価をどちらかには傾けられない。またリシャールには王都往復便の中継地として、こちらへと来る商人の拠点としても隣の街という意識があった。
「それで、どうなさったのでしょう?
 ……何か特別な事情でも?」
「実はですな……」
 トゥルヌミール男爵が街道工事や製鉄所のことを暫く褒めちぎってから切り出したのは、借財の申し込みであった。居心地の悪さに半ば聞き流そうかと思っていたところに告げられたその金額は三万エキュー、陞爵の機会に恵まれたらしい。袖の下に必要なのだろうが、高官が集う園遊会を控えて年始前に工作を行うとすれば、急ぎというのも頷ける。幾つかの銀行からは既に借り入れを行っていたらしく、セルフィーユが最後の頼みの綱のようだった。
 彼にしても苦渋の選択だということは見て取れた。しかしながら、こちらも二つ返事で貸すには金額が大きすぎる。
「伯爵閣下、是非にもお聞き届けを!」
「男爵殿、流石にその金額はおいそれと用意できるものではありません。
 非常に申し訳ないのですが……」
「年明けまでで構わないのです!
 リールの税収で埋め合わせを致しますれば、借財が焦げつくことはないと杖に賭けてお約束いたします。
 何卒、何卒!」
「しかしですね……」
 彼の必死さに、思うところがないわけではない。
 だが、同じ断るにしてもこちらの今後にも関わるので、下手な断り方だけは出来なかった。

 王領リールは先ほどトゥルヌミール男爵が褒め落とそうとしたセルフィーユよりもよほど富裕な税収を誇る都市領だが、男爵は代官であって領主ではないから、その税収がそのまま懐に入るわけではなかった。彼は国より爵位に応じた年金を得る法衣貴族なのだ。確か男爵格の貴族年金は三千エキューほどだっただろうか。その十倍と言えば大した金額である。
 贈収賄そのものについては、トリステインのみならず大きな批判とはならない。現代日本とは世の中の仕組みが違うのだと、納得する部分さえあった。少々大きな額のチップあるいは手間賃と考えれば、縁故人事の菓子折と挨拶がそのまま現金化しているのだと言い換えられなくもないだろう。
 では全てがそれで回っているのかと言えば、決してそうではない。余りに無茶な人事などは大きな批判に繋がるし、何らかの事情で表面化した場合、贈収賄の種になる財産がどこからきたのかについては厳しく追及された。銀行や親族、あるいは友人知人から借りた、子々孫々貯め込んできたなど、まだしも納得出来る内容であれば贈収賄そのものに対する咎めは少ない。だが横領や外患誘致に繋がった時は、手のひらを返したように厳しい沙汰が下された。
 現にリシャールも、憚りながら叙爵時にはラ・ヴァリエール公爵の一筆による圧力を背景に、ギーヴァルシュ侯爵らの手を借りて貴族院の議員へと付け届けを行っている。つまりトゥルヌミール男爵は、リシャールと同じ事をしようとしているだけなのだ。
 だが同時に、国家の財である税を私すると臆面もなく口にする目の前の男に、なんと声を掛けたものか。そのままマザリーニに密告した方が、幾らかましな気さえしてくる。
 しかしながら、それを堂々と処罰出来ないのが今のトリステインだった。リシャールには隣の都市の代官としての認識しかないトゥルヌミール男爵だが、誰にどう繋がっているのかなどわかったものではなかったから、街道工事や商業振興などの実務に関してはともかく、それ以外の対応は慎重になる。
 特にリシャールは、中央の貴族院まわりともめ事を起こすなど論外だったし、逆に繋がりを持ちたいとも思っていなかった。議長であるリュゼ公爵らを主軸とする一派とは、王家による仲裁があったとは言えラ・ヴァリエール家と静かな対立が続いている。
 春先の逮捕時に比較的まともな対応をしてくれた貴族院議員ベロム男爵でさえも、立ち位置の確認が出来たのはかなり後になってからのことだ。王家への忠義や職務への誠実さもあったにせよ、彼自身の院内での立場が主流派からはほど遠い平議員とくれば、大波に翻弄される小舟の如きものである。ラ・ヴァリエールと事を荒立てたくない一心も含まれていたようで、義父をして『日和見と言えばそれまでだが、中立に近いだけましだろう』と評されていた。
 このように、トゥルヌミール男爵の申し込みを当たり障りのない理由で断ることに変わりはないが、同時にその先まで見ておかなくては思わぬ形で足をすくわれる可能性もあるものと考えておくべきであった。

「男爵殿、他言無用に願いたいのですが、少しよろしいですか?」
 セルフィーユの内部事情など、明らかに外部の人間とわかる人物に漏らしたくはなかったが、リシャールは虫避けにもなるかなと思案しながら口を開いた。他言無用とは言いつつも、最初からその様な期待を抱いてはいない。
「!?
 ……はい、ええ、無論でございます」
「少し思い違いをして居られるようですが、当家は決して羽振りがよいわけではありません。
 ……これすべて、借財で回っております」
「なんですと!?」
「セルフィーユの家名を許されて三年目、少しづつ返済しているのですが未だその金額は四十万エキューを大きく越えており、街道工事とも相まって四苦八苦しているのですよ……」
「よ、四十万!?」
 ついでに伯爵家らしい見栄を張らずに済む方法があれば当家の方がご教授願いたいところですと、内心で付け加える。
 そう、目の前の手を着けられていない茶請けの焼き菓子でさえも、商人を通じて厳選された材料を取り寄せ、生鮮食材である卵や生乳を領内で作らせ、菓子作りが出来る料理人を確保し、出来上がったそれを従者が城から庁舎へと運び、作法に従った配膳が出来るよう教育を受けたメイドが取り扱うと考えれば、想像を遙かに上回る代価を必要とする。格式の維持とは、つまるところそういったものの積み重ねであった。
 それはともかく、リシャールが借財を持つことを予想さえもしていなかったのか、あるいはその金額に驚いたのか、男爵は目と口を見開いて固まってしまった。
 借金の申し込みを断る理由として、同じ借金は有効な手である。これが食い下がられて他から借りて貸してくれなどと言われては厄介だったが、幸いにしてそこまでの義理もなければ親しい間柄でもない。
 しばらくして、肩を落として帰るトゥルヌミール男爵を複雑な気持ちで見送ると、リシャールは後回しにしていた仕事に取りかかった。

 それでも、いつまでも年が明けぬわけではない。
 容赦なく年末がやってくると、『ドラゴン・デュ・テーレ』に以前よりは幾らか簡略化した貴賓室を仕立て上げ、大晦日に当たるウィンの月ティワズの週ダエグの曜日、リシャールは王都へと向かった。仕事に心残りはあるが、いつものことだ。
 別邸にて年を越し、新年を家族で祝い、王城で年始の祝賀会へと向かうのは例年通りだが、陣容は大きく変わっていた。
 無事出産を終えたヴァレリーは夫ジャン・マルクとともに休暇が与えられており、次席のフェリシテが筆頭侍女代行として諸事を取り仕切っている他、護衛を率いるのはアニエスである。
 馬車の中、膝の上に靴を脱がせたマリーを立たせて窓の外に目を向けると、年始のトリスタニア市中は降臨祭を祝う市民で溢れていた。その向こうにはこちらと同じように登城する馬車の列が出来ている。
「うまー!」
「ああ、あっちにもお馬さんがいるねえ」
 お喋りも達者になってきた彼女に相槌を打ちながら、ぼんやりと新年のことを考える。
 王都から帰って徴税を終えれば感謝祭も控えていたし、その頃にはクロード達が魔法学院に入学しているだろう。少し落ち着いたら、約束通りお土産を持って遊びに行きたいところだった。
「とーさま、あれ? あれー!」
「うん!?
 ああ、あれはマンティコアだね」
「まんてこ?」
「マ・ン・ティ・コ・ア」
「ほら、もうすぐお城よ、マリー」
 城門にはマンティコア隊だと思われる魔法衛士隊の騎士達が、ある者は魔獣に騎乗して警護に当たり、ある者は杖を手に馬車の整理をする従者達を指揮していた。ド・ゼッサール隊長の姿は見えないが、持ち場がこことは限らないので探すのは諦める。
「さあ、降りようか」
「あい」
 マリーを右手に抱えたまま降りて、左手をカトレアに差し出す。
「……もう少し早く来た方がよかったかしら?」
「そうみたいだね。
 どうしたのかな?」
 去年も同じぐらいの時間に城へと乗り込んだような気もしたが、今年は随分と混んでいる様子だった。特別な何かは無かったように思うが、そちらは後で義父にでも聞いてみることにして、城内へと向かう。
 マリーは借りた控え室で留守番してもらうことになるが、来年は別邸か公爵家で留守番かなと思案する。乳飲み子である彼女を王城へと連れてくる最大の理由は、アンリエッタが会いたがっているというその一点に尽きた。普通は赤子を乳母に任せるか、産後で健康に不安が残るようなら妻とともに家に残しておくものだ。
「じゃあお父さん達は行って来るからね」
「マリー、いってきます」
「あい!」
 水で薄めた洋梨の果汁を用意して貰ってご満悦の彼女に、カトレアと二人でキスをして会場へと向かう。……新しい絵本と玩具もあるし、『しばらく』は持たせられるだろう。
「大人しくしていてくれるといいけれど……」
「最近のマリーはやんちゃさんだものね」
 愛娘が元気なことは間違いなく良いことなのだが、少し心配なことも増えつつあった。
 
 はいはいの頃、彼女の行動範囲は子供部屋の中に限られていた。
 よちよちと歩きだしたのはつい最近だが、彼女はほぼ同時にドアの開け方を覚えたらしい。手を伸ばせば届く位置に取っ手があったのも不味かった。お世話当番のメイドがじっと見守っていると、押し下げ式の取っ手に手を伸ばしてかちゃりとドアを開け、そのまま廊下に出てしまったと聞いている。なにせ部屋にほぼ入る全員が行う行動だ、いつも見ていたそれを真似をしようとするのは自然だとリシャールは納得した。
 ただ、そのままでもいけない。子供とは興味の赴くまま足の向くままに、何処へでも行ってしまうものだと決まっていた。誰かがついているならば城内何処に遊びに行こうと構わないが、階段一つとっても彼女には危険な存在なのである。
 幾らか思案したリシャールは、子供部屋の扉の上、彼女の手が届かない位置に沢山の鈴をぶら下げて、扉が開くとすぐわかるように仕掛けを施して置くことにした。
 
 呼び出しを背に会場入りすると、今年に限って早い時間にも関わらず混んでいる理由には、中央やや奥よりの人だかりをみればすぐにあたりがつけられた。むしろ数ヶ月前から予想していて然るべきだったが、逆にアンリエッタとの距離が近すぎたことで、リシャールには思い至らなかったのである。
「アンリエッタ様はいつもより大変そうだね」
「そうね。
 ……大丈夫かしら?」
「うん?」
「随分とお疲れのご様子に見えるのだけれど……」
 アンリエッタ姫が去年と違い、『王太女』としてこの場にある事の意味。
 そして完全に服喪をあけたのか、傍らには比較的明るい色のドレスを身に纏ったマリアンヌ王后の姿。
 列を成して挨拶に集う彼らの思惑は……猟官であったり陳情であったり将来への布石であったりと様々だろうが、これ以上は仕事も増やしたくないし今以上の出世は心の底から勘弁と願っている自分には、理解は出来てもその一群に加わりたいなどとは思えない。
 ものすごく今更だが、祖父に爵位が欲しいと願い出た時にそれが叶わなかったのなら、リシャールもその一群に加わっていただろうか。いや、その前の段階にすら至っていなかったかもしれない。勲爵士の家柄で年始の祝賀会への招待状を手に出来る者は、ほぼ皆無であった。前年に余程の功績をあげるか、引退前に長年の忠勤と実績を賞する場合など、たった一度でも招きを受ければ家の誉れとして子々孫々自慢するような慶事とされる。
 そのような人集りに加わるか後回しにするか、リシャールは少し逡巡してからカトレアに向き直った。
「少し待って公爵様とご一緒しようか。
 ……待ち合わせて一緒に来た方がよかったかな?」
「来年はそうしましょ……あら?」
 カトレアはリシャールの背後に視線を向け、少し首を傾げてからにっこりと笑顔を送った。
 振り返れば、ワルド子爵がこちらへと歩いてくる。非番なのだろう、魔法衛士隊の騎士服ではなく貴族としての正装であった。
「『銀の酒樽』亭以来ですな、セルフィーユ伯爵。
 それに、カトレア殿も……大変にご無沙汰しております」
「先日はありがとうございます」
「直接お話するのは十年振りぐらい……かしら?
 お忙しいとお伺いしていましたけれど……」
「十二で家を飛び出して以来、領地にさえ帰っておりませんでしたからな」
 ワルド子爵領はラ・ヴァリエールに隣接する領地であったし、カトレアやエレオノールと歳も近い彼である、それなりに交流があったのだろうことは想像に難くない。
「子爵殿、今日は非番でいらっしゃるのですか?」
 自らを振り返るまでもなく、代官に領地を任せていようと、彼も時には諸侯としての『お仕事』をこなさなくてはならないはずだった。特に中央でも武官の花形である魔法衛士隊の隊長ともなれば、まったく社交界に顔を出さないと言うわけにもいかないだろう。
 だが、彼の返答はリシャールを驚かせるに十分だった。
「ああ、いや、魔法衛士隊は辞めてきたんだよ」
「まあ!?」
「……へ!?」
 目を丸くするリシャールたちに、力強い意志を感じさせる笑みを浮かべてワルドは頷いた。





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