ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
外伝「異界に在りて(上)」




昭和二十年X月XX日
 一一四五時、課業中敵機多数飛来シアリ、空中退避ノ令下ル。部下共々手近ナ機体ニ搭乗ス。
 一一五五時、空中集合中、敵艦載機飛来セリ。上空ヨリ優速ナル敵編隊複数ノ攻撃アリ。列機ニ退避下令後、敵機ヲ誘因シ上昇反転中視界暗転ス。
 一二三〇時、僚機ノ姿ナシ。敵影ナシ。帰投装置無反応、無線機空電ノミヲ受信ス。眼下ニ基地ナク、山嶺ニ見覚へナシ。高度五〇〇〇迄上昇スルモ海岸線確認出来ズ。
 一三五〇時、機位喪失ヲ確認。空戦域ト退避方向ヨリ母基地ヲ推測、北西方ニ機首ヲ指向ス。
 (中略)
 一六三五時、残燃料僅少、眼下ノ草原ニ着陸ヲ決意ス。



 目が覚めると、粗末なベッドの上であった。
 佐々木武雄がこの『トリステイン』なる異国に身を寄せて数日、狐に摘まれたような気分はまだ抜けきっていない。
 頭を振った彼は外がやや明るいのに気付き、借りている上着を羽織った。
 朝はそれなりに忙しいのだ。
「おはよう、村長、奥方」
「ああ、おはよう」
「ええ、おはよう、タッケーオ」
 金髪が加齢で色抜けしたと思われる淡い白髪の村長夫妻に挨拶し、武雄は手桶を持って井戸へと向かった。先ず顔を洗って軽く体操をし、次いで手桶に水を汲む。世話になっている老齢の夫妻に代わって、力仕事を引き受けているのだ。


 こちらに来た日のことは、鮮明に覚えている。忘れられようはずもなかった。
 いつものように自分に割り振られた整備作業を終え、そろそろ昼飯かと機付きの整備兵らとともに機材の片付けを行っている時に敵爆撃機襲来の放送を聞いたのだ。遠く聞こえ来る警戒警報を背に、待機していた先任らが次々と出撃していく。
 搭乗割から外れていた武雄は、ともかく機体を掩体壕に入れるべしと、小隊の部下や整備兵らと同じく出撃を外れた機体に取り付いた。
 部隊には丙戦───対重爆撃機用の夜間戦闘機───や偵察機も含まれていたから、特別な事情でもない限り、武雄が配属されている第三三七海軍航空隊、通称『辰』部隊の稼働全機が一度に出撃することはない。それに、本土の防空部隊とあって予備機の補充は余所よりも潤沢ながら定数に届かない現状、三三七空では機体よりも搭乗員の方に余裕があった。
 一機を無事掩体壕へと避難させ、それ次にかかれと走り出す。気がつけば、警戒警報が空襲警報になっていた。本気で急がねばならない。
 しかし一転、高声器より敵爆撃機の攻撃目標は当基地の公算大なり、飛行可能な機体を空中に退避せよとの令達が聞こえてきた。
「小隊長!」
「おう! 貴様らも行け!」
 武雄は装具をひっつかんで、入り口付近にあった零戦に駆け寄った。部下にも手近な機体に走らせる。

 機首のカウリングに描かれた『辰』の字が塗り込められていないところを見ると、受領したばかりの機体のようだ。真新しい機体独特の匂いがする。
 陸軍では機体に部隊章を描き入れたり、撃墜王に個人識別章を許すことも比較的多いが、海軍はそういった俗事にはあまりいい顔をしない。自分でも思うに、茶目っ気の多すぎる海軍航空隊のこと、際限がつかなくなるのだろうことは想像がつく。
 この辰の守り字からして、『上から規定の色で塗り込めてしまえば隊外の誰に気付かれることもなかろう』と、飛行隊長が発案したものだった。隊長は『辰』部隊一同大いに縁起を担ぐべしと、新しい機体が運ばれてくる度に辰年生まれの隊員を引っ張ってきては、塗料缶と刷毛を手渡しているそうである。

「おい、こいつは行けるか?」
「受領後点検と給油は終わっとります!
 給弾急ぎます!」
「了解した!」
 外部点検は危急に付き一部省略。お昼は機中になるでしょうからと整備兵より渡された笹包みの握り飯と水筒を、私物入れに使っている雑嚢に詰める。
 各部に備えられた機銃の給弾作業を横目に、深呼吸一つ。自分の機体ではないが、慣れた零戦である。いらぬ緊張はこの際不用だ。
 燃料残量よし。手断器よし。給弾の終了を確認して、武雄は大声を張り上げた。
「前離れ! エナーシャ回せー!」
 各部に取り付いていた整備兵達が離れ、残ったクランク係が二人掛かりでエナーシャハンドルを回し、弾み車の回転数を徐々に上げる。始動は音で判断するが、概ねどの機体も音が安定したらエンジンの掛け時だ。
「コンターク!」
 エンジンは一度で始動した。最近は、油紙から出したばかりの新品のプラグでさえかぶることも多いので、武雄らも気をつけている。
 昇降舵よし、方向舵よし、補助翼よし。計器板……まとめてよし。九八式射爆照準機よし、三式小型照準器よし。三式空一号無線電話機、一式空三号無線帰投方位測定器共によし。
 手信号で『各部問題なし、チョーク外せ』を指示して滑走路に出れば、二番機の山本一飛曹は彗星、三番機の高田二飛曹は月光と、ちぐはぐな組み合わせではあったが、小隊全員が機体を確保していた。ともかくも悠長なことはしていられない。平時ならば皆仲良く零戦だが、空中退避の命令下、最寄りの空き機体に乗ればこうもなる。高田機には偵察員すら乗っていなかったが、そもそもあいつ、複座機どころか双発機の操縦はやったことがあるんだろうかと、武雄は首を傾げた。
 離陸後、列機の追随を幾度も確認しながら二つあった握り飯の一つにかじりつく。
 ……茶も飲みたいところだが、その余裕はなさそうだ。
 予め決められていた空中集合場所にたどり着くと、待ちかまえていたのはヘルキャット、敵海軍の主力戦闘機だった。零戦でも苦しいヘルキャットが相手では、同じ戦闘機でも対重爆撃機用の機体である彗星や月光では更に分が悪い。
 武雄は手信号とバンクで二人に退避するよう伝え、自らは攻撃の意志ありと敵機に見せつけるべく増速し、翼の日の丸が大きく見えるように機体を傾けた。
「南無三!」
 降ってくるヘルキャットを忙しく首を回しながら確認し、左旋回。素早くスロットルを戻して横滑り。あちらも戦技の研究に力を入れているのか、巴戦の誘いに乗ってくる相手は居なかった。
 こちらは射撃位置につくことも出来ないと言うのに、編隊ごと降ってきては徹頭徹尾一撃離脱を繰り返すヘルキャットに辟易としながらも、幾度目かの急旋回と横滑りの合間に高度を維持する為に上昇反転をかけていた最中、それは起きた。
「なに!?」
 視界が光に覆われたかと思うと暗転し、一瞬、過荷重が消える。
 気がつけば、敵機も列機も見あたらなかった。

 暫く緩旋回で位置と高度を維持し機位の確認をしたが全くの不明、見慣れた山や海岸線は見えず、武雄は途方に暮れた。一旦五千メートルまで高度を上げてみるが、二百キロ以上は地上を見渡せるところが、どちらを向いても海は見えない。普段は雑音をがなり立てるのに、今日に限ってうんともすんとも言わない無線機にケチをつけながら、ともかく帰投しようと基地があると思われる北西へと進路を取ることにする。先の戦闘で被弾がなかったのは幸いだった。
 列機の山本と高田のことも心配だが、先ずは自機をどうにかせねばなるまい。
 本土ならばどの方角に飛ぼうと、この高度ならば一時間もすれば海岸線が見えてくるはず、ましてや基地は海岸より僅か数キロメートルなのだが……。
「海が見えんな。
 ますますわからん……」
 それでも暫く飛ぶうちに、道らしきものや集落が見える。
 だが着陸しようにも、肝心の飛行場が見あたらない。
 戻るよりはこのまま進んで、陸軍さんの基地でも良いからとにかく着陸して連絡をつけた方がよいだろう。
 残燃料にも不安が出てくるが、再び飛び立てるとも限らなかったから、着陸は先延ばしにせざるを得なかった。
 万が一の不時着に備え、ところどころに広がる平坦な草原や村落などを膝上の忘備録に書き入れながら、彼は跳び続けた。

「漸く海か。だがこれはどこだ?」
 やがて燃料計の表示が怪しくなりだした頃、北方に海岸線が見えてきた。日本海側だろうと思いたいところだが、もちろん、見覚えのある景色は一切なかった。
 ともかく燃料切れで墜落する前に、機体を地上に降ろさなくてはならない。陽光も傾きつつあって、遠方の視界もよくなかった。この状況での夜間着陸は、是非とも御免被りたい。
 武雄は少し内陸寄りに針路を変更した。目についた草原を航過しつつ手早く観察し、進入方向を決める。南東から進入すればいけそうだ。
 機速を落とせるだけ落とし、ゆっくりと脚を出す。問題ない。
 一発勝負だが、幸いにしてこの機体は艦上機、そう長い着陸滑走距離は必要ない。
 風は運良く前方からの風、これならば大丈夫と、さらにスロットルを絞る。接地。幾度か不規則なコブを踏んだが、草地が制動距離を縮めてくれたようだ。
 エンジンを切り、背筋を伸ばす。これだけ長い時間操縦桿を握っていたのは、武雄にとって初めての経験だった。
 呼吸を調え、操縦席にて目を閉じることしばし。
 武雄は機体から降りて行儀悪く座り込み、飛行服の懐から『ほまれ』を取り出して銜えた。末期の一本にと残しておいたが構うものかと、大きく吸い込む。
 一服、二服。旨い。……旨いが、問題が解決するわけではない。
 そもそも、ここはどこなのだろうか。
 月が二つ見えたような気もするが、目も疲れているのだろう。
 ……夕焼けが、実に美麗だ。
 

 いつの間に居眠りをしてしまったのか、気がつくと金髪碧眼の農夫らに囲まれていた。
 すわ外地まで飛んでいたかと仰天する。しかし、本土からは飛べてもシベリヤか満州がせいぜいだ。タンクが空になるまで飛んでいたが、北西で海岸線に出くわすほどの航続力は如何に零戦と言えど持っていない。
 わけがわからん。
 若干緊張しながらも農夫らに敵意がないことに安心し、半ばどうにでもなれと挨拶代わりに片手を上げてみる。
「あー……『ハロー?』」
 露西亜語圏であればお手上げだが、『こんにちは』よりは幾らかましだろう。
 英米語のイエスとノーぐらいはわかっても、海兵を出て海大に推薦されるような士官ならともかく、甲飛上がりの武雄では流暢に話すことは出来なかった。

「あんた、どこから来たんだね?」
「えっ!?」

 驚くべき事に、農夫の口から飛び出したのは聞き慣れた日本語だった。

 その後はどこから来たのか、これは何かと幾つもの質問を受け付ける羽目になり、こちらも代わりに幾つか質問を重ねた。
 わかったのは、ここが『トリステイン王国』なる国であること、彼らが飛行機を見たことがないこと、そして言葉は通じるのに日本の位置がわからないどころか、その名さえ知られていないことだけだった。
 ついでのように口にした同盟国や連合の列強国の名さえ、名前を知らないと言う。
 余程の田舎なのだろう、世界中が戦争をしているというのに、随分とのんきなことである。
「ともかく野宿は拙いだろう。村に泊まるといい」
「……すまない、恩に着る」
 結局武雄は、このタルブという村でしばらくの間世話になることにした。
 だが、どうしても気になることがある。迷いながらも指で天を指し、農夫に声を掛けた。
「ところで、あれは……」
「ああ、今日は重なっちゃいないが綺麗なもんだろ?
 もちろん村からでもあの双月は見えるが、この草原は特に見晴らしがいいからなあ」
 村人にとって、月が二つ見えるのは別段驚くようなことではないらしい。
 もしかすると富山湾の蜃気楼や熊本の不知火のように、ここでしか見られない名勝絶景なのかもしれない。
 くっきり見えるふたつの月は、確かにいい眺めだった。隊に帰ったら自慢してやろうと、武雄はもう一度空を見上げた。


「さあ、食べましょう。
 冷めてしまっては哀しいわ」
 朝食はもそもそとしているが良く詰まったパンに、隊の味噌汁よりも具が多いスープと素朴な洋食だったが、これが実に美味い。夕食になると、塩漬け肉か燻製肉を炙ったものが追加されるが、こちらも楽しみだった。
「そうだ村長、この辺りで電話や電信を使えるところはないだろうか?」
「電話? 電信!? なんじゃいそれは?
 ジェシカ、聞いたことはあるか?」
「さあ……?」
 電気どころか電話も通っていないほどの田舎では、原隊への連絡もままならなかった。ここは長期戦と腹を括り、手紙を書くかと郵便について尋ねて見るが、少し離れた港町に行けば伝書フクロウ屋かギルド間の郵便ならあると言う。フクロウ屋とは民間の郵便配達業者の屋号だろうか?
 武雄の故国では、電信・電話・郵便などの通信事業は半官半軍で逓信省の元に管理されている。国によっては郵便と電信電話が分かれていたかもしれないが、大抵は官営だ。武雄はブラジルへと移民した同窓生に手紙を送ったことを、懐かしく思い出した。
「まあ、手紙代ぐらいは出してやるから安心せい」
 数日後にワインを積んでそちらに行く用事があるのでお前も連れて行ってやると、村長は笑顔で請け合ってくれた。

 恩には義を以て報いるべし。
 武雄は食事と寝床の礼にと、真面目に働いた。
 朝夕は家畜の世話、昼は畑の草取りと、農家の息子であった彼にはそう難しい仕事ではなく、数日もすれば慣れてきた。葡萄の剪定は善し悪しが分からず、そちらは荷物運びぐらいしか手伝えないものの、そこは武雄も家主である村長も大して気にしていなかった。西欧のワイン農家であれば、日本の杜氏にも匹敵するほどに拘りを持っていても不思議はないだろう。あれらはどちらも専門の技術職であり、一朝一夕に手を出せるようなものではない。
「力仕事ぐらいしかできないが、こき使ってくれてかまわない。
 これでも体力には自信がある」
「ああ、そうさせて貰うよ。
 寄る年波には勝てんわい」
 兎にも角にも、暫くはここで過ごさなくてはならなかった。
 明らかに怪しい流れ者である自分を気負いなく受け入れてくれた村長をはじめ、村の人々には感謝している。
 それを抜きにしても、この村は居心地が良かった。
 ……良すぎて故国が戦争中であることを、忘れてしまいそうになる。出来れば早く原隊へと帰りたい。
 僚機の山本や高田は、無事に敵から逃れることが出来たのだろうか。
 基地の被害はどの程度だったのだろうか。
 気になることは沢山あるが、急がば回れ、それもこれも原隊に復帰してからだ。

 どういう具合で信用されているのか、時間が空けば村の子供を引き連れて子守り半分の散歩がてら草原の零戦の元に向かい、翼下で日本の昔話などをしてやることもある。
 ……後からになるが十四、五の子供だと思われていたと聞いて、随分と嘆息したものだ。逆に、村長宅の向かいに住む武雄と身長体格の似通った葡萄農家の青年が、実はまだ十二歳だと聞いてこちらも仰天したほどである。
「タッケーオ、またお話しして!」
「違う違う、俺の名前は武雄。タ、ケ、オだ」
「タッ、ケー、オー?」
 子供達のみならず、こちらの人々には『武雄』という名前の発音は難しいらしく、数日を経ず彼の名はタッケーオで定着してしまった。一音づつ区切って教えたのが、徒となったらしい。……ドミトリー・ドンスコイが日本だと『ゴミ取り権助』になるぐらいだ、武雄がタッケーオとなっても致し方あるまいと、武雄は無念に思いながらも受け入れた。
「ねえタッケーオ、これ鉄でしょう?
 絶対飛ばないよ」
「だよね」
「いやいや、俺はこれに乗って飛んできたんだぞ」
「じゃあこれは……フネ?」
「ポーリーヌ、フネにはでっかい帆があるって父さんが言ってたから、これは違うんじゃないかな」
「竜みたいに羽根があるから、ぱたぱた動いて飛ぶのかも!」
 子供達には残念なことに、零戦の翼は羽ばたくようには作られていない。
 それに空想科学小説じゃああるまいし船が飛ぶわけはないだろうと、武雄は苦笑して子供達を見守った。それとも、飛行船に帆でもつけているのだろうか。
 飛行機が今ほど発達していなかった時代には、大きな搭載量と長大な航続力を誇る飛行船が、遊覧や旅客輸送だけでなく、軍用飛行船として哨戒や偵察、あるいは爆撃に使われていたことを、武雄は座学で学んだ覚えがあった。
「うん、ちょっと違うかなあ」
「えー」
「じゃあタッケーオ、これは何なの?」
「これは飛行機、あー……空を飛ぶ機械なんだぞ」
「ひこうき?」
「ねえ、飛ばして!」
「すまん、もう燃料がなくて飛べないんだ」
 残念そうな子供達には申し訳ないが、ガソリンが無くては飛ばすことが出来ない。
 最悪の場合、武雄は働いてガソリンを買い集め、自力で故国へと帰らねばならないかもしれなかった。いや、この世界大戦下、国家の管理下で物資が統制されていれば、異邦人たる自分には売って貰えない可能性もある。
 だがしかし、日本男児たる者相対する苦境は乗り越えてこそ、そう簡単に諦めてはいかん。
「代わりに……そうだ、俺の子供の頃の話をしてやろうか。
 あれは尋常小学校の二年だった頃……」
 多少憂鬱な気分になりながらも、せめて今は子供達が楽しめるようにと、武雄は話題を探すことにした。

 更に数日経て、村長は約束通り荷馬車に武雄を乗せてくれた。ワイン瓶の入った木箱の上げ下ろしは、もちろん武雄の役目である。
 山道だが割に往来はあるのか、時折旅人や馬車とすれ違った。これだけ距離を稼いでも一台の自動車とも出会わないところを見ると、港町と言っても大した規模ではなさそうだ。それとも山向こうは都会なのだろうか。
 だがこちらへとたどり着く途中、機上からそれらしい場所は見あたらなかったかと思い返す。……それほど大きくない港に違いあるまい。
「ラ、……ロシェール?」
「おお、初めて見たら驚くぞ。何せ、国一番の港町だからな!」
 にやにやする村長にため息を一つつき、武雄は空を見上げた。この天気なら、往復の道中で雨に降られることはなさそうである。
「……む?」
 視界の隅に黒点をみつける。飛行機だろうか。
「どうした?」
「村長、あそこに何か居る」
「うん?」
 武雄は戦闘機乗りという仕事柄、視力はいい方だ。
 村長は目を細めて暫く武雄が指差す方角を眺めていたが、やがて相好を崩した。
「……ちょっと小さくてよくわからんが、ありゃあ王軍の竜騎士か何かじゃないか?」
「竜騎士!?」
「おう、でっかい竜に乗った騎士様がこう……びゅーんと飛んでな、ぐわーって敵をやっつけるのさ」
 手綱を放して楽しそうに手をばたばたさせる村長は、冗談を言っているようには見えない。
 徐々に大きく見えてきた黒点がやがて形を取った。
 
 ……。

 あれはなんだ? 羽根の生えた恐竜が空を飛んでいるではないか!

 信じられないことに、恐竜の上には人が乗っているのまで見て取れた。
「おー、やっぱりそうだ。
 間近で見ると恐ろしいがな、飛んでる分には格好いいもんさ」
 竜はオートジャイロほどのゆっくりとした速度で武雄らの上を飛び去り、やがて見えなくなった。

 ……もしかせずとも、ここは日本のある地球とは別世界なのではないだろうか?
 月が二つ見えるのも村の名物などではなく、この場所が異界であったからなのか?

 原隊への連絡がどうの、という問題では済まなくなってしまったような気もする。
 やがて。
 悠々と飛んでいく竜を呆然と見送った武雄の眼前には、巨大という一言で片付けるには大きすぎる大樹が見え始めていた。
「……この数日で、もう残りの一生分驚いた気がするな」
「そうだろうとも。
 あれを初めて見る者は貴族様から旅商人まで、みんな驚くと決まっとる」
 村長は武雄の言葉を誤解しているようだが、訂正する気力もない。
 ちなみに大樹の周囲には、文字通りの意味で『帆を掛けた船』が悠々と行き来していた。

 これ以上、まだ俺に驚けと言うのか。
 ラ・ロシェールに到着した武雄は、再び驚愕する羽目になっていた。
 大きな倉庫の前で荷馬車からワインを降ろして村長の用は終わったが、ここからが武雄にとっては本番である。
 呆れたことに大樹そのものが港であり桟橋であり、空を飛ぶ帆掛け船を『フネ』と呼び、更には伝書フクロウ屋は本当にフクロウが手紙を運ぶ店だった。追い打ちを掛けるように、貴族様は魔法が使えるぞと言われたが、そこまで行くともうどうにでもなれという気分になり、かえって落ち着いてきた。
「しかし魔法を知らないとなると、タッケーオ、お前さんは余程遠くから来たのかもしれんな」
「遠いには遠いが、どう説明したらよいものか……」
 どうにも要領を得ないと気付いた村長に連れられて向かった港の待合所で、航路の記入された簡単な地図を見せて貰う。
「ここがトリステイン、あちらがガリア……」
 指で示された国々や地形は何となく欧州に似通ってはいたが、武雄の知っている国は一つもない。……唯一、ゲルマニアは同盟国ドイツの英語綴りをローマ字読みしたような名前で位置も近いが、首都はベルリンではなくヴィンドボナとこれまた違っている。西欧史に詳しければ他にも気付くような部分があるのかもしれないが、そんなものは帝大の学士様でもないとわかるまい。
 これはいよいよもって異なる世界に迷い込んだのだなと、武雄は大きく息をはいた。
「ところで、君はどこの出身なんだ?」
「日本だ。大日本帝国」
「……聞いたことがないな」
「この地図に載っているか?」
「もしかしたら……このあたり、になる……のかもしれない」
 武雄はもしもここがヨーロッパであれば日本は大体この辺かなと、壁に貼られていたハルケギニアの地図から大きく外れた東側を、力無く指した。
 村長と港の係官が顔を見合わせる。
「……お前さん、ロバ・アル・カリイエから来たのか」
「ろば……何だって?」
「ロバ・アル・カリイエ。ここからだと、東の東のそのまた向こうの国になるかな」
「恐ろしいエルフの住処の向こう側だからな、誰も行ったことがないんだ」
「エルフ?」
「おいおい、エルフも知らないのか?」
 聞けば耳の長い、凶悪無比でとても残虐非道な種族が東に国を作っており、おかげでその向こうには行った者はいないそうだ。確かに、地図はその辺りで途切れている。
「しかしタッケーオ、王都の伝書フクロウ屋どころか、竜でもそこまでは飛んで行けんぞ……」
「だろうな……」
 一度は括った腹から、力が抜けそうだ。
 これはもう、ガソリンを手に入れて自力で帰るしかないのかもしれない。

「なあ、村長」
「うん?」
 ラ・ロシェールで一泊しての帰路、武雄は気持ちを入れ替えていた。
 ……ガソリンを手に入れられないことが、ほぼ確定したのである。
 空を飛ぶフネはあったがやはり飛行機はなく、エンジンのついた車は木炭自動車さえ存在していないらしい。引き馬なしで走る馬車なんぞ貴族でも持っていないだろうと、笑われてしまう始末である。
「……金が欲しい。
 どこか働き口はないだろうか?」
「金か。……何に使うつもりだ?
 手紙の件は残念だったが……うん、まあ、中身と金額次第では出してやらんこともないぞ」
「いや、有り難いがそうじゃないんだ」
「……」
「もう飛べない」
「……」
「帰れないこともわかった。
 だから……生活費を稼ぎたい」
 帰れないなら、ここで生きて行くしかない。
 村長は余計なことを言わず、武雄の肩をぽんぽんと叩いて笑顔を向けてくれた。



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