ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
挿話その十一「お姫様と魔法の眼鏡」




「姫様、リシャールが戻ってまいりましたわ」
「ありがとう、ルイズ」
 うーんと一つ伸びをしたアンリエッタは、茶杯をメイドにまかせると前庭に向かった。
 お忍びを楽しんだ翌日であるヘイムダルの週エオーの曜日、やはりアルビオン親善艦隊未着の影響によって日程の調整に式典担当者が手間取っていたのか、昼間に少し時間が空いたので、昨夜の礼を言うついでにとルイズと二人リシャールを再び召し上げたのだ。
「お待たせいたしました。
 こちらが私の使い魔、アーシャです」
 彼はこちらの求めるままに、使い魔の竜を連れて来てくれた。竜に乗って空からラグドリアン湖を見てみたいと、わがままを言ってみたのだ。
 その希望はラ・ポルト経由でマリアンヌの知るところとなり、その日の警護担当だったヒポグリフ隊の騎士まで巻き込んだ大事となった。
 思いついてすぐに行動できるほど、王女に自由はない。それに、余り目立たないようにとマリアンヌからは釘も刺されたが、アンリエッタの希望はなんとか叶えられることに決まった。
「あら、意外と大人しいのですね」
「はい、使い魔ですし、優しい子なんです」
「アーシャはかしこいんですよ、姫様。
 ちゃんと挨拶もしてくれますもの」
「きゅー」
「まあ、本当に。よろしくね、アーシャ」
「きゅ」
 大きくて恐い印象は、すぐに消し飛んだ。リシャールの竜はちょこんと頭を下げてから、こちらに首を伸ばしてきたのだ。人なつっこいのだろうか。
 こちらからも近寄って撫でてみる。初めて触れてみる竜は、硬いのに温かい不思議な感触だった。
 アンリエッタも竜篭に乗ったり、同じく周囲を竜騎士に護衛されたりすることはあったが、実際に触れるのはもちろん初めてだ。
「きゅい」
「こうしてみると、かわいいわね。
 最初はちょっとこわかったけれど……」

 普通の竜は何かのきっかけで暴れ出すと、竜篭の御者や竜騎士たちでさえ手に負えなくなることがある。同じ幻獣でも老成したマンティコアならば大人しくするよう直接言い聞かせることも出来ようし、ユニコーンやヒポグリフならば数人でかかれば取り押さえることも無理ではなかったが、空の暴君たる竜に自国の姫を近寄らせるようなことは誰もしない。
 ゆえに、主人であるリシャールは少女達が自分の使い魔と戯れているのは微笑ましいことだとのんきに眺めていたが、周囲を固める魔法衛士隊の騎士達はそれなりに警戒をしていた。主人とともにいる使い魔は総じて大人しいが、万が一があればほぼ確実にセルフィーユ子爵の首が飛ぶし、自分たちも始末書や謹慎は免れ得ないのだ。

「ではまいりましょうか」
「ええ、お願い」
 先にアーシャへと跨ったリシャールは、アンリエッタとルイズをレビテーションで順繰りに持ち上げた。
 アンリエッタは、自分で飛ぶのとは違い、ふわふわと不思議な感触を味わった。自らの魔法に慣れているからこそ、落ち着かないというあたりだろうか。余談だが、あまり王族に魔法をかける者はいないせいでもある。
 リシャールはアンリエッタらが自分の前に収まったことを確認し、杖を掲げて護衛の騎士達に合図をした。
 アンリエッタのお出かけ専属にされたのか、先日白馬でお忍びの黒馬車を固めていたヒポグリフ隊の騎士達である。今日は本来の騎獣であるヒポグリフに騎乗していた。
「風が気持ちいいわね」
「ええ、遠くまでよく見えますわ、姫様」
 竜はヒポグリフを従え、宿営地全体をぐるりと見渡すように空を翔けた。
 ゆったりとした速度で、風が気持ちよい。私用に竜が欲しいと望んだらお母様に怒られるかしらなどと考えてみるが、聞くまでもなく竜篭にしなさいと言われそうだった。
「リシャール、湖に近寄って」
「はい、姫殿下」
「きゅい」
 彼が改めて命ずるまでもなく、竜は返事をすると湖のほとりにすーっと降りていった。
 ルイズの言うように、確かにかしこい竜のようだ。何かと卒のないリシャールにはお似合いだろう。
 同じ湖畔でも静かな方がよいかと、宿営地の少しはずれに降りる。
 護衛の騎士達は上空に一騎を残し、周辺を探るためか地上に降りると素早く散っていった。
「あ、つめたい」
「きもちいいわ」
 これでようやく、アンリエッタも間近にラグドリアン湖の眺めを楽しむことが出来たのだ。
 湖水に手を浸すと、疲れまで取れていくようで気分がいい。湖に入りたいところだが、子供のようにドレスの裾をまくりあげて足をつけるわけにもいかず、少し残念に思う。
 しばらく眺めていると、湖の深い色に吸い込まれそうな気分になった。ここは水の精霊の棲む場所でもあるのだ。水を司る王家の一員として、血脈の中に水に惹かれる何かが伝えられているのかもしれない。
「昨日のことは、ルイズには内緒よ」
「はい、姫殿下」
 ルイズが僅かに席を外したその隙に、アンリエッタはこっそりとリシャールに釘を刺しておいた。彼がお忍びのことを吹聴するかと自問すれば、そんなことはないと言い切ってもいいだろうが、気分の問題である。
 同じ秘密を共有することには楽しい部分もあるのだと、アンリエッタは知っていた。

 湖での散策はとても僅かな時間に思えたが、こればかりは仕方がない。元から入っていた予定ではないし、わがままと公務の狭間でせめぎ合った結果の、ぎりぎりの妥協点のだ。
 午後には二人を帰し、臨時に組まれた、遠方からのあまり重要でない客人の相手に追われるアンリエッタだった。
「姫殿下、続きましてのお客様はアウグステンブルク王国の大使殿です。
 ゲルマニアの北方、北の海に面しまする小国ながら……」
 合間合間に次の客人の出身国についての資料をラ・ポルトから渡されて即座に詰め込んでいき、話し終えるとすぐにそれを一瞬で忘却して次の資料を読み込む。切り替えをきっちりしておかないと、話題が混ざってしまってよろしくないのだ。
 母などは、名前を聞いて小さな話題を思い出すぐらいで丁度いいのよと言うが、まだまだその域には達していないアンリエッタでは、きれいさっぱり忘れたほうが問題が起きにくい。仲の悪い客人同士などはかち合わないようにとの配慮は為されているが、当のアンリエッタが話題に出してそれをぶち壊すわけにはいかなかった。ラ・ポルトの小言が増えるだけならば良いが、母に迷惑をかけるのは論外だ。
 昨日のことを思い出して普段よりも少しだけ真面目に挨拶を受け取っていたアンリエッタだが、退屈さは変わらないものの、客人らのお国柄の出る細かな作法の違いや独特の言い回しの違いに、小さな楽しみをみつけていた。

 午後かなりも遅くなった頃、ようやく公務を終えたアンリエッタは、余裕なく夜会の準備に取りかかった。ふと思いついて、昨日の眼鏡を持ち出す。
 トリステインの主催であるため、既に母は娘を置いて会場へと向かっていた。馬車に乗るのももどかしく、会場へと急ぐ。
 少々慌てながら会場入りしたアンリエッタを、眼鏡をかけたルイズが迎えてくれた。
「あら、ルイズも眼鏡?」
「はい、おねだりしたら、リシャールが作ってくれましたの。
 姫様とおそろいですわ」
 ルイズがくいっと眼鏡をあげる仕草が可愛かったので、真似をしてみる。
「そういえば、眼鏡をかけている人が多いわね」
 若い女性限定のようであるが、会場を見渡したアンリエッタが気付く程度には眼鏡の女性が増えていた。きっかけや噂の出所、そしてその真実まで知っている身としては、とても面白く見える。
 やはり、先日の舞踏会で三人をひっぱたいたエレオノールに、それでも恋人が出来たということが影響しているのだろうか。
 ラ・ヴァリエールの秘宝こと『恋人の出来る魔法の眼鏡』という大きな噂の影で、エレオノールが恋人候補をひっぱたいたとの噂も、ひっそりとではあるが囁かれているのをアンリエッタは知っていた。そのことが、より魔法の眼鏡の噂を裏打ちしているのだった。
 それとも、魔法の眼鏡でなくとも、見た目の雰囲気が変わることで気分が新たになることに、自分と同じく皆も気付いたのだろうか。
 今後はイヤリングや髪飾りのように、眼鏡も装身具の一つに数えられることになるかも知れない。そのうち、本当に魔法を付与された『恋人の出来る魔法の眼鏡』が作られるのだろうか。
「でも、おもしろいものね。
 噂が立ったのはまだ数日前のことなのに……」
「姫様、ちいねえさまに昔教わりましたが、噂話は一夜で火竜山脈を越えるそうですわ」
「まあ大変。
 今頃はとうに、ロマリアの向こうまで届いているわね」
「うふ、そうですわね」
 くすくすと二人で笑ってから、噂の中心たるエレオノールの恋路の成就を願って乾杯をする。
 アンリエッタは少しだけ苦手にしていたが、エレオノールが時折見せる笑顔がとても素敵なことは知っていた。
 それに、公爵家に遊びに行った際などには、家庭教師として色々と教わった恩師でもあるし、幼い頃にルイズと取っ組み合いの喧嘩をした時などには、二人して怒られたこともあった。その時はただただ恐いだけだったが、母以外では後にも先にも王女たる自分を本気で怒鳴って叱ってくれた唯一の人だ。あのカリーヌ夫人でさえ遠慮をしていたのに、エレオノールはきちんと叱ってくれたのだ。今のアンリエッタにとって、それはとても大事な思い出でもある。
「ルイズ、もう一度乾杯しましょう」
 お相手のバーガンディ伯爵にも幸多かれと、アンリエッタは再びグラスを軽く掲げた。

 しかし、その日の大夜会を無事にこなしたアンリエッタだったが、やはりまた、退屈の虫が騒ぎ出していた。
「むにゃ……」
 先ほどまでは同じベッドでお喋りをしていたルイズも、今は寝息を立てている。
 先日のお忍びで気も晴れていたはずだと自分でも思うのだが、どうにも収まらない。むしろ、お忍びに目覚めてしまったのかと悩むほどだ。
 王宮での普段の暮らしでは考えもしなかったが、ラグドリアン湖畔の宿営地で過ごすうちに、羽を伸ばすことに慣れてしまったのかも知れない。本当はいけないとわかっていながらも、気持ちが抑えられなかった。
 それに十重二十重に配置された騎士たちの守りも堅く、城壁も高くて厚い王宮とはちがい、厳重でこそあるものの、杖を振って窓から飛びだせば、前庭の壁の向こうはすぐそこであった。ほんの一瞬でたどり着けるだろう。
「……」
 誰にも見つからずにこっそりと出て行って、こっそりと戻ればいいだけのこと。
 アンリエッタは決断した。
 ルイズを起こさないようにそっと寝床を抜け出し、窓辺に近づいて外の様子を窺う。
 階下には、篝火の僅かな照り返しを受けながら巡回をする騎士があちらこちらに見えた。これなら大丈夫そうだ。
 彼らの顔がこちらを向いていないことを確認すると、アンリエッタは風を通すように少しだけ開けられている窓を、体が通るぐらいまで押し開けようとした。
 ぎいいいいいい。
 窓枠の軋む音が思いの外大きな響きとなり、アンリエッタは身をすくめた。当然騎士達にも緊張が走り、顔が一斉にこちらを向く。
 こちらの顔は半ば引きつっていたはずだが、表情までは見えなかったのか、彼らは窓を開けたのが部屋の主人だとわかると、警戒を解いて敬礼を捧げてから、巡回へと戻っていった。大方、暑いので窓を開けたとでも思われたのだろう。
「……はあ」
 くやしいが、これでは流石に抜け出すことは無理だった。
 思いつきで行動するのは、よくなかったかしら。
 綺麗な輝きを放つ夜空の双月がうらめしい。
 アンリエッタは明日こそ必ず抜け出して見せるわと強く心に決め、眠りについた。

 翌日、知恵を絞ったアンリエッタは、昼の内に『次のお忍びの用意よ』と偽って見事にラ・ポルトからフードのついたマントをせしめ、更には音が気になるからと窓も修理させ、ご満悦であった。更には衣装箱より目立たない色のドレスをこっそりと取り出し、ベッドの下に隠しておく念の入れようである。
 公務の最中から気もそぞろで幾度かラ・ポルトより小言を貰ったが、あまり効果はなかったと自分でも思う。
 夕刻からのガリア主催の夜会には、ここで油断してはいけないと、自ら気を引き締めて望んだおかげで、こちらは何事もなく終わった。
 アンリエッタはここ数日で、声が大きくてやることなすこと豪快な、新しいガリア王が苦手になっていたのだ。
 あれならば、マザリーニに似た老獪さが見え隠れするものの、ゲルマニアの皇帝の方がまだましだった。客人の選り好みは出来ないが、伯父に当たるアルビオン王が、大好きだった父王に似ていることを願うだけである。アルビオン王とは幼い頃に会った覚えはあるのだが、幼すぎた故に人柄までは覚えていなかったのだ。
 だが、そのアルビオンは到着延期の知らせがあったきりで、関係者らをやきもきさせていた。しかし、アンリエッタがお忍びに出かけることが出来たのはそのおかげなのだから、何が幸いするかわからない。
 そして。
 彼女が待ちに待った夜が、ついにやってきた。
 今日はルイズは居ないので、メイドを下がらせてからすぐ準備に取りかかる。音を立てないように気を配りつつ、ドレスを身につけ、マントですっぽりと体を覆う。毛染め薬はなかったが、眼鏡で変装することも忘れない。
 昨日よりも気を使いながら、そっと窓を開ける。大丈夫だ、音はしない。
 アンリエッタはごくりと息を飲み込んだ。
 階下で巡回をする騎士達は、昨日とさほど変わらない動きだ。
 後は騎士が少なくなる時を見計らい……と思ってアンリエッタは息を潜めていたが、急に騒がしく騎士達が動き出した。グリフォンに騎乗した貴族が忙しく指示を出している。あれはグリフォン隊のワルド子爵だろうか。
 だがそれは、アンリエッタのいる部屋からは注意が外れたということでもあった。これを逃す手はない。
 よし、今よ!
 杖を一振りしてフライの魔法を唱えると、もうそこは建物の外であった。
 巡回の騎士は建物の外には居ない。これで自由だわと、アンリエッタは湖の方に向けて足取りも軽く歩き出した。
 彼女にとっては幸いなことに、夜のかなり遅い時間にもかかわらず出歩いている者がちらほらいるし、馬車も行き来していた。これならば目立つこともあるまい。
 彼女はその年齢や生まれ故に知らなかったが、夜会や舞踏会の後の時間というものは、社交界ではそれなりに重視されていた。若い恋人達ならば逢瀬に、またあるものは日のあるうちは憚られる密談の為にと、理由は様々である。特にこの園遊会のように、ハルケギニアの各国が一堂に会する機会はそれほど頻繁にあるわけではなかったから、大国小国を問わず、後者の理由で人が動くことは多かった。
 アンリエッタは知らなかったが、更に今夜は特別な要素があった。
 つい先ほど、ようやくアルビオンの親善艦隊が到着したのだ。
 政治や外交に殆ど縁もなく、恋人と逢いたいからと任務を疎かにするような者が居ないはずの魔法衛士隊の騎士達が、夜にも関わらず忙しく動いていたのは、これが理由であった。

 アンリエッタは道なりに歩いていた。湖の大凡の方角は分かっていたが、詳しい道筋までは知らなかったのだ。
 少し不安になるが、人通りがちらほらとあるので大丈夫だと自分に言い聞かせる。
 見覚えのある迎賓桟橋の影を見て安心すると、アンリエッタはそのまま
大きな通りを進んでいった。
 先ほどまでよりも人通りが増えていたが、四半刻も歩いた頃だろうか、多少大きな水音が聞こえた。
 湖が近いようねと興味を惹かれたアンリエッタが、道から外れてその音に近づいてみると、大きな何かが水浴びをしていた。
「ひっ!?」
「きゅー?」
 驚いて悲鳴を上げそうになったが、そののんびりとした声には聞き覚えがあったので、ほっと胸をなで下ろす。
「アーシャ!? アーシャね?」
「きゅい」
 じゃばじゃばと水をかき分けて、リシャールの竜はこちらへとやってきた。
 きちんとアンリエッタを見分けてくれたらしい。
 先日と同じように、アーシャは小さく頭を下げて挨拶をしてきた。安心したせいもあり、アンリエッタはくすくすと笑った。
「こんばんわ。
 あなたも湖に遊びに来たの?」
「きゅ」
「わたくしもそうなの。でも、リシャールには内緒にね?」
「きゅい」
「ありがとう」
 人ならばアンリエッタも警戒もしただろうが、相手は使い魔だった。見かけによらず、彼女が大人しいことも知っている。
 他にも何か話しかけてみようかと思ったとき、アーシャはついっと首をもたげて、宿営地の方角を見た。
「あら、どうかしたの?」
「きゅー」
 少しだけアンリエッタに視線を向けたアーシャは、先ほどと同じように小さく頭を下げると、ばさっと翼を広げて宿営地の方に向けて飛び去ってしまった。
「リシャールに呼ばれたのかしら……?」
 アンリエッタは使い魔を召還していないので詳しいことまでは知らないが、見えないほどの遠くにいても、主人が呼べば使い魔はその元へと駆けつけるそうだ。もしかしなくとも、彼女もリシャールに呼ばれたのかも知れない。夜中に呼ばれるなんて使い魔も大変ねと嘆息をする。
 一人になったアンリエッタは、マントを敷物にしてその場に座り込んだ。
 昨日と違って双つの月が優しく見えたので、ごめんなさいと心の中で謝っておく。
 しかし、ここは本当にいい場所だ。静かで綺麗で、居心地がいい。
 誰も居ない場所など、王宮にはない。
 投げ出すことの許されない王女としての日常はアンリエッタにも理解できるし、大事なものであるとも思う。だが、少女としての心では、割り切れないものがあまりにも多すぎた。
 もしも市井の少女か小貴族の娘にでも生まれていれば、今頃はなにをしていただろう。園遊会の華やかさを噂に聞いて、一喜一憂していただろうか。それとも、自分には関係のないことと、日々の暮らしや目の前のことに追われていただろうか。
 しばらくのんびりと夜景を眺め、つらつらとありもしない想像を繰り返していたアンリエッタだが、ついっと顔を上げると、誰もいないことを確かめてから、おもむろに着ていたものを脱ぎだした。
 マントの上にドレスを畳むとその上に眼鏡をそっと置き、彼女はぱしゃりと湖に入ると、そのまま頭まで湖水に体を沈めた。
「ぷはっ!」
 水はそれなりに冷たかったが、開放感に満ちていてとても気持ちのいいものだった。やはり、水はいい。水の家系に生まれたことを、小さく始祖に感謝する。
 ぱしゃりぱしゃりと水音を立てながら、アンリエッタは水の感触を楽しんでいた。アーシャが泳いでいた気持ちもよくわかる。
 だが、不意に誰かの気配を近くに感じ、アンリエッタは泳ぐのをやめた。
「誰っ!?」
 鋭い誰何の声に、人影はがさりと音を立てた。

 だが後々になって思い返せば、それは本当に運命の出会いだったと彼女には思えた。
 それこそ、あれだけ退屈に思えていた園遊会がずっと続けばいいのにと思うほど、その出会いは彼女の心のあり方さえ変えてしまっていた。

 数日後、いつものようにルイズのエスコートをして夜会に現れたリシャールに、アンリエッタはちょいちょいと手招きをした。
「リシャール、少し耳を貸してちょうだい」
「はい?」
 同じぐらいの身長なので無理に背伸びをしなくても良かったが、リシャールは僅かに屈んだ。
「リシャール」
「はい」
「ありがとう。
 あなたは本当に、『恋人の出来る魔法の眼鏡』の作り手だったのね。
 ……うふふ、すごい魔力だったわよ」
「はい!?」
「えっと、姫様? リシャール?」
 驚いて目を白黒させるリシャールと、きょとんとこちらを見るルイズの対比がおかしくて、アンリエッタはくすくすと笑い続けた。
 『大事な姫君』に何事かあったのかと思って近づいてきた、アルビオン王国の皇太子ウェールズが遠慮がちに声をかけるまで、それは続いた。






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