ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
挿話その十「お姫様と素通しの眼鏡」




 ラグドリアン湖畔での園遊会も四日目となったフレイアの週、ダエグの曜日。
 トリステイン王国の王女アンリエッタ・ド・トリステインは、同席している遊び相手のルイズ・ド・ラ・ヴァリエールが、冷や汗を流すほどに荒れていた。
 先ほどまではルイズも別室に控え、アンリエッタもガリアやゲルマニア、それに聞いたこともないような小国の客人のご機嫌伺いを受け取っていた。その後、本日の予定は以上ですと侍従のラ・ポルトより告げられ、二人で休憩することにしたのだが……。
「もう、うんざりだわ!」
「姫様……」
「園遊会は、まあいいでしょう。行事のおかげで退屈な勉強もしなくて済むわ。
 ラグドリアン湖もいいわね。王城にいるよりはずっと開放的だし、眺めも新鮮ですこと。
 でも……」
「で、でも?」
「夜会も舞踏会も晩餐会も、同じような人と同じような挨拶を交わすばかり!
 明日からは、更にアルビオンのお客様が増えるのよ。
 おべっかと、媚びた笑みと、ええっと……他にもまだ何かあったかしら?
 とにかくもう、うんざりなのよ!」
 ふーっ、ふーっと、肩で息を切らせて一国の王女らしからぬ勢いで憤るアンリエッタに、ルイズはどうしてよいかわからずおろおろとしていた。
「姫様、お、落ち着いてください」
「ごめんなさいね、ルイズ。
 あなたがこうして側に居てくれるだけでも、わたくし、恵まれていますわね」
 ひとしきり文句を言い終えたアンリエッタは、ようやく年相応の少女から一国の姫君に戻った。ルイズもほっと胸をなで下ろす。
 残りの時間は多少はぎくしゃくとしながらも、ガリアより手みやげにと持ち込まれた、ガリア南方産のローゼルで煎れた香茶を楽しむ二人だった。
 今夜はトリステイン王家主催の大舞踏会が催される。夕刻の開会前には、それぞれ着飾ったり化粧をしたりと忙しくなるのだ。
 帰りの馬車の中、園遊会はまだ四日目なのにこんなに大変なんて、姫様は本当におかわいそうだとルイズは思った。
 
 翌日のヘイムダルの週、虚無の曜日。
 今日もまた忙しくて退屈な一日になるのかしらと、アンリエッタは朝からため息をついていた。
 ルイズは慰めてくれるが、だからと言って園遊会でのお役目がなくなるわけではない。自分は王女なのだから仕方のないこととは理解できているし、人前で王女たるを投げ出すような醜態を晒さないだけの分別はつけているが、それでも、もう少しなんとかならないのかと思ってみたりもする。
 お母様が王女時代をどのように過ごされていたのか今度聞いてみましょうと、アンリエッタは考えた。
 その母、マリアンヌは流石に忙しいらしい。主会場で会うことは多いが、宿営地の建物で会うことはほとんどない。来客の予定がこれでもかと詰まっているのだ。会場入りしてからはいかなるときも常に王族らしく振る舞い続ける母に、いつ休憩をされているのかしらと首を傾げたりもする。
「姫殿下、今日のご予定について変更がございましたので、お知らせに参りました」
「何かしら、ラ・ポルト?
 今日の大きな予定はアルビオン親善艦隊の歓迎式典と詩吟の会、それに晩餐会でしたわね」
 茶杯を入れ替えに来たメイドとともに、侍従のラ・ポルトがやってきた。彼はアンリエッタにとって、公私の区別無く一切の生活を取り仕切る忠臣であった。
 ただ、信頼と忠節に揺るぎはないが、彼は生きた予定表かつ歩くお小言でもあるので、少しばかり煙たく思うこともある。
「はい。
 アルビオンの親善艦隊が数日遅れて到着することになりましたそうで、歓迎式典も延期になりましたのです。
 これに伴いまして明日行われる予定でありました昼食会なども、全て延期となります」
「まあ」
「急なお呼び出しをするやもしれませぬが、詩吟の会まではご自由に過ごされて結構でございます。
 本日も、ラ・ヴァリエール家のルイズ様がお越しになられると伺っておりますが……」
「遊びに行くのは禁止、なのでしょう?」
「ご理解いただいておりますようで、ラ・ポルトめは感激でございます」
 丁寧な礼をしてみせるラ・ポルトに遠回しな諫言を感じてしまうのは、日頃のやりとりのせいだろうか。
 それでも、昨日までよりは楽に過ごせるかしら。
 アンリエッタは少しだけ気楽な気分で、ラ・ポルトの退出を見送った。
 しかし。
 結局その日も僅かばかり休憩が延びたぐらいで、詩吟の会は退屈極まりなかったし、晩餐会も予定されていた顔ぶれが少し入れ替わった程度で、大した違いがあったようには思えなかった。
 面白かったのは、噂になっていたラ・ヴァリエール家の秘宝『恋人の出来る魔法の眼鏡』が、実はセルフィーユ子爵の手による品だとルイズが教えてくれたことぐらいだろうか。
 他にもルイズが何か言っていた気がするが、よく覚えていない。
 でも、もっとたくさんの話をしたかったと、惜しみながら見送ったことは思い出せる。
 今日のような日にこそ、泊まりに来てくれればいいのに。
 ぎいいいいいい。
 アンリエッタは窓を開け放ち、風を吸い込んだ。僅かに水の匂いも感じ取れる、よい風だった。
 そのまま少々はしたなく、ベッドの上にぽんと体を投げ出す。
「……」
 明日はどんな日になるかしら。
 寝具にくるまって考え事をしながら、いつの間にかアンリエッタは眠りについた。

 だが、翌日は朝から少し違っていた。予定を伝えにラ・ポルトが来ることは朝のお決まりだったが、母マリアンヌが顔を見せたのである。
「アンリエッタ」
「お母様!?」
 母のためにと開催されている園遊会である。普段とは違い、マリアンヌが忙しく来客の応対に追われていることは、アンリエッタも知っていた。
 そのマリアンヌが娘の元に現れるのは珍しいことだ。
「退屈そうね、アンリエッタ」
「そんなこと……」
 この園遊会場に到着してからはほとんど会って話もしていないのに、一目見ただけでずばりと自分の内心を言い当てられたことに、アンリエッタは顔を赤くした。
「そうそう、ラ・ポルトとも相談したのだけど……」
「はい、お母様?」
「あなたも知っているでしょうけど、今日の予定はアルビオンの皆様との予定が殆どだったのよ。
 ですのでわたくしは今日一日、休暇をいただくことにしました。
 だからアンリエッタ」
「はい」
「あなたも今日はゆっくり過ごしなさいな。
 ……それとも、どこかに遊びに行ってみる?」
「よろしいのですか!?」
 何をしようかと、アンリエッタは大きく笑みを浮かべながら思考を巡らせた。
 遠出は無理でも、ラグドリアン湖はすぐそこにあるのだ。
 ルイズを誘って船遊び、それとも湖畔でピクニックがいいだろうか。
 窓から眺めることはあったが、初日に大勢のお供を連れて軽く散策をしただけで、湖水にさえ触れることのなかったアンリエッタだった。
 しかし、マリアンヌがにっこりと笑って付け加えた一言が、想像の翼を畳ませてしまった。
 
「ただし、お忍びになるわね」

 母親らしい優しげな態度で、アンリエッタを抱き寄せたマリアンヌは、先を続けた。
「お客様が遅れているからと遊びに行ったのでは、体裁が悪いのよ。
 判るわね、アンリエッタ?」
「……はい」
 船遊びは無理らしいと、アンリエッタは残念に思った。
 何をしにラグドリアンまで来たのかしらと思わないでもなかったが、ここはお忍びでも出かけられるだけましかもしれない。
 しかし、お忍びという言葉は知っていても、アンリエッタにはそのような経験は一度もなかった。
「さすがに一人で行かせるわけにはいかないけれど……そうね、今夜はクルデンホルフ家の夜会があったかしら」
「夜会、ですか?」
「ええ、もちろん身分を隠して足を向けるのだから、面倒な挨拶や外せない談笑もないわ。
 淑女としての慎みと礼節を忘れなければ、目に付いた人と自由に過ごしても構わないのよ」
 その口振りと雰囲気から、母は幾度もお忍びで夜会に忍び込んでいたに違いないと、アンリエッタは思い至る。それに、そのことを話す母は楽しそうだ。忍んで行った夜会で、良い思い出を得たに違いない。
「では、ルイズを誘って……」
「だめよ。
 あなた達二人では、狼の群に羊を投げ込むようなものだわ。
 しつこい殿方にでも目を付けられたとして、上手くかわせるかしら?」
 そう言われると、余り自信のないアンリエッタである。確かにルイズと二人では、互いの手を握りしめて困り果てるぐらいしか出来そうにない。
「少なくとも、何かあった時にあなたを守れるだけの強い人でないといけないわ。
 それに、きちんとエスコートをしてくれる人でないと、あなたも楽しめないわね。
 ワルド隊長やド・ゼッサール隊長は……エスコート役としても護衛としても申し分ないけれど、お仕事が立て込んでそうね。それに、顔が知られすぎているかしら。
 えーっと……」
 母は考え込んでいるのか、ぶつぶつと人の名前が漏れ聞こえてくる。
 アンリエッタも考えてみたが、普段から王宮で顔を見る騎士や法衣貴族らの顔ぶれを思い浮かべてみても、エスコートされて嬉しいような相手は思いつかなかった。
 逞しくて戦場では頼りになりそうな騎士たちは残念ながら繊細さに欠け、エスコート役には申し分のない法衣貴族たちは、優雅ではあってもいざというときの盾としては少し不安だ。彼らが口先だけは達者でも、今ひとつ信用のおけないことは、アンリエッタも何となく肌で感じている。
 マザリーニなどは、アンリエッタに聞かせるためか、憚ることなく彼らへの不満を漏らしているので、幾人かは名前を覚えてしまったほどだ。
 他にも若手の貴族の幾人かを思い浮かべてみるが、どれもぱっとしない。アンリエッタの知る彼らは、ガチガチに固まるか鼻の下が伸びているかの、どちらかが多かった。ねちっこい視線をおくられる事もある。
「あまり年かさの方でも困るわね、浮き名を流してらっしゃる方も多いし……。
 そうだわアンリエッタ、セルフィーユ子爵はどうかしら?」
 セルフィーユ子爵……リシャールのことだ。
 でも、どうだろうか?
 彼はカトレア『ねえさま』の夫でもあるから信用は置けそうだが、身長はアンリエッタと似たり寄ったりで、見かけは少し頼りない。エスコート役としては申し分ないのかもしれないが、護衛としては大丈夫なのだろうかと心配になる。
「リシャールは余り強そうに見えませんが……」
「あら、そうかしら?」
 母はくすくすと笑っていたが、考えてみれば、先に思い浮かべた貴族たちよりは随分とましかもしれなかった。それに、同い年の男の子にしては落ち着いている方だし、会ったこともない誰かを宛われて窮屈な思いをするよりはいい。
 アンリエッタはしばらく逡巡してから結論した。
「では、リシャールに決めます」
「そうと決まれば準備ね。
 うふふ、お忍びはお忍びで大変なのよ?」
「はい、お母様」
 マリアンヌは文机へと娘の手を引いていき、そのままそこに座らせた。
「せっかくですもの、あなたもこの機会に幾つか学んでおきなさい。
 ……まずは召喚状の書き方ね」
「召喚状?」
「ええ。
 王家の一員として、これからはあなたも国内の貴族に対して命令を下す場合があるでしょう。
 そのための練習だと思いなさい」
 あれこれと指示を出すマリアンヌが楽しそうで、母に手ずから何かを教えて貰うなどいつ以来だろうかと、アンリエッタも小さな笑みを浮かべる。
 母に手伝って貰いながらも、セルフィーユ子爵への召喚状とモンモランシ伯爵への命令書の用意、魔法衛士隊からの随員の選抜など、お忍びの為とは言え公務に近い仕事量に多少閉口しながらも、アンリエッタは準備を進めていった。
「でもお母様、どうしてルイズにまで内緒なのです?
 リシャールはルイズのお義兄さんですが……」
「そうね、でも、彼女も公爵家の娘なのよ。
 ……わかるわね?」
 どういうことなのか、アンリエッタにはよくわからなかった。重ねて聞いても、母は自分で考えなさいと言うばかりである。
 もっとも、思いつきで行かせるお忍びにルイズまで連れ出しては、カリーヌから厳しいお小言を貰いそうだからという実に個人的な理由を知ったとすれば、アンリエッタも流石に呆れたに違いない。
 さて、書き上がったばかりの、毛染め薬を作成せよというモンモランシ伯への命令書はマリアンヌの一筆とともにそのままラ・ポルトが預かっていったが、セルフィーユ子爵への召喚状の方には、マリアンヌがまたなにか思いついたようだった。
「せっかくですから、彼女にも一つ、お役目を学んで貰いましょうか」
「ルイズにも、ですか?」
「昨日と同じように、もうすぐここに来るのよね?」
「はい、お母様」
「彼女にお忍びのことを悟られないようになさいね。
 これもあなたが学ぶべき事の一つでもあるのだけれど……」
 マリアンヌは王家の一員たる者簡単に胸の内を晒しては云々と、アンリエッタが不思議に思うほど珍しく熱心に講義すると、更に一計を案じ、ルイズを王室よりの使者として立てることを提案した。

 昼食後、アンリエッタはルイズとともにしばらくお茶を楽しんだ後、いつものように彼女を午睡に誘った。
 ルイズが寝息を立てるのを見計らい、こっそりとベッドを抜けだして母の部屋へと向かう。
「お母様」
「アンリエッタ、こちらの準備は出来ているわよ」
 母とともに、既に呼ばれていたらしい魔法衛士隊のド・ゼッサール隊長が、臣下の礼でアンリエッタを迎えた。
「リシャール……セルフィーユ子爵は今日、ラ・ヴァリエール公と一緒にガリアの宿営地へ向かったそうよ。
 昼過ぎには戻ると聞いていますから、つかまえるなら今のうちね。
 それからド・ゼッサール卿には、使者殿の護衛をお願いしてあるわ。
 馬車もあなたのユニコーンの馬車を用いなさい。
 王政府に諮った公の勅使ではないけれど、あなたの代理なのですからね」
「はい、お母様」
「本当はお忍びにはここまでの準備は必要ないのだけれど、アンリエッタにも少しは判ってもらえたかしら?
 でも覚えておきなさい」
 知らぬ間に巻き込まれたリシャールには少し申し訳ないかも知れないが、これも勉強とアンリエッタは頭を切り換えた。
 それに、遊びに行きたい気持ちはやはり強かったのだ。
 
 寝入り端はかわいそうかと半刻ほどしてからルイズを起こし、マリアンヌらに見守られてお互いに苦笑しながら彼女に命令を下す。跪くまでは普段の様子だったが、勅命と聞いた途端ルイズはガチガチに緊張し、ド・ゼッサールに支えられるようにして馬車に乗せられていった。
 ルイズを送り出すと、今度は自分の用意に慌てるアンリエッタだった。
 母によればお忍びにはお忍びなりの約束事があるらしく、目立たない衣装に華美でない装飾品、但し見る人が見れば家格の判る品の良いものを選びなさいとのことであった。頭を悩ませながら、衣装係のメイドたちとともに夜会着を選ぶ。
 半刻ほどかけて選ばれた衣装は、普段はあまり着ない大人びたものに、銀細工のついたペンダントであった。ティアラ代わりの髪留めこそ用意したが、髪は後ほど染めるので普段と同じく降ろしたままにしておく。
「使者殿が戻られました。セルフィーユ子爵様を伴われています」
「こちらに通して」
「はい、かしこまりました」
 モンモランシ伯からは毛染め薬は夕刻前にお届けに上がると返書が届いていたから、それに間に合えばいいのだが、リシャールにはもう一つのお願いがあったのだ。
 畏まるルイズらに礼を言い、リシャールを立たせると、彼も多少は緊張しているらしい様子である。
「ああリシャール、畏まらなくてもいいの。
 お立ちになって」
「失礼します」
 立ち上がるリシャールを見て、やはり線が細いなと思う。ちょっと頼りない感じだ。
 それでも召還した表向きの理由である眼鏡のことを聞いてみると、ルイズの言ったとおり、彼の作ったもので間違いないらしい。だがその眼鏡は、『恋人の出来る魔法の眼鏡』ではないことも間違いないようだった。始祖にまで誓われては、それ以上は言えなかった。
 アンリエッタも、内心で少しは期待していたのだ。恋人がいればどれほど楽しいだろうかと、夢想することも度々である。ルイズのことも多少は羨ましかった。彼女からは、仮の婚約者がいると聞いている。
「ですが姫殿下、全く同じものならば、作ることはそう難しくはありません。
 お命じ戴ければ、すぐにでも」
 気を使ってくれたのか、魔法の眼鏡ではないが、リシャールはアンリエッタに眼鏡を作ってくれるようだ。アンリエッタは眼鏡を持っていないし、かけたこともなかった。少し興味はあるし、噂の出所となったエレオノールの眼鏡の作者自らの申し出である。
 それに、今夜のお忍びにはぴったりに思えた。髪を染めることも合わせ、変装するなど生まれてはじめてであることに気付いたアンリエッタは嬉しくなって、その申し出を受けることにした。
 さて眼鏡の件はこれでおしまいだが、もう一つ、本命が残っている。ルイズとド・ゼッサールを退出させると、サイレントを唱えてから早速切り出す。
「早速だけどリシャール、先ほどの眼鏡の件とは別に、あなたにお願いがあります。
 いいこと、これはルイズにも内緒ね?」
「はい、姫殿下」
「今夜わたくしを伴って、夜会に出席していただきたいの」
 あまりに説明不足かと幾らか付け加えると、リシャールはすぐに理解したようだった。
 だが、母マリアンヌの言葉に更に驚かされたアンリエッタである。
「リシャールなら安心だわ。
 結婚もなさっているし、その愛妻家振りも公爵ご一家からたっぷりと聞かされていますもの。
 その上貴方は、あの『烈風』カリンの弟子なのでしょう?
 娘の護衛としても、頼りにしていますね」
「まあ、それは本当ですの!?
 『烈風』カリン! かつてトリステイン最強を謳われた、伝説の騎士ではありませんか!」
 数々の伝説に彩られた『烈風』カリンは実在の人物であるが、アンリエッタにとっては物語に出てくる伝説の騎士同様の、強烈な憧れの対象であった。これならば、護衛としても十分だろう。母が推薦するのも頷けた。
「おほん。
 ……ともかくも眼鏡とエスコートの件、お願いしますわね」
「はい、姫殿下」
 照れくさそうにしながらも頷くリシャールが、ただの線の細い少年ではなく、小柄故に動きの素早い騎士に見えてくる。
 お忍びにひとつ楽しみが付け加えられたわねと、リシャールの退出をアンリエッタは笑顔で見送った。

 その後再びルイズを呼んで彼女を労い、休憩を兼ねた雑談に興じた。多少はアンリエッタ自身も気疲れがあったらしい。気兼ねなく過ごせるルイズとの時間は、貴重なものだとアンリエッタは始祖に感謝した。
 リシャールには『密命』を与えたので帰りが遅くなると公爵家・子爵家関係者への伝言を頼み、私もこれから少し忙しくなるのと彼女を送り出す頃には、もう夕方に近くなっていた。
 着替えなどの自身の準備を終え、母と相談して自分とリシャール用の偽名を用意する。アンリエッタ・ド・トリステインという名は大事な名前だが、偽名は偽名でわくわくとした感情がわき上がってくるのが自分でも判った。
 それにしてもたくさんあるものだ。紙に書き連ねられた名前は三十近い。
 その中で、響きが良さそうで短い名前を選ぶ。
「では、アンリエッタは今からしばらく『アン・ド・カペー』ね。
 ふふ、わたくしも、その家名を使ったかしら」
「お母様も!?」
「ええ。
 元はひいひいお婆さまの、ご実家の名前だったかしら。
 古い歴史を持つ名家だったけれど、一人娘だったひいひいお婆さまの預かりになったと聞いているわ」
 他の名前も聞けば由来がありそうで興味を惹かれたが、時間が迫っていることもあって、リシャールを呼びに行かせる。彼の方も既に準備を終えていた。
 眼鏡は待つほどのこともなくすぐに出来上がり、アンリエッタは早速手にとって鏡を覗き込んでみた。
 度の入っていない素通しの眼鏡だが、見慣れた自分の顔が別人に見えて面白い。眼鏡一つでこれほど雰囲気が変わるのねと、アンリエッタの気分は高まった。あれこれと角度をかえて、何度も鏡をのぞき込む。
「そうそう、わたくし、今日は『アン・ド・カペー』ですから、リシャールも間違えないで下さいましね?」
「はい、『アン』様」
「だめよ、『アン』と呼びなさい」
「……では失礼をして『アン』、と」
「よろしい」
 同世代の異性から呼び捨てにされるのは初めてで、これも新鮮に聞こえる。
 ほどなくモンモランシ伯も到着し、金髪に眼鏡と、噂になったエレオノールのような組み合わせでアンリエッタのお忍び支度は完成した。

「アン、夜会は逃げませんよ?」
「でも本当に楽しみなのよ、『ロベール』卿」
 リシャールを引っ張って黒馬車に乗り込む頃には、アンリエッタも完全に舞い上がっていた。ここ数日で見慣れた夕景さえもが、美しく見えてくる。
 隣に座るリシャールは先と代わり映えのない姿だったが、ガリア宿営地への訪問後とあって、夜会に出席しても礼を失さない正装であった。マントだけは無紋のものが用意されている。
「そういえば、カトレア殿のご様子は?
 舞踏会場では詳しく聞けなかったから……」
「ありがとうございます、順調です。
 まだそれほどお腹が目立つわけではないですが、皆で楽しみにしていますよ」
「もちろん、わたくしも楽しみだわ」
 カトレアの子供とあれば、アンリエッタにもそれだけで楽しみだった。さぞやかわいい子が産まれるだろう。母が遊びに来たルイズをかわいがって構いつけるように、きっと自分も甘やかすに違いない。それはとても楽しい想像であった。
 しかし、同い年のリシャールが父親になるというのは、不思議な気分でもある。アンリエッタは未だ恋も結婚もしていないが、彼はその先を進んでいた。
 差が付けられている、とまでは思わないが、少しだけ悔しい気分だ。
 それにエスコート役としては申し分ないのかもしれないが、自分が隣にいるのに照れもせず普段通りに見えるのは癪だった。
 容姿だってトリステインの花と囁かれるほどには整っているし、胸も……カトレアには負けるが、年回りを考えれば大きい方だと思う。
 彼が浮気をするなどありえないとアンリエッタでさえ思うが、少しぐらいはこちらを見てくれてもいいような気がする。
 それとも、彼は本当にカトレアしか眼中にないのだろうか?
 ちょっとだけ意地悪をしてみようかしらと、アンリエッタは軽い気持ちで考えた。
「間もなく到着いたします」
「ありがとうございます」
 護衛の騎士へと返事をするリシャールは、やはり落ち着き払っているように見えた。
 馬車を降りて、差し出された手に腕を絡め、歩き出すようにしてそのまま体を押しつける。
 ほんの僅かに自分の頬が赤くなるのを自覚したが、彼は全く動じなかった。他愛のない会話を交わしながら会場まで歩いたがそれは変わぬままで、アンリエッタの心にはもやもやとしたものが浮かんだ。
 わたくしは魅力的ではないのかしら、姫君だからこそみながちやほやしてくれるのかしらと、不安がよぎる。
 しかし、彼と話すうちにわかったこともあった。
 彼が彼なりに、アンリエッタを重要視して真面目に考えてくれていることと、そして……。
「私も男ですからね。
 浮気は絶対にしませんけれど、美人がいるならやはり近寄って眺めてみたいものなのです」
 彼も、アンリエッタのことを見ていないわけではなかったのだ。現金なものだと自分でも思ったが、揺らいだ自信はすぐ元に戻った。
 明日からはリシャールに免じて、退屈でしかなかった挨拶も、嫌み半分で聞いていたご機嫌伺いも、もうちょっとだけ真面目に受け取ろう。
 アンリエッタは肘鉄一つでそれまでのもやもやを消し飛ばし、顔だけは怒った様子を見せながらも、機嫌良く会場を巡った。
 ただ一つ残念だったのは、リシャールに作らせたこの眼鏡に、恋人の出来る魔法が掛かっていなかったことだろうか。
 素通しのレンズに、大人しいデザインの弦。丁寧につくられてはいるが、普通の眼鏡だ。
 それでもレンズ越しに見る景色は普段と違って見えたし、それは気分を新たにしてくれた。
 帰りの馬車でリシャールにもたれてうつらうつらとしながら、次のお忍びはいつできるかしらと思いを馳せるアンリエッタであった。






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