ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
挿話その九「暗雲(前)」




 アルビオン。
 それは、ハルケギニアの上空三千メイルほどに浮かぶ浮遊大陸の名であり、またそこに暮らす人々を統べる王国の名でもあった。
 大陸下部にかかる霧から、白の国などという名前でも呼ばれるこの美しい国は、先年来不穏な出来事が多く続き、貴族平民を問わず人々を暗い気分にさせていた。
 王族とて例外ではない。
 アルビオンの首都であるロンディニウムでは、アルビオン国王ジェームズ一世が顔にはそれと表さず、それでもやはり暗い気分のまま政務に時間を割いていた。
 昨年の末に、表には出せない事情から実弟モード大公を討ってこの方、人のあるなしに関わらずジェームズ一世は無表情を貫いていることが多い。周囲も気遣ってか、そのことを口に出すものはいなかった。
 窓の外は明るい日差しに満ちていたが、彼の気分を表してか、幾分陰りのあるようにも見える。
 トリステインで開かれる園遊会への出発は数日後に控えていたが、それとても国王陛下は気鬱の一つに感じておられるらしいと、侍従達は囁きあっていた。

「陛下、失礼いたしますぞ」
 午後の休憩には少し早い時間、王の執務室へと軍務卿レストンがやってきた。彼までもが不機嫌というわけではなかったが、何やら難しい顔をしての入室である。
 レストンは、さっと手を振って室内の侍従たちを下がらせた。古参の臣下として、この程度の信用は得ている。
「レストン、どうした?」
「は、陛下。
 先日報告のありました、王国北部に出没しておった空賊めは撃破出来たのですが……少々不愉快なことになっております」
 海のないアルビオンでは、全ての航路で空中船舶が使われている。そして、街道に荷馬車を狙う野盗がいるのと同様、王立空軍が常時警戒に当たっている主要航路以外では、空賊が出没する頻度は低くなかった。地方航路では、平時でもフネが船団を組んで航行することがある。全ての空域に軍艦を派遣すれば国としての採算がとれなくなるから、こればかりは仕方がない。
「ふむ、続けよ」
「はい、捕らえた賊の中に、貴族籍に名を連ねる者が複数混じっておりました。
 その者らはまあ、どうということはない小者ですが、後ろに控えている諸侯が問題でして……」
 アルビオンは北部と言わず南部と言わず、独立独歩の気風が強い土地柄であった。今でこそ一国に統一されているが、過去には正統を主張する二家が、王国を二つに割って内戦を繰り広げたことがあったほどだ。その勝者であるテューダー家が現王家としてこのアルビオンを統べているのであるが、数百年を経た今も形骸化していない派閥として根深く残っている。特に北部、それよりもやや勢力は小さいながらも西部の諸侯と、王家を含む南部諸侯の間には、先祖伝来の仲の悪さとも気風の違いとも決めつけがたい深く澱んだ川が流れている。
 これまでも政治軍事を問わず互いの足を引きあったり、壮年期で分別もあるはずの諸侯同士が些細なことから決闘に至ったりと、アルビオンの国内統治上の大きな問題とされてきた。
 今回の一件も、挑発と牽制の我慢比べと言うにはあまりにも影響力が大きいが、ジェームズ一世はそれらを一蹴した。
「どこの家だ?
 グレンジャーか? それともスターリングか?」
「それに加えて、南西部のダンスターあたりも一枚噛んでおるようですな。
 先年の小麦価格の暴騰やら色々とありましたからな、不満の種はどれなのか、一つに絞ることは難しく思います」
 王は心中の諸々を嘆息一つで表すと、レストンに命じた。
「ともかくも背後の三家を調べよ。
 明らかな証拠が出るなら良し、出なくとも牽制にはなろう」
「心得ました」
 王の執務室を退出したレストンは、その足で貴族院議長の元を訪れた。陛下の御裁可が降りたので予定通りにと、短く告げる。そちらには件の諸侯らの予備調査を任せることになっていた。この程度の根回しを先に済ませておけないようでは、軍の頂点に居座り続けることは難しい。
 更にレストンは部下を呼びつけ、南部にあるアルビオン最大の軍港ロサイスへと伝令を向かわせた。白黒何れにせよ、空軍に対して出動準備命令は行わなくてはならない。全ての軍艦を即応状態にするわけでもないが、出動の準備はそれ自体が牽制にもなるのだ。レストン個人としては、燻った火種は厄介だが、派手に燃え上がる炎よりは随分ましだと思っている。
 彼が退出してしばらく。
「幾百年の歪みが、またぞろ吹き出してきおったか……」
 王は窓の外に目をやり、一人呟いた。

 翌々日、夕刻に近い時間になってロサイスより小さな艦隊が到着した。航路警戒に充てられている艦艇のうちから、フリゲートを含む数隻が分派されてきたようだ。
 実働部隊を任せている本国艦隊司令官のジョージ・ブレイクが、命令の意味を履き違えることなく過不足のない部隊を送ってきたことに、レストンは満足を覚えた。今の段階では牽制に十分であるし、それ以上の意味はない。
 軍艦は空に浮かべておくだけでも湯水のごとく金を食うが、それが必要な場合もある。今頃ロサイスでは、戦列艦を含む有力な艦隊が出撃の準備を整えているはずだった。国家の威信はともかくも、本気だぞと見せる為の必要経費としては、はてさて安いのか高いのか……。
 そこまで思いを巡らせたその時、足音に気付いたレストンは、いらぬ考えを振り払った。
「閣下、王太子殿下がお見えです」
「お通ししてくれ」
 ほどなく、皇太子ウェールズが入室してきた。ウェールズは未だ十代の若者と呼ばれる歳だが、高齢の父王に代わり、王の取り仕切る実務の一部は彼の手に委ねられている。正式な宰相や摂政ではないが、ほぼそれに近い扱いを周囲からも受けていた。
「ウェールズ殿下」
「レストン、レストン! 忙しくなりそうだぞ!」
 開口一番、ウェールズは挨拶もなしに書類束をレストンに突きつけた。
 受け取ったレストンは書類を斜め読みし、皇太子の勢いある態度の訳を理解した。
「……グレンジャー侯爵の逮捕および同侯爵家の廃爵、でありますか」
「そうだ。
 父上は、いや、陛下はご決断なされた。
 私も先ほど聞かされたばかりだが、貴族院議長だけでなく内務卿の方からも注進があったようでね、不自然な点が多すぎるそうだ。
 これを以て事前に叛乱の目を摘み取るとともに、諸侯への牽制と為す、との仰せだ」
 貴族院の方からは、当然ながらレストンにも調査資料が回されていた。しかし、内務卿まで動いていたとなると、これは本物かも知れない。
「確かに忙しくなりそうですな」
「ふむ、慶事は定むものなれど……」
「凶事は時を待たぬもの、ですな」
 皇太子の呟いた古い諺に相槌を打ち、黒と出ましたかとレストンは頷いた。
 考えていた以上の、まったく恐るべき速度で事態が進行していたようだ。
 今からロサイスに竜使を送っても、編成に戦列艦を含めれば艦隊の到着は早くとも明後日となる。牽制だけで済ませるはずが、全ての手配りが台無しになったことに、レストンは内心で舌打ちをした。読みが甘過ぎたとまでは思わないが、面倒なことにはなったようだ。
 単に逮捕するだけならば、そこまでの戦力は必要ない。
 しかし、自棄になったグレンジャー侯が組織だった抵抗を試みた場合、ロサイスから派遣されてきた数隻のフリゲートだけでは少々心許ないのだ。
 それなりに大きな家であるグレンジャーは、メイジを含む領軍とともに数隻のフネを所有していた。だがそれらのフネは、調べさせた時には既に航路上にはなく、全てが領地へと帰っていたのだ。
 その全てが商船とは言え、侮ることは出来ない。武装を施せば私掠船として十分に通用するフネは多かった。フリゲートを凌駕するどころか、戦列艦と相打ちに持ち込んだ逸話を残しているフネさえあるほどだ。
 捕らえに行ったはいいが、返り討ちにされては元も子もない。それこそ国家の威信に関わる。
「単なる逮捕劇で済ませられると良いのですが、とてもそうなるとは思えませぬ。
 何れにしましても、ロサイスよりの増援が到着するのは明後日以降のことになりましょう。
 ……早手回しが仇になりましたかな」
「ロンディニウム駐留の艦隊は使えない……か」
 無論、アルビオンの首都たるロンディニウムにも艦隊はある。国王陛下のお膝元とあって当然練度も高いが、今は時期が拙かった。主力はトリステインで行われる園遊会へと向かう親善艦隊としての準備が、きっちりと整えられているのだ。
「陛下と殿下がトリステインへと出立なさる予定は、明後日でしたか。
 出航の準備は無論整っておりますが、手早く事を済ませても、場所がグレンジャーでは往復に四日はかかりますな」
「往復四日か……いや、少し待っていてくれ。
 陛下にお伺いを立てよう」
 ウェールズはレストンの返事も聞かず、入ってきたときと同じように勢いよく退出していった。
 若いだけに色々と言われる王太子だが、少なくとも見敵必戦の空軍魂はお持ちのようだとレストンは頷き、ウェールズ『海軍中将』の期待に応えるべく、艦隊に出撃の準備を始めさせた。

 数刻後、皇太子ウェールズは艦上の人となっていた。
 夜間の航行とあって高度こそ高く取っているが、秩序の保たれている各艦の行動にウェールズは満足していた。ロンディニウム駐留の艦隊は無論のこと、急遽艦隊に組み入れられた形になったロサイスの艦にも不安はないようだ。
 ウェールズのいる貴賓室まわりは艦隊司令部とされ、参謀や担当士官たちが集められている。先ほどまではウェールズも加わっていたが、今も彼らは作戦に問題がないか検討を繰り返しているはずだ。
 いま貴賓室に呼ばれている男は、法務を担当する王政府の文官であった。彼はウェールズが王の代理人として、逮捕状やその他の法的手続きを執行する場合に於いての補佐及び相談役として同行していた。
「この季節には珍しく、風が強いようだね?」
「そうですな。
 艦長が言うには、捕まえにくいと言うほどではないそうですが、到着時刻は奥に若干ずれ込みそうである、とのことです。
 ……しかし殿下、自らが赴かれずとも宜しかったのでは?」
 早期の決着、可能ならばグレンジャー侯の激発を押さえ込む為に、ウェールズは自らグレンジャーへ乗り込むことを早々に決めていた。無論、興味本位の物見遊山ではない。皇太子としての地位で威圧できれば、余計な戦が一つ減らせる。
「陛下の名代を誰かに任せるにしても、人選に手間取って時間を浪費するのは愚かだからね。
 せっかく頂戴した特別のご許可が無駄になる。
 ふふ、それに相手は侯爵だ、皇太子ならば突然訪ねても失礼には当たるまい?」
 ウェールズの進言を聞いたジェ−ムズ一世は、園遊会参加の予定が遅れることもやむなしと、親善艦隊に組み込まれていた艦艇をグレンジャーに向けることを即断した。
 これを受けてウェールズは、親善艦隊として出航する予定だった戦列艦のうち、御召艦として砲を半分ほど降ろされていた『ヴァリアント』を除く三隻を主力として、ロサイスより派遣されてきたフリゲートなどを含めた計十二隻を率いてロンディニウムを出立したのだ。同行する陸戦隊や竜騎士まで含めれば、グレンジャー側が少々戦力を増やしたところで力押しさえ出来よう。
「しかし、グレンジャーには驚かされたよ。
 大陸の端にあるのをいいことに、独立を狙っていたとはね」
「捕らえられた者たちが自白したところによりますと、正統なる王権の復旧と、我がアルビオンよりの独立が目的であるとか。
 正統なる王権を主張するならば独立の必要はないと、私などには思えますが、それはともかくも……。
 まあ、それこそ諸侯各家、過去の王朝の血を一滴も含んでいないことの方が不思議ではありますが、幾つか判りかねることもございます」
「旗印にしても、グレンジャーではな。
 いささか血が薄いかな?」
「はい、より正統に近い他家をさしおいての旗揚げ、解せませぬ。
 それにあのような北の端では、多少土地が肥えていたところで、すぐに行き詰まりを見せましょう。
 そのまま国として成り立つとは、とても思えませぬな」
 グレンジャーは、アルビオン中の各諸侯領の中では確かに豊かな土地ではあるのだが、いかんせん、アルビオンは他国と違って空中に浮かぶ大陸であった。独立に他国からの支援を受けようにも、多少ならず面倒な位置取りなのだ。
 採算を低く見積もるならば、航路を大きく迂回させることで、大抵の港はハルケギニア大陸の各地と交易を結ぶことも出来る。だが、近隣諸侯との連携も見えてこないこの状況で、立国とその後の維持を考えるならば下策という他はなかった。
「そうだね。
 ……私ならばどうするかな?
 他国からの援助を引き出し、王家と対立するに十分な理由を持ち出して周囲も巻き込むか……」
「今のグレンジャーには、そのどちらも欠けておるように思われます。
 前者の理由を通そうとした場合、援助はおろか他国に接触したとの報告さえありませぬから、これは否定されます。
 後者ならば、南西部のダンスターはともかく、隣り合うスターリングに動きがないことが、逆に解せませぬ。
 同じ空賊仲間だと聞き及んでおりましたが……」
 ウェールズも、頭の中で状況を整理してみる。
「スターリングらは、独立までは望んでいなかったのかも知れないね。
 王家に対する嫌がらせついでに、航路を締め上げて利益も得た。
 そこまでで済めば、さぞや満足だっただろうに。
 案外、私たち以上に驚いているかな?」
「かも知れませぬな」
「素直に縄につくならばよし、そうでないならば……」
「そうでない対応を、ですな。
 どちらにせよ、私としましてはその後の方が頭が痛くあります」
「まったくだ。
 時ならぬ大掃除、になるかな」
 ウェールズは努めて明るく振る舞おうとしていたが、目前で畏まる文官の表情を見る限り、それは失敗に終わったようであった。

 翌々日、本来ならばトリステインへ出立する日であったが、ウェールズの艦隊はグレンジャー侯爵領に達しようとしていた。
 大きな領地ではあるが、城までは竜であればほんのひと飛び、フネでも半刻はかかるまいという距離だ。既に高度は落とし、全艦が戦闘の準備を整えている。天気がよいので、山霞もなく遠くの景色までよく見えた。
「いよいよですな」
「ああ、参謀長。
 艦長も予定通りに」
「は、殿下。
 ……使者の準備は出来ておるか?」
「竜使、発艦準備よろし」
「よし、出せ」
「こちらも行くぞ。副長、信号旗用意、『我ニ続ケ』!」
「アイサー」
 ウェールズの下命を合図に艦隊は陣形を変えた。旗艦である二等戦列艦『ヴィジラント』を中心として左に戦列艦、右にフリゲートを配し、艦隊は両翼を広げた鳥のように横へと広がる。
 あとはグレンジャー侯爵の態度次第だが、彼が必ず抵抗すると決まったわけではないから、艦隊より軍使が先行するのだ。
 ウェールズは腕を組み、眼下に広がるグレンジャー領を見据えた。






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