ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
挿話その九「暗雲」




 アルビオン。
 それは、ハルケギニアの上空三千メイルほどに浮かぶ浮遊大陸の名であり、またそこに暮らす人々を統べる王国の名でもあった。
 大陸下部にかかる霧から、白の国などという名前でも呼ばれるこの美しい国は、先年来不穏な出来事が多く続き、貴族平民を問わず人々を暗い気分にさせていた。
 王族とて例外ではない。
 アルビオンの首都であるロンディニウムでは、アルビオン国王ジェームズ一世が顔にはそれと表さず、それでもやはり暗い気分のまま政務に時間を割いていた。
 昨年の末に、表には出せない事情から実弟モード大公を討ってこの方、人のあるなしに関わらずジェームズ一世は無表情を貫いていることが多い。周囲も気遣ってか、そのことを口に出すものはいなかった。
 窓の外は明るい日差しに満ちていたが、彼の気分を表してか、幾分陰りのあるようにも見える。
 トリステインで開かれる園遊会への出発は数日後に控えていたが、それとても国王陛下は気鬱の一つに感じておられるらしいと、侍従達は囁きあっていた。

「陛下、失礼いたしますぞ」
 午後の休憩には少し早い時間、王の執務室へと軍務卿レストンがやってきた。彼までもが不機嫌というわけではなかったが、何やら難しい顔をしての入室である。
 レストンは、さっと手を振って室内の侍従たちを下がらせた。古参の臣下として、この程度の信用は得ている。
「レストン、どうした?」
「は、陛下。
 先日報告のありました、王国北部に出没しておった空賊めは撃破出来たのですが……少々不愉快なことになっております」
 海のないアルビオンでは、全ての航路で空中船舶が使われている。そして、街道に荷馬車を狙う野盗がいるのと同様、王立空軍が常時警戒に当たっている主要航路以外では、空賊が出没する頻度は低くなかった。地方航路では、平時でもフネが船団を組んで航行することがある。全ての空域に軍艦を派遣すれば国としての採算がとれなくなるから、こればかりは仕方がない。
「ふむ、続けよ」
「はい、捕らえた賊の中に、貴族籍に名を連ねる者が複数混じっておりました。
 その者らはまあ、どうということはない小者ですが、後ろに控えている諸侯が問題でして……」
 アルビオンは北部と言わず南部と言わず、独立独歩の気風が強い土地柄であった。今でこそ一国に統一されているが、過去には正統を主張する二家が、王国を二つに割って内戦を繰り広げたことがあったほどだ。その勝者であるテューダー家が現王家としてこのアルビオンを統べているのであるが、数百年を経た今も形骸化していない派閥として根深く残っている。特に北部、それよりもやや勢力は小さいながらも西部の諸侯と、王家を含む南部諸侯の間には、先祖伝来の仲の悪さとも気風の違いとも決めつけがたい深く澱んだ川が流れている。
 これまでも政治軍事を問わず互いの足を引きあったり、壮年期で分別もあるはずの諸侯同士が些細なことから決闘に至ったりと、アルビオンの国内統治上の大きな問題とされてきた。
 今回の一件も、挑発と牽制の我慢比べと言うにはあまりにも影響力が大きいが、ジェームズ一世はそれらを一蹴した。
「どこの家だ?
 グレンジャーか? それともスターリングか?」
「それに加えて、南西部のダンスターあたりも一枚噛んでおるようですな。
 先年の小麦価格の暴騰やら色々とありましたからな、不満の種はどれなのか、一つに絞ることは難しく思います」
 王は心中の諸々を嘆息一つで表すと、レストンに命じた。
「ともかくも背後の三家を調べよ。
 明らかな証拠が出るなら良し、出なくとも牽制にはなろう」
「心得ました」
 王の執務室を退出したレストンは、その足で貴族院議長の元を訪れた。陛下の御裁可が降りたので予定通りにと、短く告げる。そちらには件の諸侯らの予備調査を任せることになっていた。この程度の根回しを先に済ませておけないようでは、軍の頂点に居座り続けることは難しい。
 更にレストンは部下を呼びつけ、南部にあるアルビオン最大の軍港ロサイスへと伝令を向かわせた。白黒何れにせよ、空軍に対して出動準備命令は行わなくてはならない。全ての軍艦を即応状態にするわけでもないが、出動の準備はそれ自体が牽制にもなるのだ。レストン個人としては、燻った火種は厄介だが、派手に燃え上がる炎よりは随分ましだと思っている。
 彼が退出してしばらく。
「幾百年の歪みが、またぞろ吹き出してきおったか……」
 王は窓の外に目をやり、一人呟いた。

 翌々日、夕刻に近い時間になってロサイスより小さな艦隊が到着した。航路警戒に充てられている艦艇のうちから、フリゲートを含む数隻が分派されてきたようだ。
 実働部隊を任せている本国艦隊司令官のジョージ・ブレイクが、命令の意味を履き違えることなく過不足のない部隊を送ってきたことに、レストンは満足を覚えた。今の段階では牽制に十分であるし、それ以上の意味はない。
 軍艦は空に浮かべておくだけでも湯水のごとく金を食うが、それが必要な場合もある。今頃ロサイスでは、戦列艦を含む有力な艦隊が出撃の準備を整えているはずだった。国家の威信はともかくも、本気だぞと見せる為の必要経費としては、はてさて安いのか高いのか……。
 そこまで思いを巡らせたその時、足音に気付いたレストンは、いらぬ考えを振り払った。
「閣下、王太子殿下がお見えです」
「お通ししてくれ」
 ほどなく、皇太子ウェールズが入室してきた。ウェールズは未だ十代の若者と呼ばれる歳だが、高齢の父王に代わり、王の取り仕切る実務の一部は彼の手に委ねられている。正式な宰相や摂政ではないが、ほぼそれに近い扱いを周囲からも受けていた。
「ウェールズ殿下」
「レストン、レストン! 忙しくなりそうだぞ!」
 開口一番、ウェールズは挨拶もなしに書類束をレストンに突きつけた。
 受け取ったレストンは書類を斜め読みし、皇太子の勢いある態度の訳を理解した。
「……グレンジャー侯爵の逮捕および同侯爵家の廃爵、でありますか」
「そうだ。
 父上は、いや、陛下はご決断なされた。
 私も先ほど聞かされたばかりだが、貴族院議長だけでなく内務卿の方からも注進があったようでね、不自然な点が多すぎるそうだ。
 これを以て事前に叛乱の目を摘み取るとともに、諸侯への牽制と為す、との仰せだ」
 貴族院の方からは、当然ながらレストンにも調査資料が回されていた。しかし、内務卿まで動いていたとなると、これは本物かも知れない。
「確かに忙しくなりそうですな」
「ふむ、慶事は定むものなれど……」
「凶事は時を待たぬもの、ですな」
 皇太子の呟いた古い諺に相槌を打ち、黒と出ましたかとレストンは頷いた。
 考えていた以上の、まったく恐るべき速度で事態が進行していたようだ。
 今からロサイスに竜使を送っても、編成に戦列艦を含めれば艦隊の到着は早くとも明後日となる。牽制だけで済ませるはずが、全ての手配りが台無しになったことに、レストンは内心で舌打ちをした。読みが甘過ぎたとまでは思わないが、面倒なことにはなったようだ。
 単に逮捕するだけならば、そこまでの戦力は必要ない。
 しかし、自棄になったグレンジャー侯が組織だった抵抗を試みた場合、ロサイスから派遣されてきた数隻のフリゲートだけでは少々心許ないのだ。
 それなりに大きな家であるグレンジャーは、メイジを含む領軍とともに数隻のフネを所有していた。だがそれらのフネは、調べさせた時には既に航路上にはなく、全てが領地へと帰っていたのだ。
 その全てが商船とは言え、侮ることは出来ない。武装を施せば私掠船として十分に通用するフネは多かった。フリゲートを凌駕するどころか、戦列艦と相打ちに持ち込んだ逸話を残しているフネさえあるほどだ。
 捕らえに行ったはいいが、返り討ちにされては元も子もない。それこそ国家の威信に関わる。
「単なる逮捕劇で済ませられると良いのですが、とてもそうなるとは思えませぬ。
 何れにしましても、ロサイスよりの増援が到着するのは明後日以降のことになりましょう。
 ……早手回しが仇になりましたかな」
「ロンディニウム駐留の艦隊は使えない……か」
 無論、アルビオンの首都たるロンディニウムにも艦隊はある。国王陛下のお膝元とあって当然練度も高いが、今は時期が拙かった。主力はトリステインで行われる園遊会へと向かう親善艦隊としての準備が、きっちりと整えられているのだ。
「陛下と殿下がトリステインへと出立なさる予定は、明後日でしたか。
 出航の準備は無論整っておりますが、手早く事を済ませても、場所がグレンジャーでは往復に四日はかかりますな」
「往復四日か……いや、少し待っていてくれ。
 陛下にお伺いを立てよう」
 ウェールズはレストンの返事も聞かず、入ってきたときと同じように勢いよく退出していった。
 若いだけに色々と言われる王太子だが、少なくとも見敵必戦の空軍魂はお持ちのようだとレストンは頷き、ウェールズ『海軍中将』の期待に応えるべく、艦隊に出撃の準備を始めさせた。

 数刻後、皇太子ウェールズは艦上の人となっていた。
 夜間の航行とあって高度こそ高く取っているが、秩序の保たれている各艦の行動にウェールズは満足していた。ロンディニウム駐留の艦隊は無論のこと、急遽艦隊に組み入れられた形になったロサイスの艦にも不安はないようだ。
 ウェールズのいる貴賓室まわりは艦隊司令部とされ、参謀や担当士官たちが集められている。先ほどまではウェールズも加わっていたが、今も彼らは作戦に問題がないか検討を繰り返しているはずだ。
 いま貴賓室に呼ばれている男は、法務を担当する王政府の文官であった。彼はウェールズが王の代理人として、逮捕状やその他の法的手続きを執行する場合に於いての補佐及び相談役として同行していた。
「この季節には珍しく、風が強いようだね?」
「そうですな。
 艦長が言うには、捕まえにくいと言うほどではないそうですが、到着時刻は奥に若干ずれ込みそうである、とのことです。
 ……しかし殿下、自らが赴かれずとも宜しかったのでは?」
 早期の決着、可能ならばグレンジャー侯の激発を押さえ込む為に、ウェールズは自らグレンジャーへ乗り込むことを早々に決めていた。無論、興味本位の物見遊山ではない。皇太子としての地位で威圧できれば、余計な戦が一つ減らせる。
「陛下の名代を誰かに任せるにしても、人選に手間取って時間を浪費するのは愚かだからね。
 せっかく頂戴した特別のご許可が無駄になる。
 ふふ、それに相手は侯爵だ、皇太子ならば突然訪ねても失礼には当たるまい?」
 ウェールズの進言を聞いたジェ−ムズ一世は、園遊会参加の予定が遅れることもやむなしと、親善艦隊に組み込まれていた艦艇をグレンジャーに向けることを即断した。
 これを受けてウェールズは、親善艦隊として出航する予定だった戦列艦のうち、御召艦として砲を半分ほど降ろされていた『ヴァリアント』を除く三隻を主力として、ロサイスより派遣されてきたフリゲートなどを含めた計十二隻を率いてロンディニウムを出立したのだ。同行する陸戦隊や竜騎士まで含めれば、グレンジャー側が少々戦力を増やしたところで力押しさえ出来よう。
「しかし、グレンジャーには驚かされたよ。
 大陸の端にあるのをいいことに、独立を狙っていたとはね」
「捕らえられた者たちが自白したところによりますと、正統なる王権の復旧と、我がアルビオンよりの独立が目的であるとか。
 正統なる王権を主張するならば独立の必要はないと、私などには思えますが、それはともかくも……。
 まあ、それこそ諸侯各家、過去の王朝の血を一滴も含んでいないことの方が不思議ではありますが、幾つか判りかねることもございます」
「旗印にしても、グレンジャーではな。
 いささか血が薄いかな?」
「はい、より正統に近い他家をさしおいての旗揚げ、解せませぬ。
 それにあのような北の端では、多少土地が肥えていたところで、すぐに行き詰まりを見せましょう。
 そのまま国として成り立つとは、とても思えませぬな」
 グレンジャーは、アルビオン中の各諸侯領の中では確かに豊かな土地ではあるのだが、いかんせん、アルビオンは他国と違って空中に浮かぶ大陸であった。独立に他国からの支援を受けようにも、多少ならず面倒な位置取りなのだ。
 採算を低く見積もるならば、航路を大きく迂回させることで、大抵の港はハルケギニア大陸の各地と交易を結ぶことも出来る。だが、近隣諸侯との連携も見えてこないこの状況で、立国とその後の維持を考えるならば下策という他はなかった。
「そうだね。
 ……私ならばどうするかな?
 他国からの援助を引き出し、王家と対立するに十分な理由を持ち出して周囲も巻き込むか……」
「今のグレンジャーには、そのどちらも欠けておるように思われます。
 前者の理由を通そうとした場合、援助はおろか他国に接触したとの報告さえありませぬから、これは否定されます。
 後者ならば、南西部のダンスターはともかく、隣り合うスターリングに動きがないことが、逆に解せませぬ。
 同じ空賊仲間だと聞き及んでおりましたが……」
 ウェールズも、頭の中で状況を整理してみる。
「スターリングらは、独立までは望んでいなかったのかも知れないね。
 王家に対する嫌がらせついでに、航路を締め上げて利益も得た。
 そこまでで済めば、さぞや満足だっただろうに。
 案外、私たち以上に驚いているかな?」
「かも知れませぬな」
「素直に縄につくならばよし、そうでないならば……」
「そうでない対応を、ですな。
 どちらにせよ、私としましてはその後の方が頭が痛くあります」
「まったくだ。
 時ならぬ大掃除、になるかな」
 ウェールズは努めて明るく振る舞おうとしていたが、目前で畏まる文官の表情を見る限り、それは失敗に終わったようであった。

 翌々日、本来ならばトリステインへ出立する日であったが、ウェールズの艦隊はグレンジャー侯爵領に達しようとしていた。
 大きな領地ではあるが、城までは竜であればほんのひと飛び、フネでも半刻はかかるまいという距離だ。既に高度は落とし、全艦が戦闘の準備を整えている。天気がよいので、山霞もなく遠くの景色までよく見えた。
「いよいよですな」
「ああ、参謀長。
 艦長も予定通りに」
「は、殿下。
 ……使者の準備は出来ておるか?」
「竜使、発艦準備よろし」
「よし、出せ」
「こちらも行くぞ。副長、信号旗用意、『我ニ続ケ』!」
「アイサー」
 ウェールズの下命を合図に艦隊は陣形を変えた。旗艦である二等戦列艦『ヴィジラント』を中心として左に戦列艦、右にフリゲートを配し、艦隊は両翼を広げた鳥のように横へと広がる。
 あとはグレンジャー侯爵の態度次第だが、彼が必ず抵抗すると決まったわけではないから、艦隊より軍使が先行するのだ。
 ウェールズは腕を組み、眼下に広がるグレンジャー領を見据えた。
 
「前檣より合図! 左舷十時に艦影複数!
 進路は十時より三時! 中速!」
 そろそろ侯爵の居城も視界に入ろうかという時になって、見張り所から報告が入った。グレンジャーが抗するならば、フネが配置されるのは城の直上かその周辺である可能性が高いと机上演習では結論づけられていたが、少々当てが外れたらしい。
「十時より三時……こちらの頭を押さえるつもりですな」
「やる気十分だね」
 無論、予想が外れたからと艦隊が足並みを乱すわけではなく、それに合わせた対応がとられる。この場合は、敵の増援が現れた場合と同じ対処が選択され、艦隊は主力と遊撃に分かれて敵を挟撃する予定だった。既に竜騎士は発艦している。数は多くないが、帆を焼くだけでも十分だ。
 しばらく進むうちに、ウェールズらがいる指揮所の窓からも相手のフネやグレンジャーの城が見えてきた。数は五隻、どれも縦横比の大きい高速船のようだ。
 ウェールズは当然ながら激発を押さえようと自らをしてグレンジャーへと乗り込んだのであるが、到着早々に望みは絶たれてしまった。先に送り出した使者も、下手をすれば殺されているかも知れない。
「彼らは城を守ることよりも、風上を選んだようですな」
「ここまで戦意を見せられては、どうにもね。
 私が出向いてきた意味も、半分ほどはなくなったかな?」
 今日のように天気が良ければ視程は数十リーグにも達するが、艦砲の有効射程は二リーグ、約二千メイルもあれば長い方だ。幾度も修正射を繰り返せる上に動かない城門が相手の攻城戦ならばまだしも、互いに複雑な三次元の動きをする対艦戦では、単なる景気づけにしかならない。必中を期するなら、千メイル前後が望ましかった。
 それ故に、敵を発見してから実際に戦闘が行われるまでの間に、かなりの時間が経過する。緊張は保ちつつも、妙に間延びした時間が流れてしまうのが、ハルケギニアに於ける空海戦の常だ。この時間を有効に使える者こそが、真の『船乗り』とも言える。
「敵艦隊との距離、五リーグを割りました!」
「副長、取舵! 運動旗揚げ!」
「宜候! とーりかーじ!」
 艦がゆっくりと傾き、進路が左に向かう。横列がそのまま縦列になるのだ。一旦は風に逆らうことになるが、先手を受け流せるだけの戦力差があれば、こういった無茶もまかり通る。
 合わせるように左翼に並んでいた艦が『ヴィジラント』に続く。
 反対に、右翼に並んでいたフリゲートは敵艦隊の進行方向を押さえにかかった。正面から殴り合うには不向きなフリゲートだが、高速の遊撃部隊としては無視し得るものではない。
「敵艦、発砲!」
 横腹を向けつつある敵の艦列から、白煙が立ち上った。
 少し遅れて、砲弾の風切り音が『ヴィジラント』の前方を通過する。
「ふむ、この距離で撃ってきましたな」
「海賊から逃げる商船が、偶然の命中を期待して撃つことはあるだろうが……。
 参謀長」
「はい、殿下」
「現時刻をもってグレンジャー『元』侯爵並びに侯爵軍を反乱軍と規定する。記録しておけ」
「はっ、了解であります」
 発砲を繰り返す敵の艦列が、徐々に大きくなってくる。
「敵艦との距離、三リーグ!」
「風石機関、一つ下げ」
「アイサー、一つ下げ」
 艦長の指示で艦が微妙に上下する。戦闘時に風石の消費が大きくなる理由でもあるが、ゆるい弧を描いて飛んでくる砲弾に的を絞らせないようにしているのだ。
「予定通り距離二リーグで切り返すぞ!
 全艦左砲戦用意!」
 艦長の下令と同時に伝令が走り、下層の砲甲板からくぐもった怒鳴り声がウェールズのいる指揮所まで届く。
 大きく艦を傾けて急旋回をする切り返し術は、空海戦ではよく使われる戦術の一つだが、幾ら綱で動きが制限されてはいても、大砲が艦内で暴れては大惨事になるのだ。下士官達が水兵を叱咤して待避を急がせているのだろう。更には切り返し直後に砲戦が開始されるから、尚のこと彼らは忙しくなるはずだった。
「敵艦まで二リーグ!」
「風石機関、二つ上げ! 面舵一杯!」
「おもーかーじ!」
 構造材のきしみで艦全体を震わせつつ、『ヴィジラント』は大きく右に転舵した。少し乱暴だが、行き足を殺さずに上手く風に乗せる。艦長の腕の見せ所だ。
「後続はどうか?」
「問題なーし!」
「遊撃部隊、回頭はじめました!」
 同時に聞こえてきた敵弾の風切り音は、先ほどよりも余程近い。
 ウェールズも報告につられ、後方を見てみる。一糸乱れぬ、とまでは行かないが、即席の艦隊にしては及第点と言えた。艦隊司令官は概略を指示することはあっても、基本的に個艦の運動には口を挟まないから、戦闘中でも艦長ほどは忙しくない。要約してしまえば、大事なことは引き際の見極めだけなのだ。
 逆に、今の艦隊運動は旗艦を先頭に後続各艦が追随する単縦陣であるから、この『ヴィジラント』の艦長などはウェールズ以上に忙しかった。
「副長、砲戦指揮を執れ!」
「アイサー!
 砲門、開ーけー! 目標、敵先頭艦、統制不要!
 準備出来次第、射撃せよ!」
 ばたんばたんと階下の甲板から砲門の開く音が幾つも響き、続いて艦載砲独特の、水車の歯車が擦れあうような移動音が聞こえてくる。艦上で使いやすいようにと陸上の砲に比べて小さな車輪をつけるので、そのような音になるのだ。
 そろそろこちらの砲撃が始まるかというその時、後方より遠い命中音が聞こえてきた。回頭直後の行き足の分、互いの距離が縮んでいるから、敵艦の弾も当たるようになってきているのだ。
「三番艦『トライアンフ』被弾!」
 船体中央から煙が上がっているが、こちらから見る限り被害はよくわからない。
 続いて今度は、より近い火薬音が船体を震わせる。
 三層ある砲甲板の上層に置かれた砲から順に、こちらの射撃も始まったのだ。下に行くほど重い砲が置いてあるので、当然ながら射撃の準備時間が短く済む口径の小さい砲からの射撃となる。
 ウェールズも敵艦の方に目を向けていたが、突然、がつんという衝撃が『ヴィジラント』に走った。敵弾が命中したのだ。
 命中したのは船尾付近のようだが、それ以上の騒ぎにはならなかった。大口径砲ならば、外装と言わず構造材が引きちぎられ、下手に当たれば一撃で航行に支障が出たりもするが、口径の小さい砲弾では、外装は貫けても内部ではね回るほどにはならない。人に直撃しなければ大した被害は出なかった。
「射撃の間隔や砲弾の威力から推察するに、敵艦の備砲は最大でも二十四リーブル砲、かつ片舷二十門以下、というあたりですな」
「先日捕らえた海賊と同じような性能のフネだね」
「数を揃えられているわけでもありませんから、海賊稼業ならともかく、こちらと正面切って砲火を交えるには少し無理があるかと。
 それが判らない連中ではない、とは思うのですが……」
「ふむ、侯爵の命令かな? いや……」
 参謀の推測通りならば、艦隊同士の単純な火力比は八対一程度、砲の口径まで考慮すれば十倍以上となってしまう。それでも侯爵の命令ならば、こちらに被害を与えつつ耐えて善戦するしか彼らに残された道はない。
 だが、グレンジャー侯爵にそこまでの人徳があっただろうか?
 ウェールズは徐々に火力の衰えていく敵艦列を眺めながら、ふと脳裏をよぎった疑問にとらわれていた。

 結局、戦闘は短時間で決着がついた。風石機関に命中したのか墜落したものが二隻、残りは船殻が穴だらけになって沈黙した。やはり、圧倒的な火力差が物を言ったのだ。
 ウェールズは艦長らと協議して頭を押さえていたフリゲートを呼び戻し、ほぼ砲撃の途絶えた敵艦の拿捕を命じた。『ヴィジラント』も含めた戦列艦はそのまま地上に降り、陸戦隊を降ろす作業に入る。
 城は依然として沈黙を保ち、隣接する街にも人影はない。奇襲を受けないようにと十分な警戒を命じて陸戦隊を送り出すと、あとは侯爵の捕縛を待つばかりとなった。
 いくら王の名代でも、安全の確認出来ぬ場所に皇太子がのこのこと出かけるわけにはいかないのだ。全てのお膳立てが整えられるまでは禁足されているに等しいが、ウェールズにもそのことが理解できるだけに文句は言えなかった。法務担当の文官とともに、大人しく『ヴィジラント』の艦内で報告を待つ。
「しかし、どうにもね」
「いかがなさいましたか、殿下?」
「うん。
 ……怪我をしたり亡くなったりした兵士達には申し訳ないが、地方叛乱の討伐とはこのように予定通りに進む様なものだったかなと、少し疑問に思ってね。
 突発事態を望むわけではないが、どうも腑に落ちない」
「酒場の押し込み強盗を取り押さえるのと、基本的には代わりありませんからな。
 兵士の代わりに軍艦を差し向けるだけのことです。
 それにこちらがなりふり構わず、園遊会への参加艦さえも投入して急襲を選択したということが、この結果をもたらしたと言えます。
 グレンジャー侯にすれば、それこそ予定外だったのではないでしょうか?
 急派される小艦隊程度ならば独力での排除も十分と思っていたところに、殿下直卒の戦列艦を含む艦隊では、自棄をおこすには十分かと」
「身も蓋もないね。肯定せざるを得ないが」
 ウェールズは意味もなく窓の外に目をやった。グレンジャーの町並みは見えるが、兵士もフネもここからは見えない。
「この状況に至っては、法理の上でも情の上でも、流石に庇い立ては出来ませぬ」
「当初は助命の上、国外への追放なども考慮していたんだがな。
 こちらの望むような筋書きには……」
 ウェールズらの耳に、船体さえも震わせるる轟音が複数重なって聞こえたのは、その時だった。
 何事かと文官と二人顔を見合わせ、頷き合って指揮所へと走る。
「艦長!」
「殿下、してやられましたぞ!
 奴らめ、拿捕のためにと横付けしたフリゲートごと……ええい、忌々しい!」
「自爆、したのか……」
 憤る艦長に案内されて登った指揮所直上の露天見張り所からは、立ち上る煙が見えるばかりだった。

 事態の収拾に丸一日を余計に費やしてウェールズが引き上げを命じた時、ロンディニウムへと帰還する艦隊は半数になっていた。
 現地の治安維持のためにと残した三隻も差し引いての数だが、敵船の爆沈に巻き込まれたフリゲート三隻とその乗組員の大半が喪われたことは大きな痛手だった。敵艦の拿捕を命じられたフリゲートの艦長以下、乗組員らが警戒をしていなかったわけはないだろうが、結果を見れば空軍側の油断を論じられても反駁は難しい。
 その上、当の侯爵も含め主立った家臣のことごとくは戦死または行方不明、殆どが自爆した武装商船に乗り組んでいたと屋敷に残っていた僅かな使用人達から聞かされては、それ以上の追求は出来なかった。
「どうにも釈然としないんだよ。
 特に侯爵が、家臣だけでなく妻子を道連れに爆死したことが引っかかる」
「生き残りの証言でも、間違いないようですな。
 戦場へと妻子を連れて行くのは愚か極まりない行為に思えますが、或いは戦況次第でそのまま領地を捨てて逃亡することも予定していたとすれば、フネに同乗させることそれ自体は不思議ではありませぬ。
 ただ、土壇場で自暴自棄に走った点は、私めにも解せませぬな。
 降伏の機会、脱出の機会は十分にありました」
「ふむ」
「事の発端となった他家を巻き込んでの航路の締め上げなどは、憚りながら理にかなう戦術でさえあったと思いますが、正直申し上げて、王政府に事が知れて以後の侯爵の対応は、狂っていたとしか思えませぬ。
 特に、先の艦隊戦などはお粗末に過ぎますな。
 興奮した素人が助言も容れずに指揮を執っていたと言われた方が、まだ納得出来ます」
「……君もそう思うか」
「はい」
 ウェールズらが園遊会へと出席する間にも詳しい調査が行われるだろうが、当事者の大半が死していては大した情報にもなるまい。
 心中にどうにもならない不快感を抱え、ウェールズはため息を一つ吐き出した。
 その姿は悩める父王に瓜二つであったが、そのことを指摘する者は誰もいなかった。


 だが、空賊による航路襲撃より今回の叛乱までが、たった一本の細い糸で操られていたとは、ウェールズらも気付くことはなかっただろう。
 当事者の口が閉ざされては表に出てくるまいが、グレンジャー侯爵は精神を狂わせる魔法薬をそれと知らずに与えられ、自意識を巧みに誘導され、増長の末に狂喜に支配され、叛乱の首謀者として使い潰されたのだ。
 糸の引き手は、額に古代語の刻まれた一人の女性だった。

「心を壊す魔法薬も、使い方ひとつね。
 ふふ、単に心を狂わせるのに使うのは勿体ないくらい」
 狂喜に満ちた笑い声がグレンジャーにほど近い暗い森の中で響いたが、それに気付いた者は誰もいなかった。
「薄めて徐々に使うなんて、作らされたエルフは考えもしなかったでしょうけれど……」
 フードの上から、彼女は自身の耳元を愛おしそうに押さえた。そこには主の声を彼女に伝える、魔法の耳飾りがつけられているのだ。
「エルフの手によるとは言え、処方の伝えられている魔法薬でさえこの程度のことが出来るもの。
 これ以上の力を持つ『アンドバリの指輪』とやらは、さぞ遣い出があるのでしょうね。
 うふふ、この白の国全土を壮大な遊技盤に仕立てて見せますわ。
 ああ、ジョゼフ様……」

 彼女の名はシェフィールド。
 ガリアの現王を主に持つ、伝説の使い魔だった。






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