ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
第六十八話「偽名(後)」扉の向こうのアンリエッタは既に夜会着を身につけており、リシャールを待ってくれていたようだ。若干大人しいデザインの夜会着は、お忍びであることを意識して選ばれた物だろうか。 「リシャール、眼鏡はもう出来上がったのかしら?」 「はい、後は姫殿下のお顔に合うように、形を整えて組み合わせるだけです」 「ああ、そうでしたわね。 早速お願いするわ」 服飾担当の女官が呼ばれ、目の幅や耳かけの長さを調整していく。リシャールも二度目とあって、さしたる苦労もなく眼鏡を組み上げた。 完成した眼鏡を受け取ったアンリエッタは満足そうに鏡を覗き込み、あれこれと角度を変えて見入っていた。 「眼鏡の調整はもっと時間のかかるものだと聞いていましたけれど、リシャールは手慣れているのね」 「はい、義姉の場合はレンズの度を調整する必要がありましたが、姫殿下は目が良くていらっしゃいますから、素通しのレンズをご用意すれば調整の必要がございません。 なればこそ、この時間で部品を用意させていただくことができました」 「そうでしたわ、眼鏡は本来、目を悪くされた方が身につけるもの。 わたくし、眼鏡をかけるのも今日が初めてですもの」 自分の顔が普段と違って見えるのが面白いのか、アンリエッタは昼にもまして楽しそうであった。元が良いせいもあるが、愛嬌のある美人に仕上がっている。 「そうそう、わたくし、今日は『アン・ド・カペー』ですから、リシャールも間違えないで下さいましね?」 「はい、『アン』様」 「だめよ、『アン』と呼びなさい」 「……では失礼をして『アン』、と」 「よろしい」 くすりと笑うアンリエッタに、余程普段は窮屈な生活を強いられているに違いないと、リシャールも多少以上に同情的になっていた。義妹であるルイズも、セルフィーユに来たときには随分と開放的になっていただろうか。 それこそストレスの解消なのか、家を傾ける勢いで湯水の如く金を使い、家臣従者を総動員して乱痴気騒ぎをする者さえいるのだ。 それに比べれば、保護者公認のお忍び程度のわがままでそれを済ませているアンリエッタは、リシャールからすれば十分に及第点をつけられる。アルトワ時代の従者生活のせいか、同世代の『子供』のわがままには何かと弱いリシャールであった。 「アンリエッタ、失礼するわね。 もう用意は出来ているかしら?」 軽いノックとともに、四十絡みの貴族を引き連れて王后マリアンヌが入室してきた。リシャールも慌てて居住まいを正し、跪く。 「お母様、モンモランシ伯」 「姫殿下、ご注文の品をお持ちいたしました」 名前と顔で思い出したが、モンモランシ伯爵はリシャールの結婚式の招待客にも名を連ねていた。挨拶も交わしたはずだ。確か水魔法の大家で、魔法薬学の権威だったかと思い出す。 更に続いて入室してきたメイドが捧げ持ったトレイには、小瓶が乗せられていた。アンリエッタの注文による何かの魔法薬だろう。 「ありがとう、早速お願いいたしますわ、モンモランシ伯」 「畏まりました、姫殿下」 モンモランシ伯爵は恭しく小瓶の蓋を開け、杖を取り出して呪文を唱えた。よく聞き取れないが、水と土の魔法のようだった。 きらきらとした霧が小瓶から立ち上り、光の粒となってアンリエッタの髪にまとわりつく。 しばらくすると、アンリエッタの髪はリシャールと同じような金髪になった。毛染めにも魔法薬があるのだなと感心しつつも、これならば、一見でアンリエッタ姫だと見抜ける者は少ないだろうと胸をなで下ろす。 「解除薬はこちらの小瓶に入っております。 呪文は瓶のラベルに書いておきましたので、宜しゅうございますかな?」 「ええ、素晴らしいわ」 モンモランシ伯爵も面目を施して安心したのか、一息をついている様子だった。 「本当に別人ね、アンリエッタ」 「ええ、お母様。今の私は『アン』ですもの。 そうだわ、リシャールも偽名を名乗って下さいな。 わたくし、いくつか名前を用意しましたのよ」 「私もですか!?」 「えーっと、ロベール、オーヴェルニュ、アングレーム、オランジュ、ブリエンヌ……どれがよろしいかしら?」 そこまで必要かとも思ったが、リシャール用の名まで用意されていては断りきれるものでもないのだろう。ここは余興と、姫につきあうしかない。それでも予防線だけは張っておくリシャールだった。 「あの、私が勝手に他家の名を名乗っては、後で問題になりませんでしょうか?」 「大丈夫ですよ、リシャール」 「マリアンヌ様?」 マリアンヌはリシャールの手を取って、彼の瞳をのぞき込んだ。 『王后陛下』と呼びかけると途端に機嫌が悪くなるので、本人の前では名を許されていようがいまいが『マリアンヌ様』で通せと、義父より入れ知恵されていたリシャールである。 「先に娘が挙げた家名は、娘の名乗るカペー家も含め、どれも我が家の持つ名です。 従属家名として私的に持つものですから、問題にはなりません。 わたくしが許可しますわ」 くすりとマリアンヌは笑って見せた。意外と茶目っ気のあるお人らしい。 名前の持ち主が名乗ってもいいと許可しているわけだが、本当にそれで良いのかと心配になる。架空の、それも家名ではない完全な偽名の方がいいような気もしたが、ここは大人しく名を借りた方がよいだろう。 「では、今日に限り、私はリシャール・ド・『ロベール』と名乗らせていただきます」 どれでもよいかと、最初に挙がった名を借りることにする。 「では娘をよろしくね、『ロベール』卿」 「はい、マリアンヌ様」 「さ、行くわよ、『ロベール』卿!」 アンリエッタに引っ張られながらもモンモランシ伯爵に目で会釈すると、彼もこの騒動の大凡を把握しているのか、苦笑気味に頷いてリシャールを送り出してくれた。 前後を白馬に乗った騎士に固められた無紋の黒馬車が向かった先は、恐ろしく大きな天幕の張られた夜会場であった。錬金で建物を造営した方が、手間も費用もかからないのではないか感想を抱くほどだ。ハルケギニア屈指の財力を誇るクルデンホルフに相応しい、立派すぎる会場である。 「間もなく到着いたします」 「ありがとうございます」 護衛の騎士たちは、魔法衛士隊ヒポグリフ隊の隊士から選抜されていた。魔法衛士隊の隊士は、ド・ゼッサール隊長のような腕に覚えのある下級貴族が多いが、中にはワルド子爵のような爵位持ちや上級貴族の子弟が混じっているので、リシャールの応対も丁寧だ。 また、『アン』がアンリエッタであることも彼らには知らされているので、リシャールとしても心強かった。 「では、アン」 「ええ、ロベール卿」 馬車を降りた二人は大天幕へと足を向けた。 アンリエッタはリシャールの差し出した腕にぴったりと体をくっつけて歩きながら、会場の警護についているクルデンホルフの騎士達に見入っている。お忍びは楽しみなものの、ばれたりはしないかと多少は不安もあるのだろう。 義理の姉妹と違って歩く度に胸が当たるのだが、もちろん、態度には出さない。 「あれは暑くないのかしら?」 「多分、暑いと思いますよ。その為の訓練も積んでいるのでしょうけど……」 分厚い重甲冑に長大な戦闘杖という姿は迫力に満ちていてとても頼もしく見えるが、機動力には欠けそうだとリシャールは思った。 概ね正解である。彼らはクルデンホルフの誇る空中装甲騎士団の騎士達で、竜から降ろされて任務に就いているのだ。空中ならば竜の機動力と相まって、重甲冑は防御力を活かした戦闘を行える。だが今は、その華美な装飾の施された重甲冑の姿こそが、国威を示すために必要とされていた。 リシャールは、あの重甲冑はひと揃いで何千エキューになるのだろうなどと俗なことを考えながら、アンリエッタをエスコートして会場へと入っていった。 「ねえ、ロベール卿」 「はい、なんでしょう?」 「夜会って、皆さんは普段何をしていらっしゃるのかしら? わたくしは……挨拶だけで終わってしまうか、決められた予定通りに誰かとお話をするかするだけなのです」 鳥かごから出されて自由を得たはずの小鳥は、かごの外では何をしてよいかわからないらしい。 世間知らずの姫君とそのままの評価を下すのは、少々酷だった。一国の王女ともなれば、その立場故に与えられた環境や教育が精神的生長の大きな比重を占めていることは想像に難くない。 だが、密命を受けるほどに自身も深く関わってしまっている上に、カトレアやルイズとも親交の深いアンリエッタが、本物の『世間知らずのわがまま姫』となってしまっては、疎遠になるならばまだしも、害悪となる可能性さえある。 リシャールもそれほど手慣れているわけではないが、エスコート役としてアンリエッタが楽しめるように、また、彼女に何がしか得られるものがあるように努力しようと決めた。 それは巡り巡って、やがては自身の平穏やセルフィーユの安泰として、見えざる利益となるはずであった。 「私にとってもそう変わるものではありませんが、一つ違うとすれば、その予定を立てるのが私自身である、ということでしょうか。 例えば……『アンリエッタ姫殿下』が夜会に出ておられるならば、やはりご挨拶に伺わないといけないかなと思うわけです」 「まあ」 「少々複雑なことを申し上げると、私にセルフィーユ家のマントを授けて下さったのは姫殿下です。 その私が姫殿下へのご挨拶を無視すれば、私が礼儀知らずと嘲られるだけでなく、叙爵を許された姫殿下の不明と誹られかねません。 ですので私は私の為だけでなく、どれほど他に予定があろうと姫殿下の御為にもご挨拶に伺うのです」 「……本当に大変そうですわね」 少々目を見開いてリシャールを見るアンリエッタに、軽く頷いてみせる。 「ただ私は、幸いなことに顔を覚えていただいております。 大抵の場合は主賓格としてその場におられる姫殿下に、名乗らずとも名をお呼びいただくというのは、一介の諸侯にとってはこれまた大変な名誉でもあります」 アンリエッタにとっては退屈な公務でも、リシャールのような立場の貴族にとっては重要なことだった。ただ、リシャール自身は宮中での栄誉にはあまり重きを置いていない。誹りや侮りを受けないこと、不名誉な噂を自ら立てないことこそが大事だった。 公務について考え込むアンリエッタに、リシャールはもう一言付け加えた。彼女は今日、羽を伸ばしに来ているのだ。 「まあ堅い話はともかくも。 アン、これは『アンリエッタ姫殿下』やカトレアには、くれぐれも内緒にしていただきたいのですが……」 「えっ!?」 「私も男ですからね。 浮気は絶対にしませんけれど、美人がいるならやはり近寄って眺めてみたいものなのです」 「もう、リシャール!」 組んだ腕の上から即座に肘鉄を食らわせるアンリエッタに、意外とお転婆なのかもしれないと、少しだけ彼女を見る目を改めるリシャールだった。 その後、可愛らしく膨れたアンリエッタを宥めつつ会場を巡る。 「どうです、聞き耳を立ててみるのも面白いものでしょう?」 「ええ、本当に。 わたくし、ピカール卿作の宝飾品がそれほど高い評価を受けていたなんて、存じませんでしたわ」 彼女は胸元に手を当て、首飾りを撫でた。 お忍びに合わせたのか、派手さはないが精緻な細工が施された逸品である。もちろん、今話題に出たピカール卿の手による品だと、アンリエッタから教えられていた。 「ええ、でも本当にすごいと思いますよ。 特にこの宝石まわりに飾られた花々、これは見事です。 私は細工物や装飾品を目にすると、どうしても錬金魔術師としての目で見てしまうのですが、これだけの技術を持つピカール卿は、称賛を受けて当然でしょうね」 「あら、ロベール卿もアクセサリーをお作りになるの?」 「拙いものですが、時々は。 我流な上に勉強中ですから、指輪を一つ作るのに何日も掛かったりします。 剣や防具を作る方が、気持ちの上でも楽ですね。 どうにもあの細かい作業は苦手です」 「そう言えば、セルフィーユ家の紋章には、トリステインには珍しく杖ではなく剣が配されておりましたわね。 わたくし、あのときは少し不思議に思っていましたわ。 後からリシャールの……いえ、当主様の二つ名が『鉄剣』とお聞きして納得しましたもの」 「ええ、そうらしいですね」 二人してくすくすと顔を見合わせて笑う。演技も徐々に崩れてきたが、それなりに楽しんでおられるようだと、無理に繕わないことにする。 「あれ、リシャール?」 「クロード!?」 いきなり後ろから声をかけられ驚いたリシャールだが、クロードと知って安堵した。これがもし義父であれば、大騒動になりかねない。 「久しぶり。もう到着してたんだ」 「うん、今日のお昼にね。 ……ごめん、声をかけたらまずかった?」 「どうして?」 「いや、その……」 どうやら、アンリエッタに遠慮しているらしい。無論、彼女が姫殿下だとは気付いていないようだが、クロードはもごもごと何か口を濁していた。 「あら、お知り合い?」 「はい、こちらはアルトワ伯爵家の公子、クロード殿です。 私の幼なじみでもあります」 「クロード・モリス・ド・アルトワです。えーっと……」 「アン・ド・カペーですわ、クロード殿」 そう言えば彼も割に面食いだったかと、アンリエッタを見つめるクロードの視線に内心で嘆息する。 「こちらのアン殿は、カトレアの……ラ・ヴァリエール家の縁戚に当たるカペー家のご息女でね、今日は彼女の親御さんからもよろしくと頼まれているんだ。 僕は結婚しているからね、安心らしいよ?」 用意しておいた言い訳を早速使う羽目になったようだ。 ぼやかしてはいるが、嘘はついていないところがミソである。 「そうなんだ。 いやあ、てっきり浮気してるのかと……」 「しないってば!」 知ってるくせにと思いながらもクロードを見やると、彼の方でも笑っていた。どうやら、からかわれただけらしい。 「ふふふ、ロベール卿のお友達は楽しい方ね」 「ロベール卿?」 当然ながら、クロードは不思議そうにリシャールの方を見た。 「うん、今日の僕はお忍びなんでね。 セルフィーユ子爵の方はお休みしてるんだよ」 アンリエッタが気に病んだりせぬようにと、押しつけられた偽名ではあるが、自ら名乗ったように努めて明るく振る舞う。楽しんで貰わないと、道化た密命を引き受けたことも無に帰すのだ。 「リシャールは随分とおもしろそうなことしてるんだなあ。 僕も今度、偽名を名乗ってみようかな」 「伯爵様には内緒にね?」 「うふふ、カトレア殿にも?」 「アン……」 アンリエッタの方も、自分がどうやらアンリエッタだと気付かれないことに安心したのか、次第にリシャールらの会話に入ってくるようになった。 クロードの人当たりのいいのんびりとした性格に、彼女の方も気を許したらしい。 幸いにして知り合いのうち、夜会で出会ったのはクロードだけであった。それでも、帰りの馬車でリシャールにもたれ掛かって寝るアンリエッタに目をやりながら、普通の夜会のほんの一部は味わってもらえたかなと、及第点をつける。 彼女の寝顔はとても満足そうに見えたが、これはリシャールの欲目が入っているかも知れなかった。 ちなみに翌日開かれたトリステイン主催の大夜会にて、アンリエッタも含めて明らかに眼鏡をかけた若い女性が多いことに気づき、また新たな冷や汗を流すリシャールであった。 ←PREV INDEX NEXT→ |