ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
第六十八話「偽名」




 ユニコーン仕立ての馬車に揺られることしばらく、リシャールは王家の宿営地へと到着していた。
「ルイズは……姫殿下が僕をお召しになった理由は知っているの?」
「知らないわ。
 さっきまでは、姫様と一緒にお昼寝してたんだけど……。
 起きたときには、馬車の用意も出来てたもの」
 使者に立たされたルイズの方も、聞かされてはいないようだ。
 リシャールは、明らかに乗り心地の良かった王家の馬車を振り返り、軽く深呼吸をする。魔法仕掛けなのか、アスファルトの舗装道路をエンジンで走る乗用車を知っている身からしても遜色ないほどで、リシャールを驚かせていた。
「ド・ゼッサール殿は何かご存じですか?」
「いえ、私も存じませぬが……」
 露払いよろしく、二人を先導する魔法衛士隊長に聞いてみるも、こちらも同じらしい。少々不安ではある。
 先日、眼鏡の美人を連れて夜会に出た折に怒られはしたが、その場で誤解は解けたし、失点も特になかったように思う。
「でも、リシャール」
「なあに?」
「悪い話じゃないと思うわ」
 ルイズはにっこりと笑って言い切った。
「だって姫様、すごく嬉しそうだったもの」
「そうでしたな。
 姫殿下は確かに楽しげであられましたぞ、『鉄剣』殿」
 ド・ゼッサールにまで太鼓判を押されては、何を言えようはずもない。
 リシャールは、悪いことでないならば少々忙しくなっても構わないかと、気持ちを切り替えることにした。

「姫殿下、セルフィーユ子爵をお連れしました」
 連れて行かれた先の部屋では、アンリエッタ姫に加えてマリアンヌ王后までがリシャールを待ちかまえていた。
「ありがとう、ルイズ。ド・ゼッサール隊長もご苦労でした」
「は、ありがたき幸せ」
 確かに二人の言うように、アンリエッタだけでなく、マリアンヌまでもが笑顔である。
 ともかく、無事に乗り切らねばならない。リシャールは王家の二人の前に跪いた。
「リシャール・ド・セルフィーユ、参上いたしました」
「ああリシャール、畏まらなくてもいいの。
 お立ちになって」
「失礼します」
 視線を合わせたアンリエッタは、再びにっこりと微笑んだ。
「リシャール、あなたに少々尋ねたいことがあります。
 ……『恋人の出来る魔法の眼鏡』ってご存じよね?」
「は!?」
 思わず素面に戻りルイズの方を振り返ると、驚きの中にも微妙に気まずげな表情が見え隠れしていた。
 エレオノールに贈った眼鏡のことで十中八九間違いないのだろうが、どのような尾ひれが付いてそうなったのか、リシャールとしても是非知りたいところである。
「なんでもその眼鏡をかけた女性には、必ず恋人が出来るとか。
 ラ・ヴァリエール家に代々伝わる秘宝中の秘宝で、あまりにも強力な魔力故に、普段は封印されているとも聞きしましたわ」
「そうね、昨日の晩餐会でも噂になっていたわね」
 マリアンヌまでもが相槌を打つことに、噂の規模を想像したリシャールは背中に冷や汗が流れ出すのを感じた。
 無論リシャールは、そのような噂話をただの一度も聞いたことがない。
 もっとも、舞踏会では東屋に逃げ込み、晩餐会では男性中心の盛り上がりに欠ける席についていたから、噂が耳に入らなくとも当然ではあった。
「でも、本当は違うのよね?
 わたくし、ルイズから教えて貰いましたもの」
「ラ・ヴァリエールの名に遠慮して直接問うことは躊躇われていたのでしょうね、皆さん詳しいことはご存じないようでしたが……」
「エレオノール殿がかけていた魔法の眼鏡、あれはリシャールが作ったのよね?」
 アンリエッタにじっと見つめられ、リシャールは渋々ながら首肯した。
 ただ、夢を砕いては申し訳ないとは思いつつも、間違いだけは訂正させて貰うことにする。
「はい、姫殿下。
 義姉エレオノールの身につけていた眼鏡は、確かに私の手による品です」
「まあ、やはり!」
 嬉しそうな声を上げるアンリエッタに内心でげんなりとしながらも、先を続ける。
「ただ、その……申し上げにくいのですが、あの眼鏡には特別な魔法は一つもかけておりません。
 材料を作って形を整える時にかけた錬金と硬化、材質強化、そして仕上げた後にかけた固定化。
 これだけでございます」
「あら、そうですの?」
「はい、姫殿下。……始祖に誓いまして」
 そもそも複雑な仕掛けを持つマジックアイテムの制作は、今のリシャールには無理であった。高値で取り引きされてセルフィーユ家の屋台骨になっている『亜人斬り』でさえ、突き詰めれば話題に上っている眼鏡と大差のない魔法しか使っていない。
 少々残念そうなアンリエッタであったが、制作者であるリシャールの言に納得はしたようだ。
 ただ、そのまま突き放すのも姫君のご機嫌を損ねるかと、一言付け加えておく。
「ですが姫殿下、全く同じものならば、作ることはそう難しくはありません。
 お命じ戴ければ、すぐにでも」
 アンリエッタは少し考えていたが、何かを思いついたのか、再び笑顔になってリシャールへと向き直った。
「では、お願いしてもよろしくて?」
「はい、承りました」
 リシャールも一礼し、眼鏡を作る算段を思い浮かべた。アンリエッタは視力が悪いわけではないようだから、一番時間と手間のかかるレンズ製作が随分と楽に済みそうだ。
 もしも、リシャールが本当に魔法の掛かった『恋人の出来る魔法の眼鏡』が作れるとして、それをアンリエッタに渡したことが原因で彼女に恋人が出来たりすれば、スキャンダルの原因を作った人物として目も当てられないことになりもしようが、その点だけは全く心配がない。
 誰がどう調べたところで、伊達眼鏡以外の何物でもないのだ。
「これがまず一つね。
 その……ルイズ、ド・ゼッサール隊長。
 申し訳ないのだけれど、お二人は退室をお願いします」
 アンリエッタには、リシャールにまだ何か用があるらしかった。こちらが本題であろうかと、態度には出さず気を引き締める。
「……はい、わかりました」
「は、失礼いたします」
 ルイズは何か言いたげな目でリシャールとアンリエッタを見ていたが、姫殿下の命には逆らえない。大人しく一礼をすると、ド・ゼッサールに伴われて彼女も退出した。
 扉が閉まったのを確認したアンリエッタは、母マリアンヌに一つ頷いてから杖を振るい、サイレントの呪文を部屋に行き渡らせた。重要な話かも知れないと、身構える。
「早速だけどリシャール、先ほどの眼鏡の件とは別に、あなたにお願いがあります。
 いいこと、これはルイズにも内緒ね?」
「はい、姫殿下」
「今夜わたくしを伴って、夜会に出席していただきたいの」
 これはまた、どういう風の吹き回しであろうか。
 しかもルイズらを退席させての密命とあっては、身構えざるを得ない。義姉らと違い、夜会のエスコート役ぐらいならと、気楽に引き受けられる相手ではないのだ。
 だが、拒否を出来ようわけもない。相手は王家の姫君だった。
「……何か、特別なことでもありましたのでしょうか?」
「リシャールは普通で構わないわ。
 先日、エレオノール殿やルイズをエスコートしていたように、わたくしにも接して下さればよろしいの。
 特別なのは、そう、わたくしの方ね」
 ふふふと、アンリエッタは楽しそうに微笑んだ。
「リシャール、今夜はクルデンホルフ大公主催の夜会があるのだけれど、わたくし、それには出席しないことになっていますの。
 代わりに、『アン』という名の小貴族の娘が、あなたに伴われて出席するのよ。
 ……リシャール、おわかり?」
 なるほど、人払いも頷けた。いわゆるお忍びというものであろう。
 挨拶を受けるだけでも、人々が列を作るアンリエッタである。年相応の少女として彼女を見るならば、さぞや退屈に違いない。多少は理解を示すリシャールだった。
 だが考えてみれば、正規のエスコートではないだけましかもしれない。そんなことになれば、政治的にも社交的にも目だち過ぎる。下手を打てば、やれ王配だなんだとまでは騒がれずとも、少々以上に困ったことにもなるだろう。
 その心配だけはなさそうなのが救いだが、リシャール自身の気持ちとしては、都合の悪くなった子供のごとく、おなかが痛いので今日はお休みしますと言いたいところでもあった。立候補者を募れば、トリステインの花と謳われる姫君のこといくらでも手が挙がるだろうに、何故に自分がと首を傾げざるを得ない。
「リシャール、申し訳ないけれど、娘のわがままを許してあげてね。
 ……王家主催の公式行事を休ませるわけにはいかないわ。
 でも、この娘にもたまには羽を伸ばさせてあげたいのよ」
「もう、お母様ったら……」
「それに、リシャールなら安心だわ。
 結婚もなさっているし、その愛妻家振りも公爵ご一家からたっぷりと聞かされていますもの。
 その上貴方は、あの『烈風』カリンの弟子なのでしょう?
 娘の護衛としても、頼りにしていますね」
「まあ、それは本当ですの!?
 『烈風』カリン! かつてトリステイン最強を謳われた、伝説の騎士ではありませんか!」
「えっと、まあ……」
 リシャールは、その『烈風』カリンと一緒のフネで、姫殿下もこちらにおいでになったでしょうに、とは口に出来なかった。大喜びで勢いづく娘に対し、リシャールと目を合わせたマリアンヌが柔らかい笑顔で指を一本口元にあて、しーっと沈黙を促したからだ。
 どうやらマリアンヌは『烈風』の正体を知っているようだが、アンリエッタには教えたくないらしい。リシャールも僅かに頷き返した。
「おほん。
 ……ともかくも眼鏡とエスコートの件、お願いしますわね」
「はい、姫殿下」
 もとより断れる相手ではない。
 それに、どちらも今日中には済ませられる内容とあって、リシャールは幾分緊張を解いた。

 小部屋を借りて眼鏡の部品を作りながら、知り合いと夜会でばったり会ったときの言い訳などを考えていると、作業を終える頃には、既に夕闇も深くなっていた。
 後はアンリエッタの目の幅などに合わせて調整し、仕上げる必要があるのだが、これは先に話を通していたので問題ない。ぺたぺたと姫君のご尊顔を撫で回すわけにもいかないので、服飾を担当する侍女を借りる算段もつけてある。
 それにしても、予定のない日で幸いだった。リシャールと同じく、王家の方でも、アルビオン親善艦隊の到着延期がアンリエッタに休暇を与える余裕を持たせたのだろうか。
「セルフィーユ子爵様、姫殿下がお召しでございます」
「すぐに伺います」
 お忍び故にと渡された無紋のマントを身につけ、作ったばかりの部品をひとまとめにすると、侍女に先導されてアンリエッタの私室へと向かった。
 扉の向こうのアンリエッタは既に夜会着を身につけており、リシャールを待ってくれていたようだ。若干大人しいデザインの夜会着は、お忍びであることを意識して選ばれた物だろうか。
「リシャール、眼鏡はもう出来上がったのかしら?」
「はい、後は姫殿下のお顔に合うように、形を整えて組み合わせるだけです」
「ああ、そうでしたわね。
 早速お願いするわ」
 服飾担当の女官が呼ばれ、目の幅や耳かけの長さを調整していく。リシャールも二度目とあって、さしたる苦労もなく眼鏡を組み上げた。
 完成した眼鏡を受け取ったアンリエッタは満足そうに鏡を覗き込み、あれこれと角度を変えて見入っていた。
「眼鏡の調整はもっと時間のかかるものだと聞いていましたけれど、リシャールは手慣れているのね」
「はい、義姉の場合はレンズの度を調整する必要がありましたが、姫殿下は目が良くていらっしゃいますから、素通しのレンズをご用意すれば調整の必要がございません。
 なればこそ、この時間で部品を用意させていただくことができました」
「そうでしたわ、眼鏡は本来、目を悪くされた方が身につけるもの。
 わたくし、眼鏡をかけるのも今日が初めてですもの」
 自分の顔が普段と違って見えるのが面白いのか、アンリエッタは昼にもまして楽しそうであった。元が良いせいもあるが、愛嬌のある美人に仕上がっている。
「そうそう、わたくし、今日は『アン・ド・カペー』ですから、リシャールも間違えないで下さいましね?」
「はい、『アン』様」
「だめよ、『アン』と呼びなさい」
「……では失礼をして『アン』、と」
「よろしい」
 くすりと笑うアンリエッタに、余程普段は窮屈な生活を強いられているに違いないと、リシャールも多少以上に同情的になっていた。義妹であるルイズも、セルフィーユに来たときには随分と開放的になっていただろうか。
 それこそストレスの解消なのか、家を傾ける勢いで湯水の如く金を使い、家臣従者を総動員して乱痴気騒ぎをする者さえいるのだ。
 それに比べれば、保護者公認のお忍び程度のわがままでそれを済ませているアンリエッタは、リシャールからすれば十分に及第点をつけられる。アルトワ時代の従者生活のせいか、同世代の『子供』のわがままには何かと弱いリシャールであった。
「アンリエッタ、失礼するわね。
 もう用意は出来ているかしら?」
 軽いノックとともに、四十絡みの貴族を引き連れて王后マリアンヌが入室してきた。リシャールも慌てて居住まいを正し、跪く。
「お母様、モンモランシ伯」
「姫殿下、ご注文の品をお持ちいたしました」
 名前と顔で思い出したが、モンモランシ伯爵はリシャールの結婚式の招待客にも名を連ねていた。挨拶も交わしたはずだ。確か水魔法の大家で、魔法薬学の権威だったかと思い出す。
 更に続いて入室してきたメイドが捧げ持ったトレイには、小瓶が乗せられていた。アンリエッタの注文による何かの魔法薬だろう。
「ありがとう、早速お願いいたしますわ、モンモランシ伯」
「畏まりました、姫殿下」
 モンモランシ伯爵は恭しく小瓶の蓋を開け、杖を取り出して呪文を唱えた。よく聞き取れないが、水と土の魔法のようだった。
 きらきらとした霧が小瓶から立ち上り、光の粒となってアンリエッタの髪にまとわりつく。
 しばらくすると、アンリエッタの髪はリシャールと同じような金髪になった。毛染めにも魔法薬があるのだなと感心しつつも、これならば、一見でアンリエッタ姫だと見抜ける者は少ないだろうと胸をなで下ろす。
「解除薬はこちらの小瓶に入っております。
 呪文は瓶のラベルに書いておきましたので、宜しゅうございますかな?」
「ええ、素晴らしいわ」
 モンモランシ伯爵も面目を施して安心したのか、一息をついている様子だった。
「本当に別人ね、アンリエッタ」
「ええ、お母様。今の私は『アン』ですもの。
 そうだわ、リシャールも偽名を名乗って下さいな。
 わたくし、いくつか名前を用意しましたのよ」
「私もですか!?」
「えーっと、ロベール、オーヴェルニュ、アングレーム、オランジュ、ブリエンヌ……どれがよろしいかしら?」
 そこまで必要かとも思ったが、リシャール用の名まで用意されていては断りきれるものでもないのだろう。ここは余興と、姫につきあうしかない。それでも予防線だけは張っておくリシャールだった。
「あの、私が勝手に他家の名を名乗っては、後で問題になりませんでしょうか?」
「大丈夫ですよ、リシャール」
「マリアンヌ様?」
 マリアンヌはリシャールの手を取って、彼の瞳をのぞき込んだ。
 『王后陛下』と呼びかけると途端に機嫌が悪くなるので、本人の前では名を許されていようがいまいが『マリアンヌ様』で通せと、義父より入れ知恵されていたリシャールである。
「先に娘が挙げた家名は、娘の名乗るカペー家も含め、どれも我が家の持つ名です。
 従属家名として私的に持つものですから、問題にはなりません。
 わたくしが許可しますわ」
 くすりとマリアンヌは笑って見せた。意外と茶目っ気のあるお人らしい。
 名前の持ち主が名乗ってもいいと許可しているわけだが、本当にそれで良いのかと心配になる。架空の、それも家名ではない完全な偽名の方がいいような気もしたが、ここは大人しく名を借りた方がよいだろう。
「では、今日に限り、私はリシャール・ド・『ロベール』と名乗らせていただきます」
 どれでもよいかと、最初に挙がった名を借りることにする。
「では娘をよろしくね、『ロベール』卿」
「はい、マリアンヌ様」
「さ、行くわよ、『ロベール』卿!」
 アンリエッタに引っ張られながらもモンモランシ伯爵に目で会釈すると、彼もこの騒動の大凡を把握しているのか、苦笑気味に頷いてリシャールを送り出してくれた。

 前後を白馬に乗った騎士に固められた無紋の黒馬車が向かった先は、恐ろしく大きな天幕の張られた夜会場であった。錬金で建物を造営した方が、手間も費用もかからないのではないか感想を抱くほどだ。ハルケギニア屈指の財力を誇るクルデンホルフに相応しい、立派すぎる会場である。
「間もなく到着いたします」
「ありがとうございます」
 護衛の騎士たちは、魔法衛士隊ヒポグリフ隊の隊士から選抜されていた。魔法衛士隊の隊士は、ド・ゼッサール隊長のような腕に覚えのある下級貴族が多いが、中にはワルド子爵のような爵位持ちや上級貴族の子弟が混じっているので、リシャールの応対も丁寧だ。
 また、『アン』がアンリエッタであることも彼らには知らされているので、リシャールとしても心強かった。
「では、アン」
「ええ、ロベール卿」
 馬車を降りた二人は大天幕へと足を向けた。
 アンリエッタはリシャールの差し出した腕にぴったりと体をくっつけて歩きながら、会場の警護についているクルデンホルフの騎士達に見入っている。お忍びは楽しみなものの、ばれたりはしないかと多少は不安もあるのだろう。
 義理の姉妹と違って歩く度に胸が当たるのだが、もちろん、態度には出さない。
「あれは暑くないのかしら?」
「多分、暑いと思いますよ。その為の訓練も積んでいるのでしょうけど……」
 分厚い重甲冑に長大な戦闘杖という姿は迫力に満ちていてとても頼もしく見えるが、機動力には欠けそうだとリシャールは思った。
 概ね正解である。彼らはクルデンホルフの誇る空中装甲騎士団の騎士達で、竜から降ろされて任務に就いているのだ。空中ならば竜の機動力と相まって、重甲冑は防御力を活かした戦闘を行える。だが今は、その華美な装飾の施された重甲冑の姿こそが、国威を示すために必要とされていた。
 リシャールは、あの重甲冑はひと揃いで何千エキューになるのだろうなどと俗なことを考えながら、アンリエッタをエスコートして会場へと入っていった。
「ねえ、ロベール卿」
「はい、なんでしょう?」
「夜会って、皆さんは普段何をしていらっしゃるのかしら?
 わたくしは……挨拶だけで終わってしまうか、決められた予定通りに誰かとお話をするかするだけなのです」

 鳥かごから出されて自由を得たはずの小鳥は、かごの外では何をしてよいかわからないらしい。
 世間知らずの姫君とそのままの評価を下すのは、少々酷だった。一国の王女ともなれば、その立場故に与えられた環境や教育が精神的生長の大きな比重を占めていることは想像に難くない。
 だが、密命を受けるほどに自身も深く関わってしまっている上に、カトレアやルイズとも親交の深いアンリエッタが、本物の『世間知らずのわがまま姫』となってしまっては、疎遠になるならばまだしも、害悪となる可能性さえある。
 リシャールもそれほど手慣れているわけではないが、エスコート役としてアンリエッタが楽しめるように、また、彼女に何がしか得られるものがあるように努力しようと決めた。
 それは巡り巡って、やがては自身の平穏やセルフィーユの安泰として、見えざる利益となるはずであった。

「私にとってもそう変わるものではありませんが、一つ違うとすれば、その予定を立てるのが私自身である、ということでしょうか。
 例えば……『アンリエッタ姫殿下』が夜会に出ておられるならば、やはりご挨拶に伺わないといけないかなと思うわけです」
「まあ」
「少々複雑なことを申し上げると、私にセルフィーユ家のマントを授けて下さったのは姫殿下です。
 その私が姫殿下へのご挨拶を無視すれば、私が礼儀知らずと嘲られるだけでなく、叙爵を許された姫殿下の不明と誹られかねません。
 ですので私は私の為だけでなく、どれほど他に予定があろうと姫殿下の御為にもご挨拶に伺うのです」
「……本当に大変そうですわね」
 少々目を見開いてリシャールを見るアンリエッタに、軽く頷いてみせる。
「ただ私は、幸いなことに顔を覚えていただいております。
 大抵の場合は主賓格としてその場におられる姫殿下に、名乗らずとも名をお呼びいただくというのは、一介の諸侯にとってはこれまた大変な名誉でもあります」
 アンリエッタにとっては退屈な公務でも、リシャールのような立場の貴族にとっては重要なことだった。ただ、リシャール自身は宮中での栄誉にはあまり重きを置いていない。誹りや侮りを受けないこと、不名誉な噂を自ら立てないことこそが大事だった。
 公務について考え込むアンリエッタに、リシャールはもう一言付け加えた。彼女は今日、羽を伸ばしに来ているのだ。
「まあ堅い話はともかくも。
 アン、これは『アンリエッタ姫殿下』やカトレアには、くれぐれも内緒にしていただきたいのですが……」
「えっ!?」
「私も男ですからね。
 浮気は絶対にしませんけれど、美人がいるならやはり近寄って眺めてみたいものなのです」
「もう、リシャール!」
 組んだ腕の上から即座に肘鉄を食らわせるアンリエッタに、意外とお転婆なのかもしれないと、少しだけ彼女を見る目を改めるリシャールだった。

 その後、可愛らしく膨れたアンリエッタを宥めつつ会場を巡る。
「どうです、聞き耳を立ててみるのも面白いものでしょう?」
「ええ、本当に。
 わたくし、ピカール卿作の宝飾品がそれほど高い評価を受けていたなんて、存じませんでしたわ」
 彼女は胸元に手を当て、首飾りを撫でた。
 お忍びに合わせたのか、派手さはないが精緻な細工が施された逸品である。もちろん、今話題に出たピカール卿の手による品だと、アンリエッタから教えられていた。
「ええ、でも本当にすごいと思いますよ。
 特にこの宝石まわりに飾られた花々、これは見事です。
 私は細工物や装飾品を目にすると、どうしても錬金魔術師としての目で見てしまうのですが、これだけの技術を持つピカール卿は、称賛を受けて当然でしょうね」
「あら、ロベール卿もアクセサリーをお作りになるの?」
「拙いものですが、時々は。
 我流な上に勉強中ですから、指輪を一つ作るのに何日も掛かったりします。
 剣や防具を作る方が、気持ちの上でも楽ですね。
 どうにもあの細かい作業は苦手です」
「そう言えば、セルフィーユ家の紋章には、トリステインには珍しく杖ではなく剣が配されておりましたわね。
 わたくし、あのときは少し不思議に思っていましたわ。
 後からリシャールの……いえ、当主様の二つ名が『鉄剣』とお聞きして納得しましたもの」
「ええ、そうらしいですね」
 二人してくすくすと顔を見合わせて笑う。演技も徐々に崩れてきたが、それなりに楽しんでおられるようだと、無理に繕わないことにする。
「あれ、リシャール?」
「クロード!?」
 いきなり後ろから声をかけられ驚いたリシャールだが、クロードと知って安堵した。これがもし義父であれば、大騒動になりかねない。
「久しぶり。もう到着してたんだ」
「うん、今日のお昼にね。
 ……ごめん、声をかけたらまずかった?」
「どうして?」
「いや、その……」
 どうやら、アンリエッタに遠慮しているらしい。無論、彼女が姫殿下だとは気付いていないようだが、クロードはもごもごと何か口を濁していた。
「あら、お知り合い?」
「はい、こちらはアルトワ伯爵家の公子、クロード殿です。
 私の幼なじみでもあります」
「クロード・モリス・ド・アルトワです。えーっと……」
「アン・ド・カペーですわ、クロード殿」
 そう言えば彼も割に面食いだったかと、アンリエッタを見つめるクロードの視線に内心で嘆息する。
「こちらのアン殿は、カトレアの……ラ・ヴァリエール家の縁戚に当たるカペー家のご息女でね、今日は彼女の親御さんからもよろしくと頼まれているんだ。
 僕は結婚しているからね、安心らしいよ?」
 用意しておいた言い訳を早速使う羽目になったようだ。
 ぼやかしてはいるが、嘘はついていないところがミソである。
「そうなんだ。
 いやあ、てっきり浮気してるのかと……」
「しないってば!」
 知ってるくせにと思いながらもクロードを見やると、彼の方でも笑っていた。どうやら、からかわれただけらしい。
「ふふふ、ロベール卿のお友達は楽しい方ね」
「ロベール卿?」
 当然ながら、クロードは不思議そうにリシャールの方を見た。
「うん、今日の僕はお忍びなんでね。
 セルフィーユ子爵の方はお休みしてるんだよ」
 アンリエッタが気に病んだりせぬようにと、押しつけられた偽名ではあるが、自ら名乗ったように努めて明るく振る舞う。楽しんで貰わないと、道化た密命を引き受けたことも無に帰すのだ。
「リシャールは随分とおもしろそうなことしてるんだなあ。
 僕も今度、偽名を名乗ってみようかな」
「伯爵様には内緒にね?」
「うふふ、カトレア殿にも?」
「アン……」
 アンリエッタの方も、自分がどうやらアンリエッタだと気付かれないことに安心したのか、次第にリシャールらの会話に入ってくるようになった。
 クロードの人当たりのいいのんびりとした性格に、彼女の方も気を許したらしい。

 幸いにして知り合いのうち、夜会で出会ったのはクロードだけであった。それでも、帰りの馬車でリシャールにもたれ掛かって寝るアンリエッタに目をやりながら、普通の夜会のほんの一部は味わってもらえたかなと、及第点をつける。
 彼女の寝顔はとても満足そうに見えたが、これはリシャールの欲目が入っているかも知れなかった。

 ちなみに翌日開かれたトリステイン主催の大夜会にて、アンリエッタも含めて明らかに眼鏡をかけた若い女性が多いことに気づき、また新たな冷や汗を流すリシャールであった。







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